バー・居酒屋

天国のバー

「ここは天国さ」



男は、ぽつりと、そう言った。


特に誰かに言って聞かせようとした言葉ではなかったようだ。その証拠に、男の周りには連れが見あたらない。一人でコニャックのグラスを傾けている。そして終始うつむき加減の姿勢を崩さない。


「なあ、そうだろ?」


第三者から見れば、彼はグラスに向かって語りかけているように見える。


バーテンは、いつもなら声を掛けていたところだったが、どうしようか迷っていた。


何となく、今は声を掛けない方が良いような気がしたのだ。これは、長年、経験を積んできたバーテンとしての勘によるものだ。


幸いなことに、男の言葉はつぶやきのレベルで周りに聞こえている様子もなく、他の客に迷惑にならなければ自由にさせておいても構わないだろう。悩みを抱えて一人で酒を飲みたい客だっている。



すると、隣の空席がいつまで経っても埋まらず、その空疎感に業を煮やしたらしい一人の女性客がやって来た。彼女は不安定な手つきでカクテルグラスをふらふらと宙に漂わせながら、カウンターの周辺をなめるように通過しながら男の隣にたどり着いた。目が完全に据わっていて、一目で泥酔しているのが分かる。


「ちょっとあんた、何一人でぶつくさやってんのよ」


女はそう言うなりグラスを持たない方の手を腕ごと男の肩にまとわりつけてきた。物腰の一つ一つに有り余るほどの扇情的な動作が散りばめられていて、好戦的なまでだ。戦うという手段のためには目標や標的を選ばない、と言う空気が感じられる。


男はちらりと女に目をやって、


「君はどう思う?」


と聞いて、再び視線をグラスに向けた。男はあくまで冷静だった。


「何の話? あ、待って。小難しい話は無し。そんな気分じゃないの」


女は男の肩に巻き付けていた腕をほどき、その指先を横からむりやり男の唇に当てた。巨大な胸を張り、艶めかしい微笑みを浮かべる。もう片方の手は、グラスを空中でふらふらとさせたままだ。


「色っぽい話にして」


女はそう言うと男の顔をゆっくりと自分に向けさせ、その手を自分の口元に運び、さっき男の唇を塞いだ指先をちろりと舌先でなめ回した。


男は自嘲的な色合いの強い小さなため息を、鼻でならした。


「ここは天国だろう?」


「残念ながら違うわ。でも道は知ってるから。あたしが天国まで案内してあげる」


「すまない。今日はあんまり気分が乗らないんだ。いつもなら… いや、別にいい」


「なあにぃ? 嫌なことでもあったのぉ?」


「いや、俺はいいんだ。俺のことはすこぶる順調だと言っていい。ただ、周りに色々と悩みを抱えてるやつが多くてね。そう言うことを色々と考えてたんだ」


「なにそれ。他人の悩みが悩みの種で、悩んでるうちにあんたが悩み始めて余計に悩み深くなったってこと? ん? 合ってる? 今の」


「だいたい合ってる」


女はさっき舐めた指先を男の頬に軽く突き刺してぐりぐりとこね回していた。


「もう、そんなの忘れちゃいましょうよぉ」


「そうしたいんだがね。なかなかそうはいかなくて」


「わかった。あんた、カウンセラーか何かでしょう。人の悩みを聞き過ぎて食傷気味になっちゃったんだわ。きっと」


男は『おや』と言う顔をした。


「よくわかったな。その通りだ」


「ほんとに!? わあ、当たっちゃった! ねえねえ、私の悩み、ただで聞いてくれない? あんたたち、聞き上手なんでしょ?」



バーテンは、一度カウンターの奥の厨房に姿を消して、しばらくしてから戻ってきた。


「Mさん、お電話が来てるんですが、お繋ぎしますか?」


男は何かが顔に当たったのだけれど、何が当たったのか全く分からない、と言う顔をして、


「俺に電話?」


「ええ。すみませんが、コードレスフォンではないので、奥でとっていただけますか」


M氏は何となく合点がいかないような顔をしつつも、バーテンの言葉に従った。


バーテンは店の奥にM氏を連れて行き、


「すみません。電話は嘘です。少々、ご気分が優れないように見受けられましたので。あの女性は退屈が我慢できない方ですから、もうしばらく待っていれば、河岸を変えてくれますよ。それとも、余計な気配りとなってしまったでしょうか?」


「いやいや。そんなことだったとは。ありがとう。正直、助かったよ」


バーテンは、人の良い笑顔を浮かべて、


「では、こんな所では何ですので、こちらへ」


と言って、厨房の奥の扉を開いた。


そこには小さなベランダがあって、控えめな大きさの丸テーブルとデッキチェアが二つ、テーブルの両脇に置かれていた。そこはバーテンが気晴らしに寛ぐための場所だという。


「地味ですが、この世の天国と言えなくもないですよ」


ベランダからは都市の夜景が一望できた。さすがにビルの裏側なので百万ドルの夜景、とはいかないものの、それは十分に美しい光景だった。


「すごいね。悩みを忘れそうだ」


男は思わずそう言った。


「常連さん専用です。ただ、予約は出来ませんので、そこはご勘弁を。頃合いを見計らってまた声を掛けます。それまでごゆっくりどうぞ。まあ、今日はMさんの貸し切りでもいいですけれど」


「なんだか逆に、すまないね」


「いえいえ、とんでもない。ぜひまたお越しいただければ幸いです」


「来るよ、もちろん。むしろ回数が増えそうだ」



バーテンがカウンターに戻ると、さっきの女がグラスを空にして待っていた。


「どう? うまくいった?」


「完璧。これであの人も店に足を運ぶ回数が増えるだろう」


「でも、来る度にまたベランダ使わせろって言うんじゃない?」


「その時は先に使っている人がいるって言うさ。あの夜景は、本来僕だけのものだからね」


「ふうん」


「また頼むよ。ありがとさん」


「いいのよ。あたしはタダ酒が飲めれば。お芝居してるのもおもしろいしね」


「そりゃよかった」


「でもたまには、あたしにもあのベランダ使わせてよ。色っぽいサービスしてあげてもいいわよ」


バーテンは、ちらりと女の顔色を見た。


「そうだな。こんど店が暇なときにでも」

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