霞ヶ関のスナイパー
行きつけのバーで飲んでいると、一目で目について離れないようなエキセントリックな色使いのジャケットに身を包んだ初老の紳士が僕に話しかけて来た。
僕は仕事であった嫌な事を忘れようと思ってストレートのバーボンを氷も入れずに引っ掛けていた所で、そのくせ大して酔えもしないと言う状況だったから、ついついその紳士の話に耳を傾けてしまった。
「面白い話があるんだ。聞くかい?」
紳士は口の端をクイッとつり上げた印象的な笑顔をして、低い声でそう言った。
声楽家のようなよく通る声だった。
「この間、大臣が自殺しただろう?知ってるか?ちゃんとニュース見てるか?」
「ありましたね。一ヶ月くらい前だっけ」
「あれは私がやったんだ」
「…」
「ふん。惚けたジジイがおかしな事を言っていると思ってるな」
「そんな事有りませんよ」
「まあいい。とにかくあれをやったのは私だ」
「そうするとあれは殺人事件と言う事になりますね」
「そう言う事だ」
紳士はそう言って手の中にあったグラスの中身を飲み干した。僕が何か言おうとすると、彼は左手の人差し指をすっと僕の鼻先に突きつけて、僕の言葉を口から出る前に制した。その動きには確かに鋭いものがあった。
「まあ待て、まだ先があるんだ。君の退屈を埋めてあげようと言うんだから、しばらく聞くんだ。いいな?」
僕はこくりと頷いて、バーボンを一口飲んだ。
「あれだけじゃない。三年前にも七年前にもあっただろう。全部私がやったんだ。私の仕事なんだよ。ある意味で私は政府の人間なんだ。国家のシステムに組み込まれた部署の一つで働いてるのさ。もちろん同僚なんか居ない。仲間はちょっとした事で敵に変わっちまう。だからこういう事は一人でやるのがいいんだ。困ったものだよな、国ってものは。あらゆる事に対処できないと機能しない厄介な代物なんだよ」
初老の紳士は話し乍らマスターにおかわりを頼み、話の継ぎ目になるとグラスを傾けた。どうやら僕と同じ酒を飲んでいるらしい。
「霞ヶ関のスナイパーって、聞いた事あるか?」
「ちょっと、記憶にないですね」
「そうか…」
紳士は少し残念そうな顔をした。きっと彼の事なのだろう。
「聞いてもいいですか?」
「何だ?言ってみろ」
「何故僕にこの話を?」
僕がそう聞くと、彼は自分のグラスに向けて遠い目を向けた。
「…懐かしい気がしたんだよ」
そう言って紳士はグラスの中身を一気に空けた。彼はまたおかわりを頼んで、今度は少し厳しい顔つきに変わった。
「引退するんだ」
「引退、ですか」
僕はピンと来なかった。スナイパーも引退するものなのか。
「ミスをしたんだよ。考えられないミスをね。それをもみ消すのに沢山の人間と金が動いた。全く酷い税金の無駄遣いさ」
「それが原因で引退なんですか?」
「ああ、そういう契約だからな。でもまあ、年を取ったと言う事さ」
「失礼ですが、お年と言うにはまだお若く見受けられますが」
「この世界は消耗が激しいんだよ。私と君の年齢は、大して離れてないかも知れないよ?」
僕は何も言えなくなった。
話が本当なら彼の味わって来た苦労は想像を絶している。
「どうだ。面白かったか?」
「ええ。とても」
「他言は無用だぞ」
初老に見える紳士は笑顔だったが、まっすぐ目を見られて、僕は思わず背筋を伸ばした。
「また話を聞かせて下さい。ひょっとしたら僕らはいい友達になれるかも知れない」
「…ふん」
紳士はやはり笑っていて、僕の言葉をどう受け止めたのか、推し量る事は出来なかった。そして彼は金を払い、店を出て行った。彼が全く足音を立てない事に、僕は気付いた。
それからバーへ行く度に、僕はその紳士の姿を探したが、彼は二度と現れなかった。そして僕は何かの折に霞ヶ関の近くを通る時、建物の陰やビルの屋上など、スナイパーがいるんじゃないかと思われる場所についつい目を配るようになってしまった。
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