北国のチェリーガール

よこどり40マン

第1話「決意の朝に」

 世間では二十八歳というと立派な大人であり、とうの昔に自立しているものらしい。

 ふざけるな、と裕一ゆういちは心の中で唾を吐く。目の前にあるのはパソコンのディスプレイとコンビニで買ってきた菓子類。アーモンドチョコレートを噛み砕きながら、ネット上へ大量に落とされた淫乱な画像や動画を漁ったり、SNSに日々感じたことをつぶやくのを休日のたしなみとし、普段はウェブコンテンツの宣伝をするための文章を用意するライター兼その他雑務としてしがない日々を送っていた。


 実家暮らしの空気ほどうまいものはない。二十八年間暮らしている部屋は数多くの漫画やゲームソフトで埋め尽くされ、時間になれば食卓に飯が出る。毎月給料日になると申し訳程度の金を家に返し、あとは好きなことをしていれば良い。子供の時よりも、家での生活に縛りが少なくなっていることは実感していた。


 パソコンをスリープモードにし、いつものように階下へ飯を喰らいに降りる。裕一はいつもよれよれのジャージをパジャマおよび部屋着としていた。高校の時にイオンのセールで買ったもので、物持ちが良く大変気に入っているのだ。

「いただきます」

 今日の夕食はカレーライスだった。昔から日曜は決まってこのメニューが出る。特に理由はないのだが、もしこのルーチンが崩れてしまったら気持ち悪くて飯の味がしないかもしれない。そのくらい、裕一は毎週日曜日のカレーライスを楽しみにしていた。


 テレビではサザエさんが買い物かごを手に、八百屋の主人と楽しそうに話している。裕一の正面に座る父親は仏頂面で、黙ってスプーンを口に運んでいた。母親はまだ台所で作業をしていて、夕飯には手をつけていない。

 いつからだったか、この家では食事中にあまり会話をすることがなくなっていた。出る言葉は「しょうゆ取って」「お茶」「ごちそうさま」など。テレビだけは必ずついているので、無音ということはなかったが、この一家は必要最低限のコミュニケーションで無駄な消費エネルギーを省き、黙々と栄養を摂取しているのだ。そしてそのまま各々の時間へと戻っていく。父親は自分の書斎で読書を、母親は録りためていた韓流ドラマをリビングで視聴、裕一は引き続きネットの海へとダイブしにパソコンの前へ。


 こんな生活が、ここ二年ほど続いている。

 裕一は大学を出ているが、すぐに就職したわけではない。卒業間近、両親に向かって急にこんなことを言い出した。


「小説家になりたい。文章の勉強がしたいから、専門学校に入れてくれ」


 もちろんこれには猛反対にあった。私立の大学に四年間通うのにどれだけ金が要ったか。それより前も、ここまで育てるのに金がどれだけ要ったか。落雷を浴びるような叱責を受けたが、裕一はそれでも折れなかった。粘り強く交渉し、条件として一年間アルバイトで入学金を稼ぐこと、その後の学費は奨学金でまかない、それを数十年かけ必死に働いて返す覚悟を持つことを提示される。裕一はこの時、夢に向かって根拠のない自信に満ち溢れていた。夢は必ず叶う、こんな条件喜んで受け入れてやる、と。


 結果、在学中に夢は叶わなかった。卒業後、ウェブサイトの文章校正や運営を手伝わせてくれる会社になんとか滑り込むことはできたが、今の給与で一人暮らしだとどうしても奨学金の返済が苦しくなる、などと言い訳し、そのまま実家に寄生することになってしまったのだ。

 信じていれば夢なんてすぐ叶う……ひとつ若さを失うたびにそんな自信は擦り減っていき、いつしか裕一の心はいかに人生を怠けるかを考える機械となっていた。その最大の怠けが、この実家暮らしなのである。同級生はとっくに自立し、充実な社会人生活を送っている中で、裕一だけが未だに親鳥のいる巣から飛び立てないでいた。


 部屋に戻ってネットサーフィンの続きをやろうと思った矢先、裕一をだるい眠気が襲う。

 おかしい、いつもならここから深夜の二時ぐらいまで自分の時間なのに、なぜか今日に限っては睡眠欲が激しく主張してやまない。両手と両脚が麻痺してしまったかのようにヒリヒリと痺れ、次の行動をしようにもまるで鉛をくくりつけられている感覚に襲われる。当然、風呂に入る気力などあるわけもなく、仕方がないのでそのままベッドに倒れ込み静かに目を閉じた。


 凪いだ海に浮かんでいるような心地よさを感じる。そこは、どこまでも深い真っ黒の空と、一面グレーに染まった大地。裕一はこの広大な大地の真ん中に佇んでいた。

「聞こえますか」

 不意に、上空から声が降ってくる。

「え? なんだ……?」

 声のした方を見やると、そこには妖精がいた。「妖精」と形容するしかない。白のワンピースに身を包み、背中からティンカーベルのような羽が生えている少女が空に浮いているのだ。

「君は、誰だ?」

「旅に出て」

 裕一の質問を無視し、妖精は透き通るような声で言葉を紡ぐ。目を閉じて、いつまでも聞いていたいほど綺麗な声色だった。

「旅? どうして? いや、それよりも君は」

「旅に出てください。そうすれば分かります」

「いや、ちょっと待って、いきなりそんな……」

 そのまま声はフェードアウトし、妖精は天にゆっくりと昇っていく。裕一は何度も問いかけるが、もうそこには真っ暗な空以外、何も見ることはできなかった。


 ベッドから飛び起きてそれが夢だと理解した瞬間から、裕一の頭の中はその妖精の言葉でいっぱいだった。

 旅に出ろとは、一体どういうことだ? そもそも、あの妖精は何だったのか? いや、これはただの夢で、そこまで真剣に考える必要はないか? そう、あれはただの夢だったのだ。なのにどうして、ただの夢だったでは済まないのか。朝食を食べている時も、通勤途中も、会社でも、昼休みでも、会議中でも、帰宅途中でも、夕食時も、妖精の言葉が頭について離れない。もう一度夢の中で会えれば何か分かるかもしれないと期待し、裕一はまた早めの時間にベッドへ潜る。


 しかしその日以来、夢に妖精が現れることはなかった。


 何日か考えた後、裕一は専門学校入学を親に懇願する時以来である、一世一代のある決断を下すことを決めた。コンビニで便箋を買い、決して上手いとは言えない字で丁寧に文章を書いていく。決意の強さを訴えかけるように、一文字一文字に気持ちを込めて。

 そして思いの丈を込めた便箋を封筒に入れ、表にデカデカとまた汚い字でこう書いた。


『退職届』


 裕一は会社を辞め、妖精の言葉に従い旅に出ることにしたのだ。

 当然、親からは人生史上最も猛烈な反対にあった。「考え直せ」「馬鹿言ってんじゃないの」などと交互に怒鳴られる。

 だがそれは当たり前の反応だ。実家に寄生し続けた挙句、世間様に顔向けできる唯一の理由だった正社員と言う肩書きを捨て、何を言い出すかと思えば遠くへ旅に出るなどと言う。これで反対されなかったら逆に裕一の方が腰を抜かすところだ。


 裕一はマメな性格で、学生時代からこつこつと貯金を貯め続けていた。いつか大きなことをやる時に要るだろうと思っていた貯金通帳を、まさかこんな形で使うことになるとは。しかし裕一はもう決心していた。誰が何を言おうと、とにかくいろんな土地をめぐってあの妖精にまた会いに行こうと。なぜ自分を旅に出させたのか、その理由を問うてやろうと。


 いろいろな感情を胸にしまったまま、ついに出発の日付がやってきた。

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