第5話
「うん」
幼稚園でも九鬼龍作の名前は時々話題になることがあった。ただ、その印象は、
「かっこいい泥棒さん・・・だね」
(そうだよ)
という返事が返って来るのを、陽太郎は期待した。しかし、彼女は、
「どうかな。お母さんは、そんなことはないと思うよ」
美千代は息子をちらちら見ながら、九鬼龍作への思いを話した。
彼女は時には話を止め、何か楽しいことでも思い出しているのか微笑み、電車の窓の外を見たりした。その後、二、三秒して、彼女は息子に微笑む。その時、彼女は、この子は、間違いなく私たちの子供なんだと確認し、ほっとしたような安堵の表情を浮かべたりしていた。
そんな母を見るのが嬉しいのか、陽太郎は、
「龍作おじさんのことが新聞に載っているんだね」
美千代は、
「そうだよ」
と頷いた。
「今度は、何を盗むの?」
美千代は、息子を優しい目で見、うふっと笑った。
「絵・・・この絵よ」
美千代は新聞に載っているひまわりの絵を、陽太郎に見せた。
「ひまわりの・・・?」
「そうだよ」
美千代はどんな絵か話し出した。
今年の最後の話題は、ゴッホの作品の公開だった。中でも、ひまわり、が目玉だった。東京、名古屋、奈良と三都市で公開されていた。東京、名古屋と公開され、絵画ファンだけでなく、普段絵画になどに興味ない一般の人々も多く見に来ていた。
最後が奈良博物館での公開になった。ところが公開初日、中堅どころの美術評論家が、展示されているひまわりが偽物と言い出したのである。
始め、騒ぎが大きくなるのを警戒して、秘密裏に調べていたが、精巧に出来た偽物と判明した。隠しているわけにもいかず、マスコミに発表された。
「絵は盗まれたの?」
陽太郎は目を輝かせた。
「うん。盗まれたようね。でも、偽物の絵だけど、公開されているのよ」
「どうして?」
「みんなが見たいって言い出したらしいの。精巧に出来た絵なら見せろって騒ぎ出し、結局奈良博物館で、その絵を見ることが出来るの」
「見てみたい!」
と言った後、陽太郎は黙り込んでしまった。
「ゆう。どうしたの?」
陽太郎が急に残念そうに下を向いてしまったのである。
「龍作おじさんは、どうしてその絵を盗んだの?」
美千代は息子の頭を撫でた。
「そうだね。どうしてなのかな」
美千代にも、今の所分からなかった。事件の全貌はまだ新聞には載っていなかった。でも、彼女には龍作の動きが手に取るように分かった。今の所想像でしかないのだが・・・。
(多分、そうに違いない。でも、まさか・・・)
と彼女は思うのだった。彼女にはそれがすごく嬉しかった。
「ひまわりの絵って、すっごくきれいだね」
「そうだね。ずっと昔の人が描いたんだけど、有名な人なんだよ」
「龍作おじさんは、その絵を盗んだんだね?」
美千代は返事をするのを躊躇した。
(何て言えばいいのかな?)
悩んだが、この子には真実を伝えなければいけない、美千代と思い、
「違うよ。少しの間、借りるって。そして、クリスマスが終われば、ちゃんと返すようだよ。お母さんにも、なぜそんなことをするのか、よく分からないんだけど・・・何に使うのかな?」
美千代はちょっとの間新聞に目を落とした。そこには龍作の似顔絵が写真として載っていた。
(この人が・・・あの人?)
彼女は微笑んだ。似ていなくもないが、美千代の知るあの人ではなかった。
陽太郎は母の視線の先にある似顔絵の人を見つめた。
何度目かな?
「この人が、龍作おじさん・・・」
美千代は返事をしなかった。
(どうかな・・・!)
ここ数年、美千代はあの人に会っていない。彼女の知っているあの人は、今もそれ程変わっていないと思っている。でも、彼女の心は揺らぐ。だって、あの人は彼女の想像を超えた考えのもと、おもしろ可笑しく動き回っているのだから。
(きっと、毎日が楽しいに違いない)
と美千代は想像する。
みんないろいろな想像をして、九鬼龍作はこんな人に違ない、いや違うよ、鼻はもう少し高いよ、そうじゃない・・・その内みんなは笑ってしまう。年長組の本棚にある怪人二十面相のように黒のシルクハット、そして、黒のステッキを持ち、黒のマントを着ているに違いない、と言う子もいた。
また、テレビが好きな男の子は、悪人に体を手術され、怪人になったという男の子もいた。結構、みんな龍作おじさんの話をして喜んでいる。
陽太郎は、そんな顔のおじさんじゃないと思う。それなら、どんな人だと思うんだと聞かれても、彼にはよく分からなかった。実際の姿を見た人は、まだ誰もいなかったのである。この事実が、多くの人の想像を掻き立てていた。
世界中で九鬼龍作の顔を知っているのは、私だけ・・・?美千代ははっきりと自信は持てなかった。あの警視・・・警視庁の小原正治警視正は間違いなく知っているはず。美千代はそう思っている。だが・・・。
そして、今頃、小原正治警視正は奈良に向かっているに違いない。
(あの人を捕まえるために・・・)
奈良県警から連絡を受けた小原警視正は、この時間博多行きの新幹線、のぞみに乗っていた。
(あいつ、何をやる気でいるんだ?)
小原警視正は呟いた。
何度も呟いた。
しかし、答えが浮かんで来なかった。
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