腐って天上天下
姿見の前で一人ファッションショーを続ける朱音の姿と、デザイニッシュな時計の針とを見比べて歯噛みする俺。いわゆる居候の分際だから、彼女の決めたルールとヒエラルキーには今日この日まで全力で従ってきた。
職を決めてこの部屋を出ていくまで、菊間一郎にとって谷朱音の言うことは絶対である。全身全霊をもって家事をこなし、最低でも一日一時間は求人情報に目を通すこと。願わくば積極的に面接を受け、見事就職した暁には毎月の給与からこれまでの家賃を返済すること。
冷蔵庫に貼られた手書きの誓約書にはそう記されている。だが今だけは例外を許していただきたい。
ここから渋谷公会堂までの時間を逆算すれば、俺と朱音はあと五分以内に支度を済ませて出発しなければならないのだ。着ていく服が一向に決まらない朱音を見て、俺は気が急いてならない。
「おい朱音、まだかよ。さすがに間に合わないって」
「んー? んんんん? 菊間ちゃんってあたしに指図できたっけ?」
振り向きもしない朱音の後ろ姿から、若干の殺意を感じた。
「いえ、指図ではありません。ほんの少しだけ急いでくださると、心から嬉しく思います」
「っていうか行く気満々じゃん。あんたがろうるのチケットを持ってるなんて、意外を通り越して気持ち悪かったよ」
先走って辞めた工場から送られてきた最後の給与明細。その封筒には、何を勘違いしたんだかRoul B.のLIVEチケットが同封されていた。とどのつまり、金城さんがどこかのキャバ嬢を口説き落とすために使おうとしていたチケットだ。
「……勘違いの有効利用だよ。このLIVEを見ること自体が、罪滅ぼしみたいなもんなの」
忌々しく思っていた不衛生な職場。そこで汗水を垂らすおっさんの、冴えない表情が脳裏をよぎる。多分、自分のせいで俺が辞めたんだと思い込んで、責任を感じているのだろう。決して悪い人じゃないんだ。もしも偶然どこかで出会ったら、俺はしっかりと謝罪してチケット代だって支払うつもりでいる。
「よく分かんないけど、紙チケなら転売すれば良くない? いい値段になるはずだからさ、売っぱらってあたしに家賃入れなよ」
やっと服装が整ったらしい朱音は、どのカバンで出掛けようかと首を傾げながら提案する。彼女が金に困っている様子は微塵もないが、ヒモ状態と大差ない俺としてはうまい言葉が見つからない。
「……悪い。金はちゃんと稼いで返すから」
「はいはい、最後まで返さない男の常套句ですね、お疲れさま」
「なんとでも言ってくれ。俺は──」
しょうもない言い訳を並べようとした俺の、言葉の続きを遮って朱音が言う。
「──お前とデートがしたいんだ、がスマートかな。その本音が、Roul B.のLIVEが見たいんだ、であってもね」
すべてを見透かしたかのような朱音の口調に、顔が火照っていくのが分かった。完璧にメイクアップを終えた彼女は、完全武装を終えた兵士さながらの迫力を持っている。朱音の醸し出している大人の余裕や妖艶さみたいなものの何もかもが、俺を苛立たせて仕方がなかった。
「は? 別に見たくなんかねーよ、クソかよ」
「何言ってんだよクソはあんただろうが。断言したっていい。たとえあたしが居なくたって、あんたはろうるのLIVEに行くね。だけどあんたが弱虫毛虫だから、このあたしが一緒に行ってやるって言ってんの」
聞き分けのないガキを宥める母親みたいに、朱音は俺の手を引いた。劣等感の塊となって風化してしまいそうな俺の心が、逆流する胃袋のように感情を吐き出そうとする。言葉になる前から分かる。きっとそれだって、醜い自己辯護の羅列だ。昔の俺だったら、何らかのメロディとなって吐き出していたに違いない衝動の数々。
「……泣くなよ菊間ちゃん。あたしが付き合ってやるから、一緒に負けを認めに行こう」
そうだ。思わず忘れかけていた。いつの日にかBeni子を名乗っていた彼女だって、かなり複雑な心境で俺の我儘に同行してくれるのだ。それなのに、肝心の俺がこれでどうする。
「泣いてねーよ。お前ってたまに、誰よりも男前だよな」
そう答えると、朱音に一瞬の間が生まれた。
途端に彼女は、得意のロリ声を駆使して俺を茶化す。
「あー、いけないんだぁそんなこと言いますか。お兄ちゃんってほんとのほんとに、女の子を傷つける天才さんですねえ」
男受けを狙った間延びした口調。本当に大した演技力だと思う。朱音の中に別の人格が宿ったみたいに、声色だけじゃなくて仕草や振る舞いまで変化するのだ。
「ねぇ今日の残り一日、そのキャラ設定でお願いしていい?」
「えー? イヤですよ死んでください。変態さんは今すぐに死んでほしいのです」
朱音のマンションの玄関先で、俺たちは安い青春ドラマみたいに笑い合った。やたらと壁の薄い建物だ。お隣さんに筒抜けで、鬱陶しい痴話げんかだと思われていることだろう。
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