第10話

コンパニオンが歩いて行った方を気にしていると、彼女の後を、男がゆっくりとした足取りでこっちに歩いてきた。五十過ぎのでっぷりとした体格の男だ。その点は小原に似ているが、身長が違う。

(でかい!)

小原に比べて、馬鹿でかかった。

「あれが館長だな」

小原は呟いた。独り言ではない。言葉に出すことで、自分を納得させているのである。彼の子供のころからの癖である。

でっぷりとした体格の男は、小原と目が合うと、にっこりと笑い、頭を下げた。

「申し訳ありませんが、館長は、今日はお休みです。私が副館長の奥出といいます」

(俺の勘は狂ってしまったようだ)」

館長がいないと聞いて、(いらっ)と来た小原。苛立つと判断が狂う。彼にはよく分かっている。だから、

(まあ、いい。まあ、いい。会って、話を聞くのは館長である必要はない)

そう自分を納得させると、彼の苛立ちは一気に和らいだ。

「そうか。休みなら、仕方がないか。あんたでも、いい。少し聞きたいことがあるんだが」

「私で分かることなら」

奥出副館長はまたにっこりと笑った。

小原警視正は唇をかみ、いやな顔をした。どうやら、俺は意味なくに笑う奴は好かないようだ。

「なぜ、ここに展示した時に、絵画が贋物と分からなかったのですか?あなたたちは、学芸員・・・その専門家なのでしょう」

と聞いた。問い詰めたという感じだった。

奈良博物館に着く前に、本物と贋物の交換は九鬼龍作によって行われたのである。それは間違いない。

「いやぁ、申し訳ありません」

奥出副館長は頭をかいて、笑った。

(また、笑った)

「贋物が余りにも本物に近いからなのです。私たち専門家を責めるより、この贋物を描いた画家をほめてもいいでしょう。竹島淳氏が最初に贋物と発言されたのですが、非常に勇気のある発言と言っていいでしょう。一歩間違えば、竹島氏は、この世界で生きていけないのですから」

「それほどそっくりなのですか?」

「そっくり?そうですね。そっくりと言えば、そっくりなのですが、われわれ専門家からすれば、この絵にはそれ以上のもの・・・つまり価値があると思います」

この時小原警視正は、この絵はひょっとして龍作が描いたのでは・・・と考えが過ったのだが、すぐに否定した。たとえ龍作がこの絵を描いたとしても、この盗難事件にそれ程重要な事実ではない。

それなら、なぜゴッホの絵を盗む必要があるのか?それよりももっと理解出来ないことがあった。何億、何十億もする絵を盗んでおいて、なぜ捕まる危険を犯してまで返す必要があるのか。

小原は九鬼龍作を知り尽くしていると自負しているのだが、全く理解できない今回の龍作の行動だった。

(だが、あいつがどんな顔をして、どんな性格、気性なのか)

まつたく俺にも分からない。

小原警視正は、龍作は俺に宣言したことは必ず実行するし、今までして来た。今日の深夜、どのような方法で、龍作が絵を返すのか?小原には今の所想像すら出来なかった。

「なぜだ?」

小原は言った。

「はっ?」

奥出副館長は警視正の呟きに反応した。しかし、小原は奥出を無視している。

「なぜ・・・一日だけなんだ?クリスマスが終わるまでの一日だけ、そうする必要があるんだ?」

小原には全く理解できなかった。

小原は、偽物のひまわりの絵画をさっき見ている。

「このような形で、ひまわりの絵が贋物に変わったとマスコミの話題をさらいましたが、私たちはこの事実を公にする気は全くなかったのです。これほどの絵です。一般に人・・・いや、ほとんどの人が贋作とは思わないでしょう」

奥出副館長は自信たっぷりに言う。


「その二流の評論家・・・何て言った?そいつ、今何処にいる?」

小原は目の前の男に訊いた。

「さあ?」

首を傾げる奥出副館長。

「なんだって?なんで知らないのか?」

「私が知るわけがないですよ」

素っ気ない返事に、小原はカッカするのを忘れた。

小原は副館長を睨んだままだ。

「この絵が、贋物だと知っていたのか?」

「いやいや、正確に言うならば、後で知ったということですが」

「よく分からんな」

小原は奥出副館長が落ち着き払っているのが気に入らなかった。

「館長は、すでにマスコミで騒いでいるのと同じ書面を、九鬼龍作から受け取っていたのです」

「何?いつ、受け取っていたのだ?」

「絵画が奈良博物館に到着した直後のことです。大海館長宛てでした」

小原警視正は副館長の前をうろうろし出した。狼狽しているのではない。彼なりに考えているのである。

「じゃ、その評論家が指摘する前に、絵が贋作だと知っていた」

奥出副館長が頷く。

コンパニオンは一風変わった動きをする刑事を見て、顔を背けた。おかしかったのかも知れないが、笑いたいのを我慢しているように見え、肩が三度揺れた。

奥出副館長はそんなコンパニオンに気付き、向こう行くように手で合図した。

「それなら、それなら・・・」 

小原の声は興奮し過ぎて、上擦っていた。

「その二流の評論家が、あんたのいうように、この世界で生きていけないのを覚悟で、マスコミに発言しなかったら、この事件は公にならなかったのか!」

奥出副館長はすぐに言葉を発しなかった。この小原と言う警視正が苛立っているのがはっきりと見て取れたからである。次に何を言うのか聞いてからでもいいだろう、こっちか何かを言うのは。奥出は警視正から目を離さなかった。

「どうして、その書面が届いた時に、私、いや警察に知らせなかった?警察をなんだと思っているんだ!」

「それは・・・それは、その判断は館長の判断でした」

「館長?そうか。その館長は、何処にいる?」

「さっきも言いましたように、今日はお休みです」

「家・・・自宅は何処だ?」

「近くです。近鉄の奈良駅から歩いて五分ほどの所にあるマンションに住んでみえます」

「すぐに会いに行く。詳しい住所を教えてくれ。いや、いや。私はこの辺りに詳しくない。副館長、一緒に来てくれ」

小原警視正は背を伸ばし、きょろきょろと辺りを見回した。この人混みをかき分け、入り口に戻った方がいいのか、それとも人の流れに沿って、博物館の出口に向かった方がいいのか、迷っているようだった。だが、二三度首を右左にさせた後、小原は出口に向かった。

彼は二三歩歩いた後、振り返った。

(お前も来い)

小原は、視線の先にいる男を睨み付けている。

奥出副館長は突っ立ったままである。

副館長は一瞬首を振りかけたが、警視正の強引さと、ちょっと異常とも見える態度には拒否しない方がいいと思ったのか、同じに行くことに同意した。

大海館長の住んでいるマンションは駅前の通りから一筋入り込んだ場所にあった。七階建てで、館長の部屋は七階だった。

「ここです」

小原は副館長にインターフォンを押すように目で合図した。

しかし、中からの応答はなかった。

「どうした?」

「いないようです」

「いない?どういうことだ?いると言ったではないか。何処へ行ったんだ?」

小原はまた苛立ちはじめた。どうやら自分の思うようにならないと機嫌が悪くなるようだ。

副館長は、警視正を落ち着いた目で観察していた。左手で口の辺りをおおい、にやりと笑みをつくった。

「分かりません。外出でもしているのでしょうか」

「何処へ?」

「そんなことまで、私には分かりません」

落ち着き払っている副館長を見て、小原の苛立ちはますます大きくなった。この男に怒鳴り散らしても何の解決にもならないのは、今の彼にも分かっていた。だが、今の場合、彼の目の前にいるのは、この男だけだった。

橘刑事も、小原の勢いに押され気味で、口を挿めないでいる。

「館長は、何で休んだんだ?」

「私用です」

「どんな私用だ?」

「そんなこと、私に判るはずがありません。だから、私用という言葉を使うのです」

小原警視正は館長の部屋のドアを蹴とばした。

館長は、ひまわりが博物館に到着した時には、絵画が贋物だと知っていた。九鬼龍作が館長に届けた書面によってである。

たとえ、そこに小原正治警視正の名前が書いてあっても無視したに違いない。九鬼龍作のことだから、必ずクリスマスが終わる時には本物の絵画が戻す。すべてが何事もなかつたで終わる。館長は、それを狙ったのだろう。だが、

(なぜ、九鬼の性分を知っているんだ。俺でも、今度あいつやる行動が理解出来ていないのに・・・)

小原警視正は、それが許せなかった。その事実を知ったからには、館長の態度も許せない。九鬼龍作が介在していることも、彼には尚更許せない。何億もの絵画が無事に戻っただけでは済まされない。

小原警視正は車に乗る前に、奈良公園の冬の空に目をやった。

 (こんな時に・・・もっと降って来るのか!)

 それ以上の感想はない。

 ピッ、ピッ、ピピッ、ピックル

 (むっ、鳥か!)

 彼はまた空を見上げた。

 何もいない。雪だけが舞っていた。 


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