第6話「ランナウェイ」

 衣擦れの音がして、チェリーが少し裕一寄りに移動してくる。部屋に漂う甘い香りに加えて、嗅いだことのないシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。

 二の腕に温かい感触を覚える。細い身体が、ゆったりと預けられていた。

 ぼうっとして視線がふらつく。これはふざけているのだろうか。つい昨日出会ったような男に対して、もう警戒心を解いている。

 どこを見れば良いか分からず、仕方なしにチェリーの首元に目を落とす。ふと、うなじの辺りに何かが見えた。


 それは赤黒く変色した、丸い火傷の痕だった。直径一センチぐらいの小さなものだ。

 しかも、見える範囲だけで三つも確認できた。

 

 それを見た瞬間、胸の奥底から不快な圧迫感がせり上がってくるのを裕一は感じた。不穏な空気はすぐにチェリーへと伝わったようで、

「どうしたの?」

 身体をフッと離し、小首をかしげながら問われる。裕一は冷静さを保つため、彼女とは反対側の横っ腹を強くつねった。痛みで顔をしかめそうになるが、あくまでも冷静になって答える。

「いや、いきなりのことで。こういうの、慣れていないから」


 口ではそう言いながらも、頭では別のことを考える。火傷なんてそんなに珍しくはない。ただ、さっき見た火傷の痕は、三つとも妙にきれいな形で残っていて真新しさも感じた。

 あれは事故でできたものなのだろうか。そうであってほしいと願う。これ以上、彼女の闇を垣間見たくはない。


「私ね、一人っ子なんだ」

 急にチェリーが独白のような口調でつぶやいた。その横顔には寂寥じみたものが広がっている。

「昔からきょうだいがいる友達が羨ましかった。ずっと、お兄ちゃんか弟がほしいなって、思ってた」

 チェリーは体育座りの格好のまま、自分の膝をじっと見つめる。左足の親指で右足の爪を優しく撫でながら、とろんとした目つきでそれを見つめている。やや間が空いて、次に恥じらいのこもった声で継がれた言葉は、裕一を大変驚愕させた。


「だからね、お兄さんと一緒に旅してるの、すごく楽しいんだよ」



 その夜、裕一は夢を見た。久しぶりに、あの妖精が現れたのだ。

「旅に出てくれてありがとう」

 妖精は平坦な声でそう告げる。周りは灰色だか藍色だかが入り混じった、自分の乏しい語彙力では形容しがたい彩色の光景が広がっていた。力いっぱい妖精に向かって手を伸ばす。しかし、絶対手が届く距離にいるのに、裕一の指先は彼女に触れることすら許されない。

 声をかけようとしたが、喉の奥が引きつったように動かなくて、何も言うことができない。全身が薄い膜のようなもので覆われている感じがする。

 妖精はそれ以降何も言わず、裕一を残して奇妙な色の空へと消えていく。次に声が出たのは、汗だくで目覚めた次の日の朝だった。


「……びっ、くりした。いきなり大声あげないでよ」

 ベッドからチェリーが眠たそうな低い声で抗議する。裕一はビジネスホテルの時と同様、床に来客用の布団を敷いて眠っていた。ホテルの時は固い床に自前のコートだけだったので、待遇は格段に跳ね上がっている。

「ご、ごめん。ちょっと、ホラーな夢を見てね」

 裕一は額やら背中やら、いろんなところから汗が噴き出している。借りた男物のパジャマがびしょ濡れになってしまい、申し訳ない気持ちになる。

 閉められたカーテンの向こうではすでに陽が昇っていて、隙間から漏れる朝日が部屋の中をぼんやりと照らしていた。


 あの妖精は一体何なのだろう。心の奥で抱えていた疑問を引っ張り出し、頭の中で自問自答を繰り返す。導き出した一つの答えは、あれは自分の分身であり、ただの願望を訴えかけていただけだということ。旅に出て逃避したい、その思いが夢にまで出てしまったのではないか。


「お兄さん、朝ごはん食べよ。私が作ってあげるから」

 そう言うと、チェリーは鼻歌を歌いながら部屋を出て、階段をリズムよく下りていく。裕一はここ数日の出来事を走馬灯のように頭で再生していた。

 一体いつまで二人の旅は続くのだろう。立ち上がり、カーテンを両手でゆっくりと開けていく。隣家の屋根に積もった雪が、太陽光を反射してきれいな銀色の絨毯を広げていた。重力に負けた雪の塊が切り離され、大きな音を立てて地面に落下する。

 福岡ではまず見られない光景に、改めて遠くまで来たのだと実感させられた。


 しばらく外をぼうっと見ていると、今度は部屋のドアの向こうから連続した大きな音が聞こえてきた。それは階段を勢いよく上がる音で、それが切れたとほぼ同時にドアが勢いよく開かれる。


「た、大変! 親が、帰って来た!」


 心臓が回転したかと思うほどの動悸に襲われる。忘れていたが、ここはチェリーの家だ。言い換えれば、たった二日ほど前に初めて会った少女の実家。自分は彼女と何の接点もない無職の男である。

 もし、ご両親が娘の部屋にいる自分を見たら何と言うだろう。昨日はお楽しみでしたか、などとふざけてくれる可能性はまず排除していい。

 最悪、青森県警のお世話になるかもしれないのだ。


「チェリー? どうして逃げるのー?」


 階下から母親と思しき呼び声がする。そして、階段をやや早めに昇る足音も。


「やばいよ、どっかに隠れて!」

「どっかって、どこ?」

「どこでも!」


 外の足音が変わった。母親はもう既に階段を昇りきっている。裕一はとっさの判断で、クローゼットの中に潜り込み、戸を乱暴に閉めた。

 同時に、部屋のドアが開く。

 暗闇の中で、裕一は呼吸を奪われたかのような苦しさを感じる。


「なんでこんなに早いの?」チェリーの問いに対し、仕事の予定が大幅に変わった、などと説明する母親。そのまま立ち去ってくれればよかったのだが、チェリーが玄関で親とばったり会うやいなや自分の部屋に逃げ込んだことを、執拗なまでに問いただしてきた。

 チェリーは、そんな些細なことどうでもいいと反抗。早く裕一を安全なところに行かせたい、という焦りが苛立ちに変わり、つい声を荒げてしまう。それが完全に裏目に出てしまい、母親も徐々に声を荒げていき、しまいには関係ない別のことにまで怒りを広げていく。


 裕一は狭いクローゼットの中で全く身動きが取れない。かすかな物音も立ててはいけない。バレてしまえば、社会的に死んでしまう。背中がかゆいのも必死に我慢してただひたすらに耐え続ける。


「ほら、あんたがズボラだから、こういうところもちゃんと閉めないんでしょ」

 甲高い声が、裕一の隠れる方へ向けられる。クローゼットは乱暴に閉めたがゆえ、半開きになって部屋の光が内部に漏れていた。

 しかも、洋服の裾のあたりが戸に挟まって外に飛び出していて、それが母親の怒れる目に止まってしまったらしい。

 服をちゃんと中に入れるためには、戸を一度開かなければならない。がっと音がして、一センチ程度の隙間が一瞬にして十センチに広がる。

 裕一は膝を抱いて固く目を瞑った。


「お母さん、ちょっと、勝手に触らないでよ!」


 それ以上開けば裕一の存在が明らかになる、というところでチェリーの叫びがそれを阻止した。

 力を入れてうなる彼女の声で、母親をどうにか部屋の外へ押しやろうとしているのがわかる。当然、ここまで怪しい娘の行動に、ハイそうですかと母親が退くわけがない。

 離せ離さんの言い合いのうち、ドアが開く音と閉まる音が聞こえる。そしてカギがかけられる音も。


「お兄さん、早く、出て」

 クローゼットが勢いよく開けられ、裕一は狭い空間から解放された。

 母親は部屋の外に締め出され、激しくノックを繰り返しながら何やら早口で怒鳴っている。

 チェリーは強引に裕一の腕を引き寄せると、窓の外を指さしてこう言った。


「こっから下、飛び降りて」

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