幸せのビッグバン。
婚姻届を持ってきてくれた日、夫は食事のあとにすぐ地元へ帰ることになっていた。
家の前まで送ってくれて、私は名残を惜しみながら車を下りて、ドアを閉める時に「運転、気をつけてね」と言いながら車体とドアの間に腕を入れるようにして手を振った。
その時、なんと夫は私の手をいきなり掴むとグイと自分の方に引き寄せて、ギュッと力を込めて握った。
私はビックリして、込められた力の強さとぬくもりにドキドキした。
夫は無言だったし、車体が邪魔して顔も見えなかった。
思いもかけない行為に、驚きの反動でふふふと笑ってしまった。
夫が手を離すと、私はドアを閉めて窓越しにさっきより大げさに手を振った。
車が見えなくなるまで見送って、また、一歩一歩なんだな、と思った。
と同時に、そんなことでものすごくときめいてる自分が私には衝撃だった。
手を握るなんて、これまでの恋愛ではほんの手始め。
場合によってはすっ飛ばされてしまうくらい些細な行程でしかない。
そういう時のあえて手に触れるという行為は、
心理的距離から肉体的距離までをも一気に縮めるという狼煙と受けとめたりもする。
いいトシになった私は、本当にそんないやらしい人間になっちゃっていた。
なのに、夫に一瞬ギュッと握られた私の手には、不器用な握り方の感触がそのまま残っていて、ただただあったかくて、ときめきはさらに度を増していく。
その先にあるもっと深い行為なんて、もうあってもなくてもいいと思うくらい、手に残る感触とぬくもりがすべてだった。
そして気づけば、遥か大気圏を突き抜けて宇宙にまで来てしまった心地になっている。
夫も恋愛の手順を、ひょっとしたらマニュアル通りに? 慎重に踏んでるのかもしれない。
そう思うと、さらに夫を愛おしく感じる。
奥手な自分を鼓舞して、一生懸命そうしてくれてるんだ。
それを誠実さと見るか、夫なりの冒険と見るか、どっちにしてもやっぱり「初恋」そのものに思えた。
これまでの、成就しなかったすべての恋愛よ、さようなら。
私は夫といっしょに今、初恋をやり直している。
まっさらきれいな自分になって、初めての道を歩いている。
もしかするともう体がバラバラになってるのかもと思っちゃうくらいフワフワした気分で、私はそれから一週間くらいも宇宙を漂っていた。
婚姻届の保証人は、叔母に頼んであった。
私はけっこう験を担ぐところがある。
で、そういうことを頼める関係の親戚の中では、一番理想的な結婚をしてるように見えるのがこの叔母だったのだ。
ポイントは、子供がいて、離婚も死別もしてないということ。さらには、叔父も子供のころから私をかわいがってくれていた。
婚姻届が整って、次はいよいよ入籍の日。
午前中に私が指輪を取りに行って、昼ころ夫と落ち合う。
夫はバラの小さな花束を私のために用意してくれていた。
私にとってはサプライズで、これまで誰がくれたどんな大きな花束よりもうれしくて貴重なものに思えた。
そのあとすぐ、私の家族と会食するホテルへ。
母も妹も、結婚すると話した時はかなり驚いた様子だったけど、この日を楽しみにしてくれていた。
会食は滞りなく和やかに進み、二人とその場で解散。
夫と私は、近くの区役所へ婚姻届を出しに行った。
時間外の、おそらく警備と思われる人に書類を渡すと、受領証のようなものをくれて、今後の段取りを簡単に説明してくれた。
役所側の入籍手続きが完了したら、夫が職場に私を家族として届け出ることになる。
夜は二人でお祝いディナーへ行くことになっていたので、時間をつぶす必要があった。
いろんな話をしながら街なかをブラブラして、面白い展示があったので入ってみることに。
そこでかなりの時間をつぶせた。
ディナーは、市内で一番高いビルの最上階にあるレストランを予約しておいた。
コースの料理が運ばれてくる合間に指輪を取り出して、お互いの指にはめあう。
私は年賀状で結婚報告をすべく、結婚指輪をした二人の手の写真を載せようと考えていた。
私の手の上に夫の手を重ねてもらって、両方の指輪が見えるように。
片手でシャッターを押さなければならなくて難儀したけど、夫はすごく協力的だった。そんなことにホッとし、何もかもがいちいちうれしい。
レストランのホールの人が、お二人の写真を撮りましょうかと声をかけてきた。
たぶん、私たちの様子から気を利かせてくれたんだろうと思う。
その時の写真は、今もリビングに飾ってある。
写真が大嫌いな夫が、珍しくカメラを見て笑っている。
食事が済んで、夫をJRの駅まで送った。
改札の前で、「じゃあ、次はお正月だね」と私が言うと、
夫は人目もはばからず私をぐっと抱き寄せてハグした。
そして耳元で「それまで、元気で」と言った。
そのあと、頬に軽くキスされて、地球に戻っていた私の心は、今度は大気圏どころか太陽系、いや、銀河系までも突き抜けてさらに遠くへ飛んでいってしまった。
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