#30 アイナ

 アイナの表情は喜びに満ちている。完全に自分のパワーに酔いしれている様子だ。

 そこに隙があると見た俺は、地面を蹴り突き進む。

 ステップごとにグンとスピードは増していく。地面すれすれを飛ぶ鳥のように。

 一蹴りごとに増していくスピード……。

 その時、俺が蹴るタイミングに合わせてアイナが地面を踏みつけた。

 全身を使った蹴りは、これまでとは比較にならない超パワー。

 島全体が大きく揺れ、俺は足を踏み外してしまう。まるで階段を踏み外したかのように、全力で。

 島の全ての物体が浮き上がったような振動。大量の土煙が舞、岩は踊る。

 勢いがつきすぎていた俺は転がり続け、踊る地面に何度も叩きつけられる。

 転がる先にはアイナが待ち構えていた。

 俺は慌てて地面を殴り、身体を浮かせてコースを変える。

 だが焼け石に水。

 アイナは素早く場所を移動し、足を後ろに引いた。

 俺はまるで吸い込まれるように彼女の元に転がりこんでいく。

「それっ!」

 アイナのキックが俺に腹に炸裂する。

 手も足も出ない俺はミサイルのように吹き飛ばされる。

 何度もバウンドし、突き出した岩に当たって高く舞い上がる。

 遠くにく見えるアイナは余裕の表情。彼女を中心に蜘蛛の巣状にヒビが入り、周辺は岩が崩れデコボコに。そして大きくすり鉢状に凹み、一本の溝が走る。

 これをほぼ体を動かさずにやってのけたのだから、恐れ入る。

 俺はアリーナを取り囲む森の奥に逃げ込んだ。

「……とんでもないパワーだ」

 パワー差はあろうとも、捉えられなければ勝機があると考えていた。

 それはかなり甘い考えだったようだ。

 絶望的なパワー差だ。

 しかし、言うまでもなく俺が最後の砦だ。ケンジさんたちが次の策を練っているようだけど、恐らく何もできやしない。

 すみません、師匠。約束は守れないかもしれません。

 せめて信頼できるパートナーがいれば……。

 ……っと、いかん、いかん。

 どうも上手く考えがまとまらない。

 俺は首を左右に振り、パンと頬を叩く。

 その時、周りに柑橘系の匂いが充満しているのに気がついた。

 この辺は見知らぬ果実をつける木が群生していた。地面にひび割れはないが、それでも果実が大量に落ちている。

「匂いの元はこれか……」

 とその時、近くで木が倒される音がした。

 俺は気付かれないように高い枝まで飛び上がる。

 上からだとよく分かる、アイナだ。

「マー君、どこ?

 隠れてないで、やりましょう」

 アイナは大木を手で払いながら奥に進む。

 まるでコースを変えることが“負け”であると考えているかのように。

「……あいつ、いつからあんな“脳筋”になったんだ?」

 俺は小さくため息をついた。

 ポシェットから赤い液体が入ったカプセルを取り出した。

 大きさは一口サイズの小さな物。

「やはり……使わざるをえないか……」

 これは……毒だ。

 服用することで即あの世行き。

 皮膚に触れても効果があり、この場合は苦しみが長時間続き、むごたらしい死を迎えることになる。

 強力なので、逆に使い道が難しい。

 例えば毒が跳ねて俺にかかる可能性もある。

 単純にこの毒は、差し違えを狙った物と言って良い。

 ただしアイナと差し違えてもオキエが残る。それでは俺たちの負けだ。

 突然、木をなぎ倒す音が止んだ。

 俺はポシェットにカプセルを戻し、そちらに向かった。

 道すがら柑橘系の果実の匂いがツンとくる。

「……アイナだ!」

 アイナは身体を反らせ、大きく息を吸っていた。

 空気砲の準備だ。

 あいつは、この森を吹き飛ばそうとしている。

 確かに今のあいつなら可能だろう。

 今、気付いた。

 わざとらしく木を倒して進んでいたのは、俺を誘導するためか!? 

「でも、空気砲は欠点が多い技でもあるんだぜ」

 俺は背後に回り込みながらポシェットを開けて例のカプセルを取り出す。中で赤い液体がタプンと波打つ。

 少し考えて別のカプセルに変えた。

 こちらは茶色い粉末で満たされたカプセルだ。

 俺は少しひねって蓋を緩めた。これで簡単に中身がばらけるはずだ。

 ヒョイとアイナに向かってカプセルを投げる。

 適当に投げたが、アイナの強力な吸引力に引かれ軌道が変わる。

 そして、カプセルの蓋がはずれた!

 茶色い粉末が包み込み、アイナはそれを一気に吸い込んでしまう。

「やったっ!」

 アイナがむせはじめた。

 肺の中の圧縮された空気が一気に吐き出され、周りに茶色い粉末が舞う。

 アイナの咳は止まらない。

 俺は飛び降り、アイナの背中に蹴りを入れる。

 咳き込むアイナの筋肉は弛緩しているため、攻撃が良く効く。

 身体のバランスを崩しデタラメに手足を動かして反撃してくるが、避けるのは簡単だ。

「どうだい? コショウの味は。

 思いっきり吸い込むとキツいだろ?」

 目や鼻にも入ったらしく、アイナの顔はぐしゃぐしゃだ。

 そして懐に入りボディに一発、二発、三発目でついに崩れ落ちた。

 俺は後ろに回り込み赤いカプセルを取り出す。

 迷う猶予はない。

 左腕でアイナの首を取る。

 蘇る懐かしい感覚。あのしなやかな肉体が、今腕の中にある。失って初めて分かった。

 ……そして、さよならだ。

 アイナは何かわめいているが、俺の耳に届かない。

 いや、俺は届かないフリをしているのだ。

 出会った頃の彼女、初めて互いの秘密を暴露した頃、一緒に野山を駆けまわる日々、引きこもってからも毎日会いに来たあいつ、この世界に来て一緒にした冒険。

 楽しい思い出ばかりが蘇る。

 アイナへの最後の言葉が、こんな薄汚い物になるとは思いもしなかった。

 俺はその言葉を打ち消すように彼女の口にカプセルを入れた。

 そして素早くその場を離れた。

「う……う……うがががぁぁぁぁぁ……」

 女は獣のような声をあげはじめた。

 目から、鼻から、口から、耳から赤い液体が噴き出しはじめる。

 喉をかきむしり、胃の中の物を吐き出し、転げ回る。

 転げ回る少女には木をなぎ倒すパワーは残っていなかった。

 仰向けになると目を大きく見開き、ピクンピクンと大きく身体を震わせる。

 左手がゆっくりと空を指さし、突然崩れ落ちた。


 気分が悪くなってきた。

 俺は背を向け走り出す。

 とにかく“アレ”を見たくはなかったのだ。

 かつてアイナだったアレ。

 いかなる理由があろうと、それをやってはいけなかった。

 しかし、どうすれば良かったのだ?

 アレを放置したら世界が滅ぼされる。

 俺はただ、ただ混乱し、気がついたら吐いていた。

 目眩がしてきた……。目眩?

 そう言えば身体の自由も……。

 え? 何が……何が起きている??? まさか……。

 顔から地面に崩れ落ち、意識が遠くなる……。

 鼻にツンと柑橘系の匂い……。

 ああ……あの果実か……。

 いや、これは果実が発酵している!この果実はアルコールを造ってるんだ!!

 俺は今、酔っ払ってる……。

「やってくれたね……」

 何者かが近づいてくる。

 俺は薄れ行く意識の中でそちらに顔を向ける。

「……ま、まさか……ア……イナ?」

 確かにそう見える。

 まさか……あれで死んでいなかったのか?

 そいつは無言で俺の腹を蹴り飛ばした。

 口から内臓が飛び出るような衝撃と共に俺は吹き飛んだ。

 数本の木をなぎ倒し、それでも勢いは止まらずアリーナにたたき出される。

 俺は壊れた人形のように地べたに転がる。身体は酔いと衝撃で動かせない。

 そいつは、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

「やってくれたね……マー君」

 間違いない、アイナだ。

「な……なぜ……生きてる……」

 アイナは俺の胸倉を掴み、鬼のような形相で睨みつける。

「ああ、死んだよ。

 あれは私のクローン。

 “目”として使ってたんだけどね。

 だいたい私ほどのパワーはなかったでしょう?

 なんて勿体ないことをしてくれたの。

 もう、あれを作る材料はないのにっ!」

 そう言うなり俺を片手で掲げ上げ、地面に叩きつける。

 もの凄い音を立てて地面が揺れる。

「じゃあ、お前は……」

「もう、話をする気もないね。

 マー君に私を殺す権利なんかないんだから」

 俺の背中をアイナが踏みつける。

 まるで世界がそのままのし掛かってきたような衝撃が俺を突き抜ける。

 ガクンと地面に身体がめり込み、視界が土だらけとなる。

 アイナの怒りは収まらない。

 俺の足を掴むとブンブンと振り回しはじめた。

 まるで人形遊びに飽きた子供が癇癪を切らしたように。俺はそのパワーに抵抗できない。

「アイナ、もうその辺にしなさい」

 オキエの声だ……。近くに来たらしい。

「嫌っ! だって、こいつ、私を殺したんだよ。

 許せる訳がないっ!」

「そんな上質なオモチャ、もう手に入らないわよ」

「いらないっ!!」

「そう、仕方ないわね……。

 じゃあリクエスト。

 坊やには敬意を払わないとね。一気に殺しちゃダ・メ。

 だから、もっとじわじわと殺ってちょうだい」

 アイナは汚い物でも捨てるかのように手を放す。

「分かったっ! 見てて!」

 アイナは俺の背中に人差し指を置いた。

 そしてゆっくりと力を入れはじめる。

 細い一本の指から、信じられない圧力が掛かる。

 最強生物ドラゴンをはるかに凌ぐ、計測不能と言われた俺のパワーをはるかに上回るパワー。

 俺の強靱な肉体は、そのまま人型を描いたまま地面にめり込んでいく。

 あたかも柔らかな砂地に人形が押し込まれていくように。

 耳元でアイナの囁く声が聞こえる。

「じゃあ、左手から、ね」

 アイナは余った手で俺の小指を掴み、躊躇なく力を入れた。

 ペキ……。

 これまで聞いた事のない音が聞こえ、激痛が走る。

 もしかして骨が……。

 一生縁がないと思っていたが……。

 猛烈な痛みと吐き気が増していき、ぼんやりとした意識をかき消してくれる。

 が、俺の身体は動かせない。

 アイナの指1本で押さえつけられ何もできないのだ……。

「ほらほら、はやく痛い目にあわせてよ、マー君。

 待ってるんだからさぁ」

 アイナの手が、今度は薬指を掴む。

 今度はゆっくりと挟む場所を何回も変え、力を入れては抜き、力を入れては抜いている。

 そのたびに走る激痛。

 もう感覚がおかしくなっているのだろうか?

 指の形が分からない。

 ペキ……。

 またあの音と全身に走る激痛が……。

「2本目ぇ……」

 アイナの笑い声が遠くなっていく……。


 時を同じくして、崖の上……。

 その少女は、その最も高い頂にいた。

 シルエットが太陽と重なる。

 スレンダーで均整のとれたプロポーション、綺麗に揃えた短い髪、そして重力すら感じさせないその動きは異世界の住人であるとさえ思われた。

 少女は、ごく自然に足を踏み出した。

 真っ直ぐに落ちていく彼女は着地と同時に地面を蹴り、猛烈な勢いで走り始めた。

 まるで地面すれすれを飛ぶ鳥のように。


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