第16話
中村裕一郎は、そんな小原の手を強引に握った。
「有難う。有難う御座います。私は、九鬼龍作に懸賞金を掛けようと思っています。人を馬鹿にした行為は絶対に許すことはできません」
「あいつに懸賞金を・・・ですか!」
小原は訝った。
この男の面をぶん殴りたい気持ちを抑えられなかったが、自分は警視正という自負がかろうじて、彼を正常にさせていた。
「ええ、一千万円です。捕まえた人に、一千万円をやろうというのです。安いですか?」
「一千万円・・・あいつの値打ちはそれだけか」
中村裕一郎は大きく一つ頷き、
「もうすぐ、マスコミの連中がここにやって来ます。このことを発表するつもりでいます」
と自慢げに笑って、言った。
「お前・・・あなたは、そんな発表をやっていいと思っているんですか!私たち、いや私を信じないんですか!」
小原の怒りは頂点に達しようとしていた。中村の人を馬鹿にし、蔑むような態度に、彼の感情の塊りは真っ赤に燃え上がっている。
(俺の忍耐は限度を迎えている)
と。
しかし、彼はかろうじて自分は警視正という身分であるという自負が、怒りの爆発を抑えた。彼は警視正という称号を好んだ。しかし、けっして他人に口に出し自慢することはなかったのだが。
中村裕一郎は小原を睨み、
「小原さん。いや、失礼。確か・・・警視正という身分の方ですね。私はあなたを信じないわけではありません。しかし、しかしですよ、九鬼龍作は私に、この私に恥を掻かせたのですよ。それは、絶対に許せません。いや、いや、勘違いしないでください。私には九鬼龍作を捕まえることは出来ません。そんなことが出来る訳がありません。大体警察にも九鬼龍作の人相も判明していないんですよね・・・確か」
中村裕一郎は不敵な笑いを浮かべた。能無しの警察と侮蔑しているようであり、そんな警察に挑戦しているようにも思えないでもなかった。
「確かに・・・」
小原警視正は実に不愉快だった。
彼は顔を歪めた。その気持ちが自分の顔中に現れているに違いないと思ったからである。
(いかん!)
そう自分を納得させても、不愉快な気持ちは少しも収まらなかった。
「龍作、あいつは必ず私が捕まえます。私の生涯の敵なのです」
この男のために龍作を追い続けていない。そんな馬鹿なことはない、どういう因果か知らないが、この八年、龍作と係わって来たが、龍作という男・・・不思議な魅力を持った男であると彼は認めていた。だからなのか、彼は龍作にはいつ頃からか、怒りは感じなくなっていた。だが、この目の前の男はぶん殴りたい気分だった。
「私のためにも、ぜひお願いします。ほらほら、やって来ました。私が彼らに向かって発表する内容に、日本中が驚くはずです」
中村裕一郎は二三歩前に進み出た。ここからの主役は、私だと言いたい振舞いだ。
小原警視正は踵を返した。
「小原警視正、待ってください」
中村は、行こうとする小原を呼び止めた。
「あなたも、ここにいて下さい。あなたがここにいて下さることで、私の発表の価値が一段と生きて来るのです」
小原の頭が微かに動いたかに見えた。しかし、彼は立ち止らなかった。
確かに龍作の人相は判明していない。
多分、九鬼龍作の情報が寄せられる可能性は、たとえ金で人間の欲望をくすぐっても、絶対にない。まして誰かが龍作を捕まえるという奇跡が起こるわけがないと小原警視正は思うのである。
(九鬼龍作・・・!)
少なからずの人は、彼を英雄とみなしている。
小原警視正は、
(クッ)
と笑った。
多分、日本各地から龍作の情報は、ごく一部の人によって呟かれ、小原の耳にも入って来るだろう。その中には、小原が驚くような事柄もあるかも知れない。真実味を帯びていたため、慌てふためいた警察が動くかもしれない。
だが、小原は自信を持って言える、それは偽のくだらない情報だと。やつは、証拠を残さないのだ。そのことは、小原は誰よりもよく知っている。
また、彼らの中で最も勇気ある人は、九鬼龍作を捕まえたから、すぐに来てくれと知らせてくるかもしれない。多分、誰もそんな偽の情報を信じない。在り得ないのである。龍作を捕まえたと知らせて来た人も、
(そんなこと・・・あの龍作が捕まる・・・そんなことはない)
と誰もが良く知っている。だから、偽の情報を知らせて来た、その勇気ある人は絶対に正体を現さない。全てが九鬼龍作の正体を知らないことから起こるユーモアの他ならないのだ。
小原は頬に手を当てた。冷たいものを感じたからである。彼は空を見上げた。どんよりとした雲がぐんと下に降りて来ていた。
(雪・・・)
奴の思うつぼのような気がする。
小原は、雪は降って来るかもしれない、と思った。実際、雪は舞い始めていた。
(ふっ)
小原は笑った。だが、声を出して笑いようなことではない。
黒いヒゲのサンタクロースの脳裏には、去年までは存在した古い街並みが、今なおはっきりと残っている。彼は一歩一歩ゆっくりと足を運んでいた。駅前の道路は彼の見慣れない建物ばかりだった。今は、彼の良く知る店の名前さえなかった。昔、伊勢参拝の旅人が通った道には、もうあの古い街並みは完全に霧散してしまっていた。
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