第7話「消せない罪」

 ここから飛び降りて──。


 無茶苦茶な要求に裕一はもちろん反論したが、ここは二階だしそんなに高くない、雪も昨日のうちにたくさん積もってるからクッションになる、などと言い返された。

 チェリーの唾が顔面にかかって顔をしかめる。この少女の発想は、無職男をいろいろな意味で殺そうとしていた。


 外が突然、静かになった。数秒ほど遅れてチェリーの顔が一気に青くなる。

「やば、外に部屋のスペアキー隠してるんだった……」

 ドアの方を向くチェリーの首元に、あの火傷の痕が顔を覗かせる。がちゃり、と不吉な音がした。ケガと社会的生命、もはや天秤にかける余裕もない。


 裕一は窓を開け、外に飛び出した。

 氷点下の外気が、一瞬で身体中を包み込む。寒いという感覚もかなたに押しやり、真下に積もる白銀の塊に向かってダイブした。


 痛みなのか冷たさなのか、分からない。とにかく腕や足がしびれている。

 しかし雪の塊はちゃんと裕一を受け止めてくれたようだ。頭だけ外に出してみる。上の方で言い争う声と、窓が力強く閉められる音がした。裕一の姿はバレていないのだろうか。

 長居は無用と、急いで家の敷地内から道路へと向かう。チェリー家は裕一の家よりも断然広い。庭にも立派な松や彫刻がずらりと並んでいた。


「お兄さん」

 家からやや離れたところにある電柱の陰で震えていると、チェリーが裕一のコートと荷物を持ってきてくれた。親の目はかいくぐれたのだろうか。聞くと、説教中に親がトイレに入った隙をつき、荷物を素早く脇に抱えて出てきたらしい。すごいな、と感想を漏らすと、得意げに歯を見せて無邪気に笑う。

「大成功だね。お兄さんが飛び降りた次の瞬間ドアが開いて、窓が全開になってるのいろいろ言われたけど、あんたみたいな不快な空気が入ってきたから換気してるの、って言ったらお母さんブチ切れてさー」

 女子会のトークかと思うような饒舌さで喋り倒す彼女に、裕一は改めて感心する。彼女も親に対して自分の主張を跳ね返されまいと、風に煽られる木の葉のようにしがみ付きながら生きているのだ。裕一と違うのは、それを十代の半ばでやってのけているということ。


「さ、今日はどこに行く?」

 腕を優しく引っ張られる。その明るい表情に、夢の中の妖精が重なった。彼女についていけば、答えが分かるかもしれない。この旅をしている、本当の意味が。


 あれから一週間が経った。

 親と喧嘩したまま家を飛び出したチェリーは、ちゃっかり親のへそくりを持ち出していた。その足しがあったおかげで、二人にはいろいろなところに出かける余裕が生まれている。

 日本百名城のひとつ、弘前城にも行った。冬季なので天守内部には入れなかったが、雪をかぶった立派な城郭には素直に感動を覚えた。

 そして、新幹線で北海道に足を延ばすこともあった。函館で食べたラーメンに、チェリーは頬を紅潮させながら言う。

「ふふ、これ、美味しいね」

 唇の端から麺が一本垂れている。それがちゅるりと吸い込まれていくのが妖艶さを誘い、思わず目をそらして自分の麺に慌ててがっついてしまう。

 この一週間、彼女を見てきて思ったことがある。

 それは、最初に会った時はうんと背伸びをしていたのだろうということ。知らない男とばったり出会い、なめられないように胸を張って応戦したのだ。裕一が夢に向かって親に反発したのと同じように。

 今、彼女は必死で自分で決めた立ち位置を守っているのだ。


「綺麗だね、雪化粧の五稜郭」

 函館旅行中、チェリーは五稜郭タワーの展望フロアで一人ごとのようにつぶやいた。九〇メートルの高さから見下ろす五稜郭は雪に覆われ、まるで銀色の巨大な星が大地に張り付いているかのようで、この時期にしか見られない非日常的な美しさを醸し出している。


 その美しい風景を眺めている彼女の首元から、あの不穏な痕が見え隠れする。小さく丸く付けられた、赤黒い火傷の痕。


 綺麗なものと、醜いもの。

 楽しいものと、怖いもの。


 極端なコントラストが、裕一の目をくらりとさせた。

 そういえば、と最近あまり覗いていなかったSNSをスマホで開く。景色に夢中になっているチェリーを横目で気にしながら『二人で五稜郭を眺めています』と書き込んで投稿する。

 その他にも、この子といるととても胸が安らぐことや、一人旅では味わえなかった楽しみもいろいろ増えたと、胸の内をスマホ経由でありったけ吐き出していく。旅に出る前、たくさんのモヤモヤが頭を支配していたが、いつの間にかそんなものもからりと晴れてしまっていた。


 函館駅前のホテルに戻って部屋の中でリラックスしていると、いきなりチェリーが自分のスマホを見ながら肩を震わせて吹き出した。

「どうしたの?」

 ベッドで寝転がっているチェリーの頭越しにスマホを見やる。しかし間髪入れず、右拳で裏拳を食らわされてしまった。ノールックで無駄のない動きだった。

「ばか、勝手に見るなし!」

 背中を丸め、我が子を抱くようにしてスマホを守る。その後、チェリーはスマホを鞄から出してはくれなかったが、裕一には殴られる直前しっかりと見えていた。

 チェリーのスマホの画面には、見慣れたSNSが表示されていた。


 それは紛れもなく、裕一のアカウントのページだった。

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