#02 ホームフレンド

 ルームシェアという言葉が流行って久しい。

 最盛期に痛い目を見て目が覚め、常識的な人間関係に回帰する話も今では当たり前になりつつあるこの現代社会で、今助はなぜかハスリと共に暮らし始めた。


 行きずりではない、と今助は自分に言い聞かせた。

 少なくとも、泥沼みたいな状況を感じたら直ちに行方をくらます所存と本人は覚悟している。


「そこのキミ、な~んか貧乏そうだね?」


 そんな挑発的で単純な文句に踊らされた上でのビジネスパートナー、――建前はそうだ。

 それに、やたら広すぎると自負するだけあり、事実上の同棲先であるハスリの住むマンションの一室では寝室は別だ。


 都合の良いように動かされている、とようやく気付いた今助だが、別に拉致監禁されたわけではないわけで、立ち去るも容易だ。

 そこそこのマンションの内部を一目見てから退いても遅くはなく、単に容貌もそこそこの女性に招かれるという事態に対し、今助は軽くもある。


 このまま消えるよりは、というのが今助の明け透けない気持ちだ。

 取り立てて不遇でもないが、イラストレーターなどという肩書きである以上どうしても女性に縁が薄い今助は、何が女性にとって軽率かを良くも悪くも知らない。


 だが、そこから今助の誤算が始まる。


「じゃあ、今から警察が来るから」


 ハスリの言葉に、今助はぎくりと一切の動作を停止した。

 女性の中には残念な男を陥れるプロみたいな類いが紛れている。そしてどうやら彼女はそちら側のようだ、というわけだ。


 間髪入れず、ドアホンが鳴り、更にノックが響いた。


「……なんで」


 今助は名前を知っているハスリなのだから気を多少は許しているはずという思いに未だ囚われ、口走った。


「いや、保険証。ていうか、キミってスリとか用心しないの?」


 言うなりハスリは今助の保険証を、薄灰色のポーチから取り出した。まるで私物のように。


「前にも会ったかしら、私はただのスリ常習犯。だけど……証拠がないからキミだけが犯罪者なの」



 ガタガタと扉を叩く音は止まない。更には「今日宮さん。京都府警です」と言う声。


「府警?」


 今助は驚愕した。彼らがいるのは確かに京都だが、どちらかと言えば知名度の低い郊外の町に過ぎない。


「知り合いがいるの」


 予想を越えている、とただただ今助は屹立し震えた。


「じゃあね、牧積 今助」


 しずしずと扉を開け放ちに玄関に向かう女を、彼は止められない。


「うっうっ」


 嗚咽が漏れた。実際、今助は軽い吐き気を催していたのだ。



 ガチャリ、と扉が開く音がしたのは聞こえた。今助にはもう気力がなくて振り向けもしないが、扉一つ挟んだ玄関までの廊下の先にいるのがハスリと警察だ。


 しかし「ええっ、いたずら?」と声がしたなり静かになり、ハスリは程なく戻ってきた。


「ねえ……死ぬかと思った?」


 ハスリはきゃきゃきゃと嬌声じみた笑い声を立てた。


 何を考えている、――今助の感情は混乱に満ちた。しかし取り敢えず彼は、素直にこくりと首肯くことにした。


「でももし、乱暴な人でヤバかったら本気だった!」


 そう言いつつ抱き締めようと両手を広げてくるのだけは、今助はおどおどしながらも避けた。


「えっ、体目当てでしょ?」


 まるで絶滅危惧種を見るように、ハスリは今助を見た。


 体目当てのつもりだけは、今助にはない。あくまで見た目の良い女性に家に招かれて嬉しいだけの草食系なのだ。

 だから素直に、今助は少年のように首をぶるぶると横に振った。


「いやいや、空気読もうよ……」


 ここで言う空気を読むとは、と今助は疑問に思ったが、なぜか冷たいハスリの視線には沈黙が金とだんまりを決め込んだ。


「自首してくるから」


 よく分からないままに今助がそう宣言すると「自首」とハスリは反芻した。


「えっ、私に興味ないパターン?」


 興味という観点になると、今助は他人への関心の薄さについては自覚している。

 ただ、今は興味だとかそういうベクトルで話してはいないと彼ははっきり思った。


「俺、自首してくる」


 バカの一つ覚えのようにまたそう言い、今助はまるで義務感に憑かれた衛兵みたいにキビキビと玄関に向かい出した。


「ちょ、ちょっと冗談、冗談だってば。さっきのは」


 ハスリは咄嗟に、今助の左腕にしがみついたものの「おっ」と間の抜けた声を上げて手放した。


 今助は立ち止まろうとはしない。

 普通ならそこで多少なりとも後ろを振り返るなりしそうなものだが、決してそうせず、ただ先ほどよりも動きに精彩を欠いていた。


「俺は将来が不安だ」


 ポツリと彼は呟いた。

 相変わらず聞こえるか聞こえないかのぼそりとした声なものだから、ハスリは聞き直そうか迷った挙げ句になぜかしら後ずさりした。


 その気配に気付きようやく振り返る今助に「キミの真似」とおどけようと口を開くハスリだが、思い直した。

 その結果、変に半端な表情で固まる彼女。そんなハスリに今助は少しだけ歩み近付いた。そして、


「やっぱり俺、帰るよ」


 とだけ告げて玄関に向かった。

 とんでもなく冷えた空気の中、ハスリはぷっと笑いを吹き出した。


「意地っ張りめ」



 ホームフレンド。

 ハスリは二人の関係をそう名付けた。


 友だちですらない二人が友だちになるためのホームフレンド。

 男女に友情があるかは諸説あるけれど、だからこそホームフレンドという段階を設けるという発想だ。


「ねえ、今くん。ちょっとチャック締めてくれる?」


 ファスナーでなくチャックという古くさい言い回しをためらわないハスリに、素直に今助は従う。

 それは洋服の首もとにあるのだが、後ろに付いているために自力では確かに難しいのだ。


 今助は何も言わず、繊細な注意を払うかのようにゆっくりとファスナーを上げていった。


 保険証を結果的に盗んでしまったハスリは、出会った日に「エーゲ海」を出てからその事実に気付いて今助を探した。


「えっ、さっき帰ったけど」


 店主に言われ、急に焦り出したハスリの耳には「でも常連だから」という説明は入らなかった。

 だが散々探し歩いた街角に、今助の叫びが偶然に響き渡ったのだ。


「スムージー飲む?」


 回想から我に返ったハスリはすっくと椅子から立ちあがり、そう言いながらリビングに向かった。


「水で良いよ」


 変にストイックな今助は、ここでも欲しがらない自らをそう主張した。


 ホームフレンドに特別なルールはない。

 でも恋人ではないから、お互いのプライバシーにはあまり踏み込まないということだけは暗黙に誓いとなった。


 スムージーに添えるレモンの香りをハスリは嗅いだ。さも山の空気を味わうように鼻孔いっぱいに芳香を吸い込むだけで、彼女は幸せになれるタイプなのだ。


「何かおかしい?」


 くすくすと今助が笑うので、ハスリはむっとして見せた。

 すると何も言わず彼は両肩を竦め、そして何度かわざとらしくまばたきした。


「気持ち悪いから」


 ハスリは真顔でそう言うが、ホームフレンドなのでそれなりに気遣ってキツすぎないように多少は冗談めかした。


 そして今助は仕事に向かっていく。

 ビジネスパートナーとは行っても、はっきり言ってハスリは今ニートだ。

 先日、大手の証券会社を晴れて人間関係が原因でクビになったばかりなのだ。


「頑張れよ、ニート」


 口パクでそう嫌味たっぷりに言い、今助は部屋を出た。


「ふああ……」


 一人きりになった途端、ハスリは深々とあくびをした。働くのを辞めると、人はやたら眠くなるのだ。


 それは仕事を探せばすぐに解決する性質なのだが、かれこれ半年ほどハスリは働いていない。

 実は彼女は、今助に会わなかったら今頃、自殺していた。今日宮ハスリは、人生に絶望していたのだ。

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