第4話「君の知らない、私だけの秘密」

 成り行きでこうなったとはいえ、裕一は無駄にそわそわする体を抑えることができない。


「お風呂、空いたよ」

 ドライヤーで乾かした髪がふわりと浮いて、まるでホイップクリームのようになっていた。チェリーは部屋に備え付けてあった浴衣を着て、ベッドに腰掛けながらテレビのリモコンを操作する。

 二人は今、青森駅近くのビジネスホテルの一室で疲労の溜まった体を休めているところだった。


 いや、仕方のないことだと自分に言い聞かせる。

 たまたま、そう、偶然にもビジネスホテルの部屋が一つしか空いていなかったのだ。そしてその部屋がダブルベッドだということも決して図ったものではなく、偶然の産物であることは誰の目から見ても絶対に間違いはない。

 彫刻刀でゆっくりと刻み付けるように、おのれの保身のため強く強く心に染み込ませる。そもそも、この少女は今日出会ったばかりの歳の離れた見ず知らずの男と寝床を一緒にするという事実に、何かしらの違和感は感じないのだろうか。


「ね、ねえ、チェリー」

「ん? 何? タオルならもう一枚新しいのが置いてあるよ」

 そうじゃなくて、と裕一は語気を強めながら言った。チェリーはその様子に少し身を震わせ、表情をこわばらせる。眉間にややシワを寄せているが、それでも顔立ちの美しさは変わらない。

「ああ、ごめん。……あのさ、その、これっていいのかな、って」

「何が?」

「いや、男とさ、一緒の部屋に泊まるって、いうのが」


 言い終わらないうちに鋭いキックが飛んできた。

 完全に油断していた裕一は避ける間もなく、みぞおちあたりに強い衝撃を感じてベッドの上に転がり、うめき声をあげながらジタバタと悶え苦しむ。

 呼吸も整わないうちに、今度は身体の上へ二度目の衝撃。どうやらチェリーがベッドに登り、片足で裕一を踏みつけてきたようだ。

「ふざっ、けんな。発想が、キモい」

 声にドスを効かせながら、背中のあたりを素足で踏みにじる。

 あいにく裕一にそのような性癖はなかったので、ただただ痛みが増すだけの地獄に落とされたかのような気分になった。


 ひと通り罵倒された後、ふらふらの体で風呂に入る。シャワーの湯が背中によく沁みた。さっさと身体を洗い流して戻ると、チェリーはダブルベッドの隅っこに寝転がり、またスマホをいじっていた。それを見た裕一は思い出したように、自分のスマホをバッグから取り出してSNSにログイン、今しがた部屋で起こった出来事を丁寧に描写していく。


『おい……今、その少女と一緒に旅人用の宿屋なうなんだが』


 ホテル、と書くとどうしても語弊を招いてしまうと考え、できるだけ柔らかい表現でお伝えしていく。リプライはすぐに来た。


『ちょ! まじですか! やりましたな』

 何がやったなのかは分からないが、裕一はすぐに返信する。

『違う、ただ、体調が悪そうだったから、休ませるだけ』


 ひとしきり囃し立てられた裕一は、適当なところでSNSをログアウトして再びベッドの上のチェリーを見やった。彼女はつまらなそうにスマホの画面を凝視していたが、やがて飽きたのかそれをベッド脇に放り投げ、布団をかぶって寝に入る態勢をとる。ここで裕一は気がついた。チェリーはベッドの中央に堂々と陣取っている。これでは寝るスペースが確保できない。


「あの、チェリー?」

 裕一の声掛けを無視し、静かな鼻息をたて始める。それはとても規則正しく、見ているこっちまで眠くなってきそうなほど心地よいリズムを奏でていた。しかし、少女の寝息にのんびりと聞き入っている場合ではない。このままでは裕一の寝床が、固いカーペットの敷かれた床の上になってしまう。


 もう無理矢理起こして自分のスペースを取ってしまおうか。そう考えた瞬間、チェリーの寝顔が視界に飛び込んでくる。彼女はおそらく、家を出てからろくに休んではいない。やっと辿り着けた寝床で、安らかな寝息を立てて眠っている。その顔がまるで、あの夢に出てきた妖精のもののように見え、裕一は慌てて目をこする。再び見やった少女の顔は、ちゃんとチェリーのものだった。


「お母さん……」


 何か寝言をつぶやいた。ちゃんと聞き取れなかったが、おそらく自分の母親を呼んだのだと裕一は確信する。彼女は家出をしたと言っていた。裕一も、それ同然の身である。この旅がいつまで続くか分からないが、もしかしたら自分も親が恋しくなる瞬間があるのだろうか。少し考えて、裕一はため息をつく。


「……もう寝よう。今日はいろいろありすぎだ」

 床につく前に今一度、チェリーの顔を覗いてみる。彼女はとても寝つきが良いらしい。一定のリズムで呼吸を繰り返したまま、もう起きる気配は微塵もなかった。

「仕方がない、床で寝るか」

 ここは大人であり男である自分が譲歩して、この固い床で睡眠にありつくとしよう。裕一は部屋の照明を豆電球だけにすると、自前のコートを体にかけて床に寝転んだ。目を閉じると、今日の出来事だけではなく、今までの人生でかいてきた恥が一気に思い出される。


 なぜ、今なのか。すぐそばに赤の他人の少女がいるというのに、なぜ今になってこんなに悶絶するような思い出がほじくり返されるのだろうか。

 真っ暗闇の中、裕一はコートを破らんという勢いで強く掴み、床に頭を幾度も打ち付ける。これまでの人生で、自分は一体何を積み上げてきたのだろうか。時々、こういった自己嫌悪じみた発作のようなものが沸き起こることがある。


 二十八年間、のうのうと生きてきたツケをいつ払わなければならないのか。それがわからないから旅に逃げたのではないのか。あの妖精の言っていた「旅に出れば分かる」という言葉を鵜呑みにして、社会の苦しいしがらみから逃亡してきただけだと、裕一は考えれば考えるほどに身体中が熱くなって、今にも沸騰して溶けそうな心持ちになる。


 手探りで出発した目的の見えない旅。そこに現れた、一人の少女。

 多少目が慣れてきた闇の中、裕一は音を立てないようにして起き上がり、ベッドで寝息を立てているチェリーを見下ろした。彼女は一体何者なのだろうか。


 近づいて、顔を覗き込む。薄暗くてよくは見えない。だが、ふっくらとした唇の稜線がぼんやりと浮かび上がり、そのすぐ上にある鼻筋の滑らかな坂が、豆電球のかすかな光に照らされ、強く美しく、眩しいほど輝いているように見えた。

 十数年の差がある人生どうしだが、お互い苦しいものを胸の中に秘めて暮らしてきたのだろう。しかし、なぜか今の裕一の目には、彼女がはるか上の高みにいる勝ち組のように見えてしまっている。もう少し、身を乗り出してその顔を見たいと思った。


 気がつけば、美しい顔がすぐ目の前に迫っていた。あと数センチも近づけば、完全に触れてしまうだろう。生温かい吐息が裕一の口元に一定の間隔で吹きかけられる。熱い鼻先が、今にも触れ合いそうになる。理性を保とうとすればするほど、自分が今しようとしていることがくっきりと脳内で反芻され、余計に心の悪魔たちが騒ぎ出してしまう。


「やだ……やめて」


 かすれるような声が漏れ、裕一はもう少しで物音を立てそうになった。我に返って、一度自分の頬をぴしゃりと叩く。跳ね上がって胸を突き破りそうな心臓を抑えながら、チェリーの寝顔を落ち着いて見てみる。

 どうやら、寝言を発したようだ。目覚めてはいない。それを見て裕一は安堵の息を吐いた。同時に、その寝言が妙に物悲しく聞こえたことが引っかかる。この家出少女が抱えている闇は一体どんなものなのか。それを知る権利は、赤の他人である自分にはないのかもしれない。


 だが、裕一はなぜか彼女のことをもう少し知りたくなっている自分に気がついていた。得体の知れないシンパシーを少女に感じ始めている。


 ふと時計を見ると、すでに午前二時を回っている。

 先のことはとりあえず明日になってからと、裕一は再びコートをかぶって床に倒れた。

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