キリンの焦燥
ある日僕は目が覚めるとキリンになっていた。いきなり首が長くなったものだから、勝手悪い事この上ない。初めは起き上がる事すら困難だった。
それに、自分がキリンになるまでは思いもしなかった事だけど、キリンの手足には意外なパワーがある。起き上がる時に慣れない体でバタバタしたせいで、スタンドミラーが激しく破壊され、木製の椅子は真っ二つに叩き折られた。まさに野生のパワーだ。
何とか体に慣れてきて多少は動きやすくなったと思った時、僕は猛烈に焦り始めた。彼女との約束の時間が迫っているのだ。
僕はこの日、彼女にプロポーズするつもりで、かなり綿密なデートプランを立てて準備していたのだ。それがこの有り様である。
迂闊に外に出たら、きっと騒動が起きるに違いない。都心の住宅街に突然キリンが出現したら、それはもう異常事態だ。きっとマスコミに追いかけられ、動物保護団体なんかが出て来て、麻酔銃で打たれて捕獲され、残りの人生を動物園で過ごす羽目になるのだ。そんなの冗談じゃない。
しかし、彼女をほったらかす事は出来ない。僕は彼女に
「大事な話があるから」
と言って呼び出したのだし、彼女だって、それとなく察してくれていると思う。僕は、僕が「大事な話がある」と言った時の彼女の反応を思い出した。あの、ある種の期待感に満ちた表情は、僕の隠れた決意に対する声無き理解、暗黙の了解だったに違いないのだ。
何とか彼女に連絡を取ろうと、僕は携帯を探した。リダイヤルを呼び出して通話のボタンを押すだけだ。でもまた力加減を間違って破壊して仕舞わないように、細心の注意を払わなければならない。僕は一つボタンを押すことを、こんなに恐いと思った事は無かった。押す前に何度かためらってやり直し、数回ボタンを間違えた。人間の指が欲しい。
何度めかの失敗の後、ようやく電話が繋がった。
「もしもし、萩原ですけど」
彼女の声に、僕は思わず泣き出しそうになるのをこらえた。訳の分からない状況に、不安や焦りや恐怖が積もっていたのだろう。親友の風間や、田舎の母や、諍いの絶えない父の声ですら、同じだったかもしれない。
「もしもし?祐樹?」
サキ、僕だよ。大変な事になったんだ。信じてもらえないかもしれないけれど、僕はキリンに、いや違う。ちょっと急な予定で…
僕はそこまで話そうとして、自分の言葉がまるで人間のものではない事に気付いた。
「何?どうしたの?」
サキが呼んでいる。
ああ…どうすればいいのだろう。
サキ、サキ…
何度名前を呼んでも、僕の言葉は彼女には伝わらない。ぐもももも、と言う牛の鳴き声のようにしかならない。この電話の向こうに彼女がいるのだ、と手を伸ばした拍子に、勢い余って踏み潰し、携帯は粉々に砕けてしまった。
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