抜け道 裏道 人の庭
草むらから人が出てきた。知らない人だ。女性だった。
女性は明るいクリーム色のスーツを上下に着込んでいて、それが前の日に会った恋人の友子のものととてもよく似ていたので、僕は一瞬彼女が出てきたのかと勘違いした。
そのとき僕は前日に彼女に言われた言葉を頭の中で反芻していて気の抜けたタイヤを転がすように歩いていたので驚いてしまった。僕は思わず立ち止まり、草むらから出てきた彼女と目が合った。
その草むらはいろんな種類の雑草が入り交じっているようで、背丈が高く濃く深く茂っていて、奥がどうなっているのか見えなかった。そこは以前から僕にとっては謎の場所だった。この道は僕の散歩コースになっていてよく通ることがあるのだけれど、この草の壁には区切りというものがなく、明らかに住宅街の一つのブロックの半分以上を占有しているはずなのに、どこにも入り口を見つけられずに居たのだ。
端から見る限りではブロック一帯が鬱蒼としたジャングルの様でもあるのだが、その草の壁の一カ所に少し窪んだところがあって、そこから彼女は出てきた。
実は以前にも似た光景を何度か目にした事があった。その顔ぶれは毎回違っていて、いずれも草むらの中から押し出されたようにボッと音を立てて道に現れたのだ。一度や二度ではなかったから、僕はこの草むらの中にひょっとしたら知っている人だけに分かる秘密の抜け道のようなものがあるのかもしれないと常々思っていた。それでも今まで中に入る事が無かったのは、単純に草まみれになって服が汚れたり枝に引っかかってシャツが破れたりする事を考えてしまっていたからだった。
クリーム色のスーツの彼女は僕に気付くと何故か気まずそうな表情を見せて軽く頭を下げ、足早に僕の横をすり抜けて去って行ってしまった。
僕は気になってしまった。
これまで僕が見てきた草むらから出てきた人たちは一様に狐につままれたような不可思議な空気を宿した表情をしていて、彼女もまた例外ではなかった。ただの茂みを抜けて来た顔ではない。いったい中に何があるのか。
彼女が出てきたその窪みの中を覗き込んで見てみたけれど、外からはその深い闇の中がどうなっているのかまでは分からなかった。
予定らしき予定もなく、休日のひとときに暇を持て余してその辺をぶらぶらと散歩していただけだったこともあって、僕はその時に起こった些細な好奇心に従って、その草の壁の中に足を踏み入れた。
しかしそのどこまでも続くように思われた暗い草むらの茂みは、あっけなく終わった。僕が一歩、二歩……といくらか足を踏み入れただけで闇は晴れ、僕は壁を抜けた。そこは広々とした洋風の庭園だった。
目の前に広がった想定外の光景に僕は思わず振り返り、たった今通過した草むらを見た。外側から見ただけではただの草むらに見えたそれは、内側から見るときれいな平面になるように刈り取られた植栽だった。僕は植物にはまるでとんと詳しくはなかったから、その植栽がどんな種類の植物なのか分からなかったけど、おそらく外側の方はこの植栽の木々と他の雑草とが入り交じってあのような鬱蒼とした雰囲気を作っていたのだろう。とにかく、今いる場所から見た草の壁は非常に手入れの行き届いた庭園の一部として完璧に成立していた。
表と裏の余りの違いに戸惑いはしたものの、ずうっと疑問に思っていた謎の場所が外側の見た目とはまるで違う姿をしていた事は、僕を妙に納得させてくれた。言葉にするなら、「こうでなければ」というような感想を持ったのだ。
庭園は、細長く縦に伸びていた。細長いとは言っても全体的に敷地の面積が広いので狭い方の辺でもテニスコートを二つ縦にしておつりが来るぐらいの幅がある。足元にはよく刈り取られた芝生がしっかりと根付いているようで、目の届く限りその緑は続いていた。
右手の前方、僕の立っている位置から二百メートルは離れているだろうか、そこに平屋の建物が見える。古いアメリカ映画にでてくる田舎の屋敷のような建物で、角がしっかりとしていて余分な装飾は無く、全体的に質素な空気が漂っている。とは言えそれは敷地の広さから考えれば目の錯覚なのかもしれない。ただ造りが単純なだけで近付いて見てみればそれなりに迫力のある大きさの建物で、そこまで行ったら僕はその家を豪邸と表現する事になるのかもしれない。
とにかくその家と僕の間には広い広い芝生の平野があり、それはもうすぐにでもそこに寝っ転がってゴロゴロとひなたぼっこでも楽しみたくなるような見事な芝生だった。植栽はその平野をぐるりと長方形に囲んでいて、時にはその囲いの前に少し空間を空けて背の低い木を刈り込んだぬいぐるみのような人や動物の形をしたモニュメントが飾ってあったりしている。
空中には遮る物がほとんど無いため、芝生の上には陽の光が燦々と降り掛かっていた。僕の視線の進む先には何のために置かれているのか、芝生の一角に白く塗装された木製のテーブルと椅子が四人分、テーブルとセットで並んでいた。その一つ一つの配置があまりにもバラバラなので、何かのためにそこに置かれたという気がまるでしなかった。
「あらまあ、いらっしゃいませ」
僕はいきなり背後から話しかけられて肝の縮む思いをした。ここに入ってからすぐにこの場所が明らかに誰かの所有する土地で、僕はただの好奇心でこの場所に忍び込んできたのだという事を頭の片隅で少しづつ考え始めていたところだったのだ。どうのこうの言ったところで今の僕の状況を一言で表すなら、ただの不法侵入者だ。ただこの場に居るという事だけで法的に咎められても仕方が無い状況だ。
振り返ると僕の背後の空間には人は居なかった。しかしよく見回してみると僕の左手側の植栽を刈り取っている婦人の姿を認める事が出来た。婦人は右手に剪定ばさみを持って半身になってこちらを見ていた。たった今振り返って僕に気付いた、という感じだ。僕もその時まで婦人の姿にはまるで気付かなかった。
「ごゆっくりどうぞ。あちらのテーブルにはお茶もありますから」
婦人はそういうとくるりと背を向けて、植栽にはさみを入れ始めた。
「あ、あの、すみません。勝手に入り込んでしまって」
僕がそういうと、婦人はまたこちらを向いた。
婦人はあたまにつばの広い日よけの帽子をかぶっていて、上は薄手の白いシャツ、下も白い綿のパンツだった。一見して動きやすそうな格好をして、庭作業には手慣れたものを感じさせた。彼女の白に統一された出で立ちは芝生の緑とよく噛み合っていると思った。
「ここを通る方は皆さんそうやって恐縮なさるけれど、気になさらなくて結構ですわ。そもそも入り口が無いんですもの。入って来られた方は歓迎致します。きっと好奇心のお強い面白い方でいらっしゃるでしょうから。わたくし、楽しい人が好きなんですのよ」
婦人はそう言うと近くにあった植栽の枝の先に剪定ばさみを引っ掛けて、僕の方に近寄ってきた。かと思うと僕の手前でゆっくりとカーブを描きながら進路を変え、「さあこちらへ」と手招きするように軽く伸ばした右の手のひらで僕を促すようにしながら、屋敷の方へと向かって歩き出した。婦人の一連の動きは卒のない優雅さがあり、とても洗練されたものに見えて、この人はきっと裕福な家庭に生まれ育ち、長い年月をかけてこんな優雅な仕草を身につけたのに違いないと思われた。
それにしても、入り口が無いと言う事をはっきり言った。という事は意図的に入り口を作っていないという事か。
いったいなぜ?
僕は婦人に釣られるように後を追って歩いていた。婦人はさっき僕が見つけたテーブルのところで立ち止まり、僕に椅子に座るよう、無言の仕草で促した。ひょっとしたらこの人は、言葉なんか話さなくても語るべき事を仕草だけで伝える事が出来るのかもしれない。
もの言わぬ彼女がこの静かでだだっ広い庭園の中にいる姿は絵画的とも言える。婦人の事だけではなく、ここはとても絵画的だ。絵画的な庭園だ。止まっているのに、動いている、動いているのに、止まっている、そんな感じ。
初めバラバラに置かれていたテーブルのセットは、婦人がほんの少し椅子を動かしただけでどこかのサロンの一角のような落ち着きのある雰囲気に変わった。
「少し時間を」
婦人はそう言うと僕に、座っていていいから、と仕草で示し、屋敷の方へと一人で歩いていった。
どうやらこのテーブルはこの敷地のちょうど中心の辺りにあるようだった。僕はひとりでこの広大な敷地の中に取り残されている自分の姿を考えてみた。僕は普通に散歩をしていたはずなのだ。たった一歩、いつもと違うところに足を踏み入れただけで何だか遠い別世界のような場所に来てしまった。これでもし地面に穴があいていて、それが不思議の国なんかに繋がっていたら、まるっきりおとぎ話の世界だ。
僕の腰掛けた椅子は背もたれが両肩を十分に包み込めるほど広く作られていて、僕はそこに背中を預け、あたまを後ろに倒して首の力を抜いた。
空はちぎりとった綿飴のような雲が一つ浮かんでいるだけで、よく晴れていた。「雲一つない」と表現してもおかしくない空だった。
僕は仕事と、彼女の事を考えた。今頃みんな、何をしているだろう? どうしても仕事をする気が起きなくて会社を休んでしまったけれど、まあそれはいいとして僕は彼女に言われた事が気になって仕方が無かった。
両手をいっぱいに空へ向け、背中を反らせて伸びをした。一瞬首周りの血が動いて、目の前が真っ白になった。
「ああ」
そんな声が思わず漏れて、僕は日だまりの中で何かが解放されていると感じた。僕は椅子から立ち上がり、ふらふらとテーブルの周囲を歩いた。そうして周りを見ていると、現実から遠く離れていく感じが徐々に増幅していく。
抜け道裏道人の庭。
親切おばさん「さあどうぞ」
戸惑いながら僕はゆく。
ゆけどもゆけども庭の中。
何とはなしに僕はそのような事をつぶやいた。そこに拍子のようなものを混ぜ合わせながら口ずさんで歩いた。少し歩いたところでしゃがみ込んで地面に手を置き、手のひらに芝生の感触を味わわせた。そうしていると煩わしい事やあれこれと終わり無く考えている事が吸い取られていくような錯覚に陥る。
心地よい堕落。
深い緑。
いい季節だ。
「お茶が入りましたよ」
いつの間にか婦人がテーブルの上に紅茶を用意し終えていて、僕に呼びかけた。婦人がそこに来るまで、僕はその気配を感じ取る事が出来なかった。
しかし僕はもうそんな婦人の静かな動きに驚く事は無く、この場にすっかり落ち着いて馴染み始めている。
僕が席に着くと婦人は僕の前にカップを差し出し、ポットから紅茶を注いだ。テーブルの上に置かれたティーセットはけっこう細やかな模様が描かれ、さりげない金彩が施されている。それはただの貼り付けられた金箔だったかもしれないけれど、僕には判断がつかないし、それがどっちだったところで、婦人と同じ空間にあるというだけで上質なアンティークとしての価値を持ち合わせてしまうような気がした。
「よかったわ」
と婦人が言った。僕はティーセットに気をとられていて半分聞いていなかったので「え?」と聞き返した。
「ここで落ち着いて頂いている様子なので」
「ええ、いい場所ですね」
僕がそう言うと婦人は顔全体をゆっくりと動かして笑顔になった。
僕はこのとき初めて婦人の顔をよく見る事が出来た。ある程度年齢を経た人であるのは間違いないのだけれど、その前提からすれば彼女はとても若く見える。婦人は体中の皮膚から溢れ出るような活力があって、オーラが出ていると言えばいいのか、実際何歳かと正確に考えようとすると分からなくなるタイプの人だと思えた。
「何だか、自分でも不思議なんですけど、僕はここにいると何かがしっくりと来る感じがします。来たばっかりでこんな事言うのも変な話なのかもしれませんけど」
「ありがとう」
婦人は僕に礼を言った。婦人はまた顔を動かしてさっきとは違う笑顔になった。そうすると婦人の瞳がすぅっと深みを増した。僕は恥ずかしいような照れるような、なんだか変な気分になった。
「お名前を伺ってもいいかしら?」
「ヒロミです。薩川博己」
「あら偶然ね。私の名前もヒロミなの。古瀬川裕美」
「本当ですか? じゃあ、これからヒロミさんと呼んでもいいですか?」
「あら、先を超されちゃったわ。私がそう言おうと思ってたのに」
「お互いにヒロミと呼ぶって事でいいんじゃないですか」
「でも、そうすると会話がややこしくならないかしら」
「そうでもないと思いますよ。僕がヒロミさんと言えばあなたの事だし、あなたがヒロミと言えば僕の事だ。簡単でしょ」
婦人は僕を見る目をさっきより少しだけ大きくした。そしてまた違う笑顔を見せてくれた。その笑顔は僕に「じゃあ、そうしましょう」と言っていた。
その日から僕はこの広い古瀬川邸の敷地の中に足を運ぶ事が多くなった。ヒロミさんがぜひそうして欲しいと言ってくれて、僕がそうすると本当に喜んでくれたからだ。おまけに、いくらでも自由に通っていってくれていいとまで言ってくれた。もともと散歩コースだったのに加えて、ヒロミさんの家の中を通って行くといくつかの曲がり角を省略する事にもなったので、散歩以外の時でも僕にとっては都合が良かった。僕はこの家を囲む外から見たら鬱蒼とした雰囲気の草むらの中に草をかき分けて入り込み、反対側の草の壁から出て行くのが、回を重ねるごとに普通の事として自分の中に消化され馴染んでいくのが分かった。
暇を持て余した時には一緒にお茶を飲むこともあった。そんな時には、仕事で悩んだりしている事などを相談したり、恋人に言われた事について打ち明けたりする事もあった。
ヒロミさんと話していると僕が抱えている悩みや不満の多くが、その会話が終わる頃には何もかも大した事ではなかったように思える、というのが常だった。それは僕にとってはとても不思議な事で、ついさっきまであれやこれやと頭の中をうろつき回っていた問題は、ヒロミさんを通して浄化され、澱みない清涼な流れとして僕の中に残る事になった。
何回かそうやってじっくりと話す機会はあったのだけれども、僕はまだヒロミさんの年齢を聞いた事が無かった。この人に年齢なんか関係ないのだと思えたし、それを知ったところで一体何になるのだろう? とも思った。でも、この美しく清楚で上品な女性が今までどのような人生を送ってきたのか、という事に関しては僕の興味は尽きなかった。
それでも、ヒロミさんが自分から語ろうとするまでは過去については聞かないでおこうと決めていた。なぜそう思ったのかと言うと、意識的にか無意識にか、ヒロミさんは自分の事を話すのを避けているのではないかと感じていたからだ。
会話の中で、彼女は話の流れをそれが自然な導きであるかのようにあるべきところに誘うように言葉を選んでいるからとても分かりにくいのだけれど、ヒロミさんが僕の身近な話について意見を述べる時などに、彼女自身の体験談として何かを語るという事はほとんどなかった。あったとしてもごく最近の事か、当たり障りの無い日常の表層的な事に限られた。
なぜそうしているのかは分からないのだけれど、僕はそれはひょっとしたら触れてはいけない事なのかもしれないと思って余計な詮索はしない、という態度を一貫させる事にしたのだ。
ともすれば、僕のそう言う態度が間違った結果を生んだのかもしれない。
なぜ彼女がお手伝いも雇わずに独りでこんな広い屋敷に住んでいるのか、結婚はしていなかったのか、僕は聞いてしまった方が良かったのかもしれない。後になって思ってみれば、僕のそう言う一歩引いたところからの接し方というのが、その頃の僕の周りに蠢いていた様々な問題の根本的な原因だったのではないかと、ぼくはずっと、ずっとずっと途方も無い時間が過ぎてから、ようやく思い当たったのだ。
それでも僕は一つだけ、足を踏み入れてみたことがあった。
それはどうしても気になる事だったし、聞かないわけにはいかない事でもあったと言える。
「どうしてここには入り口が無いのですか?」
「いらないからよ」
「でも、困りませんか?」
「どうして?」
「だって、出入りするでしょう? 買い物に行く時とか、お客さんが来る時とか」
「そう頻繁に買い物になんていかないもの。ときどき草をかき分けて外に出て行くぐらい、大して面倒な話ではないのよ」
「でも、お客さんが来る時は?」
「ここに人は訪ねて来ないわ」
そう言ったときのヒロミさんの顔はいつまでたっても忘れられない。僕はそのとき付き合っていた彼女の顔はもうどうしても上手く思い出せなくなっているのだけれど、この時、この言葉を発した瞬間に一度だけ見せたヒロミさんの表情は僕の記憶の深いところに深々と突き刺さり、二度と抜けない棘のようになってしまったのだ。そう、思えば僕はこの時から、ヒロミさんの過去については聞いてはいけないのだと思い込むようになったのだ。
「僕は来てますよ」
僕は内心の動揺を隠して、可能な限りの演技力で平静を装って言った。
「あなたは特別。とても変わった人だもの」
「僕は変わってますか」
「ふふふ。変わってるわ。ここに迷い込んできて、私とこんなに仲良くなってくれたのは、あなただけなのよ」
「僕は至って普通にしているつもりなんですけど」
「ふふふふ。ありがとう」
何度かあった事なのだけれど、僕はヒロミさんに「ありがとう」と言われた理由が分からなかった。それが最近になって朧げながらでも分かるような気がしてきたのは、僕もそれなりに歳を取ったという事なのかもしれない。
そう思える。
ほどなくして急な転勤の辞令が下り、僕はほとんど取る物も取り敢えずの状態でその街を離れなければならなくなった。
いったん異動先へ短い滞在の後、また戻ってきてそれから本格的に引っ越しを、という予定が途中から完全に切り替えを余儀なくされた。ちょっとしたトラブルが起こり、その処理に奔走することになり、他の何も手のつかないぐらいに朝から晩までかけずり回ると言った感じで多忙を極めることになってしまったのだ。
僕は仕方なく友子に引っ越しのもろもろの作業と手続きを頼まねばならず、友子は荷物とともに僕の新しい部屋に居座るようになり、結果として僕らは新しい土地で一緒に暮らすことになった。
そんな調子でヒロミさんに別れも言えずその町を離れてから、もう何年も経っていた。僕は次第に古瀬川邸のことを思い出すことも無くなっていった。
友子とはすぐに結婚し、子供も一人できた。男の子だ。すっかり土地の住人として周囲のひとびとや環境に溶け込み、子供もすくすくと育ち、彼にも初めての友達と呼べるような仲間が出来た。
そんな様々な変化があり、家族、自分の家庭の存在とそのありがたさを噛み締めていた頃に、『本社勤務へ異動』との辞令が下った。
そうして僕は再びこの街に戻ってきた。
アパートからマンションへと住居の様相を変え、傍らには妻と子供がいる。以前とは違う自分になって、この街へ戻ってきた。
友子が学生時代の友人と久しぶりに会ってくる、ということで家を留守にした時に、僕は一人息子の手を引いて、近所を散策することにした。彼にとっては全くの新しい土地。彼の目にはこの街が、住み慣れた世界を離れた遠い異国のように映っていることだろう。
僕は息子の手を引きながら、久しぶりにのんびりと街を歩いた。街は変わっていた。駅前の小さな電気店はコンビニになっていたが、店員は同じ顔だった。椅子に座るとキイキイと音を立てた古めかしい喫茶店は全国チェーンのコーヒーショップに姿を変えていた。年季の入っていた駅前のいくつかのビルがマンションに変わっていた。それでも学生に人気だった中華食堂はそのまま生き残っていた。
そうしてあれこれと足を運んでいる内に、僕の足はいつの間にか、かつての散歩コースをトレースしていた。
じんわりとした暖かい感触が僕の肩を包んでいた。生まれ育った土地ではないのだけれど、これもノスタルジーと言えるだろうか。
あの角を曲がれば、そこには何があって、その向こうには昔あれこれがあって、と、僕は好奇心を目に宿らせた息子に説明しながら歩き続けた。
「疲れた?」
と僕が聞くと、彼は黙って首を振った。彼の目は、一心に何かを見ていた。僕はその対象が何かは確かめなかった。彼の目がとても美しいと思えたから、僕はわが息子の瞳に魅せられていた。
ふと顔を上げて住宅街の一角に視線を向けた時、僕は突然、瑞々しい緑に彩られたあの広い広い庭の芝生を思い出した。
あの角を曲がれば。
そうだ。
僕は別れの挨拶もせずにここまで来てしまったのだ。
なんということだろう。僕はこの瞬間まで、そのことを忘れていたのだ。
突然顔を出したら、ヒロミさんは何と言うだろう。そもそも僕のことを覚えているだろうか。あのさわやかな笑顔を向けてくれるのだろうか。
僕は息子の手を引いて歩き出した。
あの角を曲がれば……
あの角を曲がれば……
何故だか、冷たい汗が背中を這った。
角を曲がると、そこにはかつて見慣れた風景はなかった。古瀬川邸は、消失していた。
住宅街の一ブロックを埋め尽くしていた緑の壁は跡形もなく、古瀬川邸が存在していた土地の上には巨大なマンションがそびえ立っていた。
僕は息子の手を引きながらそのマンションの周りをぐるりと一周してみたが、どうやら古瀬川邸のあった場所はこのばかでかいマンションともう一つ別のビルによって分割されてしまったようだ。その二つの建築物の境目は、僕が古瀬川邸に出入りしていた草むらの切れ目とほぼ同じところに位置していた。
僕は別々に別れてしまった敷地を隔てる壁に近付き、手をあてた。二つの建物の間にはほとんど隙間がなかった。建物と壁、壁と建物の隙間には、僕がすり抜けることは不可能な幅しかなかった。
僕はその時になって初めて後悔した。
せめて別れを告げるべきだった。そして、いつかまたやって来ます、と言っておくべきだった。
僕はヒロミさんが一度だけ浮かべた複雑な表情を思い出した。それはあまりにもはっきりと、僕の頭の中に浮かび上がった。
忘れていたことなのに、それがもう無いのだと思うと、何か重要な者が僕の中から失われてしまったのだとおもえた。
僕は壁の外から狭い狭い隙間を覗き込み、それから目を閉じて、どこまでも広がる緑の芝生を思い出した。
息子がしびれを切らして手を強く引くまで、僕はいつまでもそうして立ち尽くしていた。
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