運命の。

10月の最後の日曜日。

振り返ってみると、失礼ながら、保険としてキープしていたということになる人とのデート。


この人は、もう私と付き合ってると思っていて、お互いにこんないいトシしたタイミングで付き合うなら結婚が前提になるということが暗黙の共通認識になってることはわかっていた。


私としては夫の方が好きだけど、そっちは自分の力で進めなければ何事も成し得ない状態で、今はこれ以上のなす術もなく、かろうじての現状維持。一歩でも引いたら、おそらく後ろはもう崖で真っ逆さまに落ちて終わり。


なので、なす術がないのなら、保険の人も含めて運命に身を任せようという漠然とした気持ちがあった。


こっちの人はグイグイ押してくる。わかりやすい。私が何もしなくてもいい感じで、楽だ。

正直、それはちょっと魅力——誘惑と言ってもいい——だった。それくらい、私は疲れていた。


その日のデートの帰り、送ってくれる車の中で、次のデートは彼の家で、という話になった。

次で、二人きりで会うのは3回目。ちょうどいい頃合いだ。部屋に行ったら、きっと深い関係になる。


今はまだ、この人を好きだとか全然思ってないけど、結婚相手としてまったく考えられないかと訊かれれば、そんなこともない。何か好きになれる取っ掛かりさえあれば、たぶん……。


深い関係になることは、その取っ掛かりとして十分過ぎる要素だった。

よっぽどの嫌なクセや、相性の悪さでもない限り、そこから相手に分け入っていけるだろう。


つまり、3回目のデートが果たされたら、私の夫への気持ちがグラリとこっちの人にシフトする可能性は決して小さくなかった。



次は部屋で会おう。

そう言って、車から私を降ろして走り去っていく彼を見送りながら、

「結婚って、こうやってするのだなぁ」としみじみ思った時のことは、今でも忘れられない。


その夜、家に帰ってパソコンを開くと、私はSNSのタイムラインを追った。


夫の書き込みをとらえた瞬間、私はめまいのようなものを覚えた。

すごくイヤな感じ。

胸騒ぎ? ザワザワと体の奥からいろんな粒が音を立てて湧き上がってくる感じ。


追い詰められたような焦燥感の粒。命が絶たれるような危機感の粒。一人取り残されるような寂寥感の粒。追いすがっても手をすり抜けていくような虚無感の粒。


そして、悲しい雨粒の音。


実際、外は雨が降っているようだった。


気づくと、心の中が全部、サワサワという雨音に塗り込められていくみたいになった。音がするのに、何も聞こえない。


どうしよう、どうしよう。


このままじゃいけない、という無音のアラームが鳴り響く。


何かしなくちゃ。

今しなくちゃ。


今!


どうしようもなく、「今」という思いだけが迫ってくる。


「今」を叶えるツールは、電話しか思いつけなかった。


これまで一度も夫に電話をかけたこともなければ、もらったこともない。

番号は? 初めてのデートの前に、緊急連絡先としてメールに書いてあったことを思い出した。

ちゃんと登録してあるだろうか?


番号を確かめて、ボタンを押そうとするけれど、ものすごくドキドキする。

これで終わりかもしれないんだ。

イヤな予感しかしないんだもの。


もし、応答してくれなかったらどうするの?

わからない。

そうなってから考えるしかない。


それより、今ここで電話して、不都合な真実が明かされて終わるんだ、そこへ「今」自ら向かって、終わらせるんだ、という、そんな変な決意に私はとらわれていた。


一生懸命、今日デートした保険の人を心の中に据えつける。

死刑宣告を受けたあと、逃げ込める場所として。


そうだよ、「今」死ぬわけじゃない。

道を変更するだけなんだ。最初は少しは引きずるかもしれないけど、すぐに新しい道で新しいコトを始められる。

あっちの人を好きになる、っていうコト。



電話の呼び出し音を数える。


——やっぱり出ないか。


諦めそうになるのに10コールもかからなかったけど、その前に夫が応答した。


——もしもし?


すみません、こんな夜に電話して。

SNSを見たんですけど、あれって……何か私と関係ありますか?


あぁ……。そう夫はつぶやいて、「鋭いですね」と言った。



SNSにはこう書いてあった。


「覚悟を決めるか」


そして、その30分後に「このまま寝たら夢見が悪そうだけど、それくらいの罰じゃ足りない」「こんな自分など朽ち果ててしまえばいい」と。


私は、夫が何かを決心して、その何かが誰かを傷つけるようなことなのではないかと直感した。

きっと、夫は私と会い続けても、この先、自分の気持ちが積極的な方向へは向かいそうもないと悟ったのだ。

つまり、傷つけるだろう相手は、私。

傷つけるとわかっているけど、もうこれ以上こんなどっちつかずなことを続けているのもよくない。だから、終わりを告げようと決めたのに違いない。


私の頭の中では、そういうことになっていた。

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