第15話
ひまわりの絵画はもうすでに贋物に変わっている。日本中の誰もが知っている。九鬼龍作からこれ以上の要求が来ることはない。すでに今回の獲物を獲得しているのだ。
(後は・・・どうする気だ)
小原は唇を噛んだ。
ひまわりの絵を、どのような方法で返してくるかだが、龍作が返すといっている時間にはまだ時間がある。十二月二十四日の
(深夜か・・・)
この贋物の絵画の前で、龍作が現れるのを待っていればいいのだが、あの龍作相手だからそう簡単ではないだろう。いずれ何かを仕掛けて来るはずだ。小原警視正は
(その方法は・・・)
龍作の常套でない手段を使って来ることを良く知っている。しかし、今は取り立ててやるようなことは何もない。それが、
(ただ、待っているしかない)
のが、余計に彼を苛立たせていた。
大海経(おおうみ けい)館長にも会う必要があった。しかし、館長の居所は皆目掴めなかった。身寄りのない独り者らしかった。小原はその点でも興味があったが、まず居所を探した後、
(聞きたい・・・いや問い詰めたい)
のは、その時点で、つまりひまわりが贋物と分かった時に警察に知らせなかったのか、をである。
小原警視正は、その答えを想像出来ないこともなかった。しかし、まず館長に答えてもらう必要があった。もっともその時に知らされていたとしても、絵画はすでに龍作の手元に渡っていたのだから、彼の方から手の打ちようはなかったのだが。
(閉館は、二十時・・・館長の指示があったらしい)
小原警視正は、奈良博物館の周りをぶらついていた。
(奴は、どういう手を使って来るのか・・・)
考えを巡らしていたが、同じ思考が頭の中でぐるぐる回っていた。
博物館の中に途切れることなく人が入って行く。それに比べ、出て来る人は意外と少ない。その内、博物館は人で破裂してしまうんじゃないのか、と彼は、ふっとこんなことを考えて苦笑した。
(何で、あんな偽物の絵画に、こんなに多くの人がやって来るんだ?)
冬の寒い時に、こんな無駄な時間があったら、俺だったら、未解決事件の解明に没頭するよ。絵というものはそれなりの価値はあるだろうが、彼にはそれ以上踏み込んで考える気はなかった。
その絵をあいつは奪って行った。いや、一時借りると奴は言っている。龍作は、ゴッホ展にある絵の中で、ひまわりが描いてある絵を選んだ。
(あいつ、何に使うんだ?何で必要なんだ?)
小原正治警視正は、龍作が無駄なことをやらない男なのを良く知っている。あいつは無駄な時間も費やさない。馬鹿な奴ならともかく、龍作はこの上ない馬鹿ではない。
小原警視正は、龍作とは
(九年・・・)
そう九年の付き合いになる。その間、やられっ放しというのが多いが、小原が知るその全ての事件が龍作の性格、彼の盗人としての異様さを表していた。そういうことでは、今度は、納得の事件だった。だが、今度の場合、なぜ・・・がつきまとう.
今度の場合、絵画を盗んで行って返さないのなら理解出来ないこともないが、
(二日だけ借りて、返す・・・実質、一日だ)
という。
そこが、彼の一番の理解出来ない所だった。
小原警視正は、この時自分に向かって歩いて来る二人の男に気付いた。一人は、副館長の奥出茂太である。
もう一人は、何処かで見たような顔の男だった。直に会ったことはない。雑誌かテレビで見たことがある。彼はすぐに名前を思い出すことが出来なかった。
小原はまた歩き始めた。無理に思い出す気はない。こっちに向かって来ているのだから、すぐに分かる。
(いずれにしろ)
小原は考えた。
この事件は、表ざたにはならなかったかも知れない。龍作が返すと言っているのだから。龍作だって、それは可能だったわけである。それなのに、公にしてしまった。龍作が、俺を呼び寄せたのだ。だから、俺は龍作の挑戦を受けなければならない。
(だから、俺は・・・ここにいる)
あいつの挑戦を受けてやる、たとえ一夜だけの借用であっても、龍作が関係している以上、ただの事件で済ますわけにはいかない。
「小原警視正。こちらは、中村裕一郎さんと言いまして、今度の展示会を主催されている方です」
奥出は、丸顔でがっしりとした体格の男を紹介した。肌が黒く、丸いメガネを掛けていた。その奥の方で、目だけが異様に白く光っていた。雰囲気からは、神経質なとこではない。
「ああ、そうですか」
小原は不機嫌な態度で答えた。彼は、中村裕一郎の名前を言われて、誰だったか思い出したのだが、その途端、不快になった。名前だけは知っていたが、面識はなかった。九鬼龍作とは違った意味で、小原警視正を苛立たせる奴だった。
「その中村さんが、私に何か?」
小原は中村を睨みつけた。
奥出副館長は、警視正の目に敵意を見て取った。
中村は、
(ふっ!)
と不敵な笑みを見せた。
「あいつを捕まえて下さい。九鬼龍作という盗っ人は、けしからん奴です。ひまわりの絵は、明日返すと言っているようですが、絵が戻ればいいというものではありません。私に恥を掻かせたのです。私を侮辱したのです。絶対に許せません」
中村裕一郎が怒っているのは、彼の表情で分かる。だが、
(何だか・・・わざとらしい・・・)
と、小原には見えないでもなかった。
今度は、小原警視正がにやりと笑った。
「あなたの言われることは、私にも分かります。私も龍作を捕まえるために、わざわざ東京からやって来ているのです」
「ゴッホのひまわりを一日盗んで行って、一体何をするつもりなんでしょう?全くけしからん。私は日本中に、いや世界中にいい恥さらしですよ」
「あいつが何をするのか、そんなことは私にも分かりません。そんなことは大した問題ではないでしょう。私の目的は、絵を返しに来たあいつを捕まえることにあるのです」
「そうです。その通りです。警視正の目的は、私の希望でもあるのです」
中村は顔の表情を崩し、警視正に手を差し出した。
小原は無表情のままだった。目の前の男が手を差し出したのには気付いていたが、彼は今、いやこの男に対してそんな気分にはなれないようだった。
(おっ!)
小原の心はざわついた。この苛立った感覚に、彼は覚えがあった。
(何?)
しかし、このはっきりしない感覚に、彼はこの苛立ちは抑えきれず何も思い出すことが出来なかった。
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