第9話
(まさか!)
と美千代は一瞬胸を時めかせた。
だけど、彼女の輝きはすぐに消えた。
(まさか?)
人影は、すぐに彼女の視線の先から見えなくなったのである。でも、彼女は、
(いや!))
と首を強く降った。
私があの人を見違えるはずがない。やはり、あの人はここに来ている。いつかは、私の目に止まると思っていた。だって、私は、あの人の妻なんだから。
美千代の見たあの人は、新しく出来た二階建て商店街の裏通りに消えた。あの人は、ちょっと立ち止まり、振り向き、彼女を見た。
(私を捕まえてごらん)
と言っているように、彼女には見えた。
(私には、わかるのよ、あなた)
「ゆう。お母さん、用事を思い出したから、先に行きなさい。直ぐに追い付くから。いつもの店の前で待っていて」
「あっ、富士見屋だね」
陽太郎の返事を待たずに、彼女は走り出した。富士見屋は、二人してM市に出て来た時には必ず行く麺処で、M市ちょっと有名な食事処だった。そこで、美千代も陽太郎も必ずといっていいほど、中華そばを食べた。
「きっとあの人をつかまえてやる」
美千代はなぜか興奮していた。急いで、消えたあの人の後を追った。
陽太郎の視界から母美千代は消えてしまった。陽太郎は、仕方なく富士見屋に向かうことにした。
新しい大通りから細い横道に入り、二階建てのテナント街の裏通りに回った。
裏通りの人は多かった。
美千代が目指すあの人を探し難いほど混み合ってはいなかった。彼女はすぐに見覚えのある後姿の人を見つけた。あの人らしき人は、彼女の十メートルくらい先を歩いていた。 後姿だが、
(確かにあの人だ)
彼女の心は焦った。早く会いたかったのだ。
どうして、私から逃げるの?他の人から見れば、あなたは満足に仕事をしない怠け者で、夢ばかり見ている子供みたいな人。本当にそう思う。しっかり金を稼いできなさいと言いたくなる。でも、私は言わなかった。それは、そんなあなたがたまらなく好きだから。あなたは、私にとって優しい人。いろいろな人に変装して、私を楽しませてくれた。あなたって、女の人にもなれるのね。あなたって、やることに全然統一性がないのね。自分の心に思い付くままに生きているのね。あなたって大法螺吹き。たまに、本当のことが混じって来るの。
どれが本当で、どこまでがウソなのか、初め、全然分からなかった。その内、あなたの考えていることが少しは理解できるようになった。
(わたし、どれだけ苦労したと思うの)
でもね・・・私、どう対処していいのか分からない時が多かったのよ。つまりね、あなたって、天才的な嘘つきなのかもしれない。私も、あなたにだまされた一人かもしれないわね。そう言っているテレビのニュースがあった。
(そう。その通りよ)
でも、私にとっては、違う意味で、大法螺吹きで天才的詐欺師。私をいつも子供のように喜ばしてくれた。だから、私はあなたに不満も不平も言わなかった。あなたの語る言葉は、私を夢の世界に誘ってくれた。
近所の人たちも、あなたが好きだった。誰も、あなたを悪くは言わない。子供たちからも好かれ、どういうわけか動物たち、犬や猫など・・・空飛ぶ鳥までも、あなたの呼び掛けに応えているように、私には思えたわ。
あなたは、私の前でいろいろな人になった。あなたは、それらの人々を見事に演じ切った。みんな、あなたが夢の中で作り上げた人格の人々。彼らは、私の周りにいる人以上に、人間らしく生き生きしていた。
(あなた・・・サンタさん。あなたが私たちの前に現れるのは、今日だけ?)
あの人の後を追いかけ、テナント街の建物に、彼女は飛び込んだ。
(消えた・・・!)
何処にもあの人の姿が見えなかったので、彼女はエスカレーターで二階に上がった。エスカレーターの動きが遅くで、じれったく感じたので、彼女は一気に駆け上がった。
「お願い、待って!私から逃げないで。あなたの唯一の理解者は、私なのよ」
美千代はあの人の姿を追いながら、九鬼龍作だけのことを考えた。
(あなたは、私の龍作なのよ)
初めて龍作の事件の記事を読んだ時、ひょっとして、あの人では・・・と思ったが、断定は出来なかった。世の中が龍作の起こす事件に注目するようになり、度々新聞やテレビを賑わすようになった。そして、徐々にだけど、彼女は九鬼龍作をあの人だと確信するようになった。
「ゴッホのひまわり・・・ひまわりの絵画を盗んで、あなたはどうする気なの?」
あなたが大切の育てていたひまわりは、今も、一年中黄色く輝きを放っているわよ。
美千代は、自分は泣いているのではないかとおもった。目に手をやることはしなかった。だけど・・・なぜか、彼女はそう思ったことがとても嬉しかった。
奈良博物館は、奈良公園の中にある。近くには県庁もある。この寒い冬の時期、観光客は減少する。仕方のないことであった。
奈良の冬は寒い。どんよりとして濁った雲が、空一面を覆っていた。今日は火曜日、観光客の人数は数えられないこともない。ところが、今日の奈良博物館の周りは、人でごった返していた。
小原警視正が、その小さな体をカッカカッカさせたのは言うまでもない。それでいて、目は冷静そのもので、現場の状況を的確に判断している。
「なんだ、この人の多さは!」
小原は奇声を上げた。
ゴッホのひまわりが盗難にあったにもかかわらず、展覧会は中断されなかった。偽物がよくできていたこと、そして九鬼龍作が係っている事件ということもあったのだが。
もちろん警察は中止を要請した。それにもかかわらず中止されなかったのは、展覧会の主催者の一人である中村裕一郎が警察の上層部に働きかけたことによる。彼についてはいくつもの面白い逸話の持ち主だが、今度の事件では脇役に過ぎない。いずれお話する機会があると思う。
いずれにしろ展覧会は中止されなかったし、贋物のひまわりはそのまま展示されていた。
小原警視正は入場者の波に流されながら、奈良博物館の中を見て回った。人の多さと異常な熱気からか、絵画を鑑賞する気分ではなかつた。
(絵画を鑑賞・・・このおれが?馬鹿な)
小原は息を一気に吐いた。
「お前たち、出ていけ」
と怒鳴りたい気分だったが、かろうじて抑え込んだ。ここまで人が押し寄せて来ると、もうどうにも止められない。
博物館の二階に上がるとすぐに人の流れが止まった。小原警視正は人をかきわけて、一番前に出て行こうとする。
「なぜだ。なぜ、前に進まないんだ」
小原の声だけが館内に響き渡った。
小さい体で人を掻き分け、前に進み出た。この小さな部屋にいる誰もの目が一枚の絵に集中していた。
「これか!」
小原は奇妙な感動を受けた。黄色いひまわりがいくつも描いてあった。たったそれだけの絵だった。なのに、心の中に黄色い色が一気に充満してきた。彼には絵画の魅力は良く分からない。まして、今、鑑賞する気もない。もちろんゴッホの名前は知っていたのだが、こんな絵があるとは耳にもしていなかった。
小原警視正には、この絵が偽物だろうと本物であろうと、そんなことはどうでも良かった。見に来た入場者が絵を見て満足すればいいし、またしなくてもいいのである。彼にとって問題なのは、あいつが、九鬼龍作がこの絵画を本物と贋物とを入れ替えたという事実であった。
「あいつらしい」
小原は吐き捨てるように言った。あいつ、何を考えている?クリスマスが過ぎれば、
(返す)
というのである。
「何を企んでいる?気まぐれか、しかし、あいつはそんなことをするような奴ではない。それなら、なぜ・・・」」
小原はもう一度吐き捨てた。あいつは時々子供みたいに馬鹿げたことをやる。小原警視正はいつまでも絵画を見ている気はなかった。
止まっていた人がまた動き始めた.
「おっと・・・」
今度は、前に押し出されてしまい、もう一度人混みを掻き分けるのはやっかいだったが、思い切って、
「ちょいとどいてくれ」
と怒鳴りなから人を掻き分けて、
(あの女がいい、あそこまで行くか)
と思うが、思うように動かない。
途中から人の流れが変わり、絵画のある小さな部屋の出口へ人が流れて行く。
部屋と部屋の間に立っているコンパニオンに、
「館長に会いたいのだが」
と言って、警察手帳を見せた。
小原はコンパニオンを見上げる姿勢になった。彼の身長が低すぎるのか、それとも近頃の女の身長が高すぎるのか、小原は何度が考えたが、出て来る答えは、小原の身長が普通より低すぎるというどうしようもない答えだった。
コンパニオンは、
「少しお待ちください」
と言って、ゆっくりとした足取りで人が少ない方に歩いて行く。
そのコンパニオンのゆっくりと歩く姿を見て、また小原は苛立った。俺を誰だと思っている、警視正だと叫んだ所でどうにもならないのを、彼は哀しいかなよく理解していた。
普段から、
(俺は警視正だ)
という自負があり、結構意識して自分の感情を抑えるようにしていた。今こそ気持ちを落ち着けようとしたが、そうしようとすればするほどコンパニオンのゆるい足取りに苛立ちは増した。彼はこの感じに覚えがあったが、今の彼にそれを振り返る余裕はなかったのだが。さらに、館長を待っている時間の経過がのろく感じて仕方がなかった。
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