第2譜  『死』を許さぬ世界

 

 光秀は目覚めた。それと同時に、なぜ目覚めたのかと違和感を持つ。

 

 ―― たしかに、腹を切ったはずなのに……。

 

 上半身を起こしたが、床にも着衣にも血の一滴すら飛んでいなかった。左手で腹を探ったが、痛みはなく、斬った形跡は見つからなかった。

 

 ―― やはり、そうなのか。

 

 これは光秀が、半ば予測していたことだった。この奇妙な世界では、死すら、選べぬのではないかと。今、それが、証明されたというわけだ。

 

 腹の肉が刃物を受け止めたときの感触が、鮮明だった。ぬめり気のある熱い血の手触りと、その噴出する光景も。切腹したことは、まごうかたなき事実なのだ。しかし死んでいないことも、また同じように厳然たる事実だった。まるで弓矢の弦のように、パッと元に戻ってしまったのだ。

 

 ―― 無駄に抵抗などせず、この世界で生きろということらしいな。

 

 この薄気味悪い世界から、逃れられないと悟った。瞬時に状況を把握し、それに対応する。明智光秀はそれを、迅速かつ的確にできる男だった。その才があったからこそ、あの気まぐれで妥協を許さぬ天下人、織田信長に仕えてこられたのだ。逃れられないのであれば、この世界で生きていくしかないではないか。光秀は切腹からさして時間が経っていないにも関わらず、今度は一転、生き抜くに最善の方策を探ろうと方針転換した。

 

 気だるそうに立ち上がった明智光秀は、室の端にある机に向かった。

 

 光秀は机に向かって正座し、真ん中に置かれているノートを手に持った。

 

 この世界に流されて、すでに1ヶ月という時がすぎようとしていた。住居から服装から食物から、あまりに天正の時代とかけ離れていてすべてに目を丸くしたが、それらにもようやく慣れた。共にこの世界に流された武将たちから得た情報も役に立ったが、しかし最も参考になったのは、この束ねられた紙片だった。ここに書き連ねられていることが、光秀に状況を把握させていた。

 

 もう何度も読み返している。それをひとつ、今回は声を出して読んでいってやろうと考えた。

 

 ノートを開いた明智光秀は、まず、コホンと小さく咳払いをした。

 

 

 

 

 

 

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