第2話「青森駅は雪の中」

 実家のある九州から、基本的に列車を使っての移動をこころみる。その方が一人旅っぽさが増幅すると思ったのだ。季節は冬、ちょうどJRの青春18きっぷが使える期間だった。


 まだ陽が昇る前の早朝、自宅近くの駅構内にあるみどりの窓口で早速二枚ほど購入する。これで十日間は一人で旅が続けられることになった。どこに行ったらいいのだろう。とりあえず北を目指そう、と裕一は駅の待合室で時刻表をめくりながら考える。この時期の北国の気候は酷だが、雪景色を見ながらの列車旅というのに裕一は少し憧れがあった。


 大きめのリュックに着替えをありったけ詰め込み、列車内では網棚の上に乗せる。たったこれだけの行為で裕一は自由気ままな旅人になった気分になり、心が湧き躍った。

 始発列車が動きだす。レールの上で軽快なリズムの音を鳴らしながら走る。遮断機のカンカンカンという音が前方から超スピードできて、すぐに後ろへと消え去っていく。窓の外は時間が経つにつれてぼんやりと明るくなっていき、空は藍色から水色に変化、そして朝日の眩しい赤がまぶたを熱くしながら撫ぜた。


 胸がスカッとする気分になる。裕一は幼い頃から、あまり旅行に行った記憶がない。両親がそういうことに乗り気ではなく、たまに出掛けるといったら近場の寂れた遊園地がいつものパターンだった。なので今回の「旅」はとても新鮮に感じ、やっぱりこの選択をとってよかったとも思えてくる。今日はどこまで行こうか。途中で観光地に寄ったりして、その土地の歴史的建造物やグルメを楽しんだりもしたい。そんな子供のようなわくわくした気持ちが、裕一の心の中で踊り狂っている。スマホを取り出し、SNSに旅のことをつぶやく。普段やりとりをしているユーザーから早速反応があった。


『旅行ですか。いいですね〜』


 笑顔の顔文字つきで、裕一の旅を羨ましがっている。やがて、他のユーザーからも次々と反応が生まれていった。

 一人旅は孤独のように見えるが、このような文明の利器を駆使すればけっこう賑やかなものだったりする。その後も、何気ない景色などを写真に撮っては、どんどんSNSへと投下していった。


 やがて関門海峡を越え、瀬戸内海を横目に関西へ入る。しばらく大阪や京都で観光を満喫し、また列車で東へと向かう。東海、関東、東北……。数日をかけて徐々に景色が白く変わっていき、気付けば視界は一面の銀世界に覆われていた。


 気の向くまま流れに流れて降り立ったのは、青森駅。時刻は十七時を過ぎたところだった。改札を抜けて外に出ると、冷たい風が叩くように吹き付けてくる。

 駅前は雪で白く染まっていて、踏みしめるたびに心地よい音が足の裏から伝わる。やや吹雪いており、積雪も例年より多めのようだった。目の前のバスターミナルには、家路を急ぐ人たちが肩を丸めて自分の乗るバスを待っている。北国の人は皆、雪の上をスイスイと歩いていて、ぎこちなく雪面に足を乗っける自分がなんだか恥ずかしい気持ちになってきた。


「さてと、まずは宿でも探すか……」

 裕一はスマホで付近のネットカフェを検索する。しかし、この近くにそのような施設はないようだった。

 仕方がないので、少し値段は張るがビジネスホテルを検索してみる。すると、駅前に該当する建物が数件あることが表示された。一番駅に近いところは九千円以上する。少し歩けば七千円のホテルがあった。迷ったが、お金は節約しておいたほうが良いだろう、との判断を下して駅から歩くことに決める。

 地図アプリでホテルの場所を確認しながら、雪の降り積もったアスファルトを踏みしめていく。


 だが歩いているうちにだんだん、大通りを行くよりも路地を経由したほうが近そうな気に駆られてきた。見知らぬ土地で推測での歩きは極力避けたい気持ちもあったが、氷点下まで下がった空気に当てられた体を一刻も早く温めたい、という念のほうがどうやら優勢のようだった。

 結局裕一は大通りを外れ、車がすれ違えるかどうかという細さの路地を行くことに決める。


 それが運命を大きく左右する選択だった。


 やがて前方に見えてきた雪の積もる塊を、始めは不法投棄されたゴミだと裕一は頭の片隅で思う。そして一歩ごとに近づくたび、その認識は誤りであったということに嫌でも気づかされることとなる。


「え……?」


 その塊は紛れもなく人の形をしている。茶色のコートにグレーのズボンを履いて、うつ伏せの状態からだらりと投げ出された二本の細い腕と脚……。マネキンであると祈りながら近づいてみたが、その祈りは通じなかった。

「え、これ、人?」

 人通りの少ない路地の裏、裕一以外には誰もいない。おそるおそる体に触れてみると、まだぬくもりが残っていた。そしてこの時初めて、倒れているそれが女の子の身体をしていることに気がつく。このことをSNSに書こうかと思ったが、それはやめておいた。

「君、ちょ、大丈、夫?」

 寒さからなのかイレギュラーな出来事に動揺しているからなのか、裕一の舌はうまく回ってくれない。少女の身体をゆっくり仰向けにして、もう一度声をかけながら優しく肩をゆすってみる。

 雪のように白くなった唇が、一瞬だけ動いた気がした。再び身体をゆすりながら声をかけると、少女はまぶたを重そうに開けながら、喉の奥から何か言葉を発し始めた。


「…………れ?」

「君、大丈夫かい? どこか具合でも……」

「だ、れ? あなたは……」


 もそっと半身を起こした少女は、しばらく裕一の顔を見つめたままボーッとしていた。だが、徐々にその瞳は開かれていき、口もわなわなと震えながら舌先を覗かせていく。

「あの……本当に大丈夫?」

 そう言いながら差し伸べた手は、鋭い痛みとともに細腕に弾かれる。一瞬だけ、ぽかんとした静寂が流れた。

 そして少女は勢いよく立ち上がると、陸奥湾を越えて下北半島まで届くかというほどの大きな声を吐き出した。


「きゃあああああああああ‼︎ 変質者ぁぁぁぁぁぁぁ‼︎」


 固く目を閉じて腰を折り前かがみになりながら、肺の中の空気を一気に放出するかのごとく、少女は叫び続ける。裕一は何事が起きたのか分からず、また変な夢を見ているのかと思ったが、どうやら目の前で繰り広げられている光景は本物らしい。

 しかし、現実を悠々と認めている暇などなかった。もしも今、誰かがここにやってきてしまったら、確実に裕一は変質者としてしかるべきところへ送られるだろう。相手は歳の頃、一〇代半ばの少女である。二十八歳の無職の男が何を言おうが、世間がどちらに味方をするかは自明の理だ。


「ち、違うよ。聞いて? あの、俺は君が倒れているのを見て、心配で、声をかけて」

「んで、女子高生の身体にだんだん興奮してきて、ぱくっと食べちゃおうとしたんでしょ!」

「してない! 発想が飛躍しすぎだよ!」


 こんなくだらないことで騒ぎになるのはたまらない。裕一は少女の両肩を掴んで訴える。それに驚いたのか、彼女は小さく悲鳴を漏らすと、さっきまでの威勢は何処へやら、じっと裕一の顔を見つめながらフリーズした。その反応にやや驚いたが、こんな大人の男にいきなり肩を強く掴まれたら、驚くのも無理はないのかもしれない。


「とにかく、どこか落ち着ける場所で話をしよう。完全に容疑を晴らさないと旅に支障が出る」

「旅……? お兄さん、旅行者なの? そういえば大きなリュック背負ってるね」

「そうそう。だから怪しい者じゃないってことを証明するからさ」

 とは言っても、裕一はたった今この街に来たばかりだ。ゆっくり話せるような場所がどこにあるか全く知らない。したがってネットで検索しようとスマホを取り出したタイミングで、少女が口を開いた。


「だったらさ……私もその旅、連れてってよ」


 つい、スマホが手から滑り落ちそうになった。慌ててそれを阻止し、スマホが無事なことを確認してからゆっくりと顔を上げつつ、あまりにも予想外すぎる言葉を発した行き倒れ少女の顔をうかがう。


 少女は後ろ手になり、口角を吊り上げながら不敵な笑みを携えて裕一を見上げていた。

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