明智光秀の棋譜
勒野 宇流 (ろくの うる)
第1譜 2度目の切腹
夜なのか、昼なのか……。
分からなかった。そして自分がどこにいるのかも。明智光秀は眠れぬままに延々時をすごし、堂々と巡る考えの中に意識を置いていた。
「やはり……」
小さく、天井に向かって声を発する。
生きていたところで、仕方がない。
そう結論付けた。ここはひとつ、死のうと……。
あの山崎の合戦で秀吉から敗走したとき、一度死んだはずだった。
落ち武者狩りの農民に竹槍で突かれた感触は、今でも鮮明に覚えている。
それは単なる衝撃だった。刃物のように切り刻むわけではなく、鉄砲のように身体の内を破壊するものでもない。勢いのままにはじき飛ばされるだけだった。
しかし集団の差し出す竹槍は執拗だった。倒れたところに、これでもかこれでもかと突きおろしてくる。そのひたすら数に任せた攻撃に、鎧は割れ、防護していない部分を傷つけられた。
その場は、なんとか逃げ切った。しかしそれまでだった。いたるところ骨が折れ、迅速に動けない。また無理に動けば、喉から血が逆流し、激痛が走って意識が遠のいた。
もはやこれまでと悟った。このまま無理に逃げても、いたずらに死期を延ばすだけだ。そして自死の途を選んだのだった。
「そうだっ」
また短く、天井に声を放った。
その、自死の途を選んだときと同じようにすればいいだけの話だ。
この訳の分からない世で生かされているのなら、死を選ぶ方がいい。
巡っていた考えが、ようやく一つに集約された。
上体を起こした光秀は灯りをつけ、室を見まわした。
すべてにおいて、勝手がちがっている。
ここは天正10年ではない。断じて、ない。
勝手が分からないなか、光秀は室の中で刃物を探しだした。
光秀の時代には、まだそれほど切腹が名誉ある死とは捉えられていなかった。しかし武将であるからには、こういう死に方をするのが妥当だろうと思った。
作法に沿って、光秀は椀に酒を注いだ。自らがするものではないが、室に誰もいないのでやむを得なかった。
―― なんなのだ、今いるこの世は。
皆目分からなかった。ただ、自分が「なにか」のちからによって生かされていることは分かった。「なにか」は分からないが、生を再生させる、超越したちからであることは間違いがない。
だから、生を断とうと思った。生かされる『生』なら、自ら選ぶ『死』の方がよほど納得できた。満足もできた。
介錯人も、検分役もいない。しかし初めてのことではないので問題ないはずだ。介錯人がいないことで、おそろしい苦しみに包まれることだろう。しかし腹を割いて多量の血を吐き出せば、まぁ死に損なうことはないだろう。織田政権のナンバー2までひょいひょい昇りつめてしまった男は、肝が据わっていて痛みなどに怯むはずもない。座して息を整えると、衣類を脱ぎ、そして腹を出した。
「人生において2度も腹を割くことになるとはな」
可笑しさがこみ上げてきて、ひとり笑った。もしも他の武将が見ていたとしたら、死の手前の落ち着いた態度に、さすが明智光秀と感心したことだろう。
辞世の句もなく、光秀は事務仕事をするかのように淡々と刃を腹に刺した。なにも音はなかった。そして頭を強打されたかのような激痛の感覚のなか、気を張って柄を右に引いていった。
夥しい鮮血が飛び散る。その切り口からだけではない。強く結んだ唇の間からも漏れ出た。
―― やはり十文字までは行けない。一文字までか。
意識を失うその手前、考えたのは、切った腹の形状のことだった。横に引くだけだと一文字、その後縦に裂けば十文字となる。十文字の方が名誉だが、如何な猛者でもなかなか縦までは裂けなかった。
赤黒く染まる床の中央で、知将明智光秀は、蒼白の表情で斃れた。
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