毎日(書いてた)超短編
cokoly
街
鈴音酩酊
ちゃりんちゃりんと鈴が鳴る。
それはちりんちりんともからんからんともころんころんとも聞こえてきそうな音だったが、このさい擬音表現の差違は一切合切どうでよいさ。
とにかく僕はその音を聞いた。
そこは公団の住宅棟が林立する敷地のすぐ外の道だった。
どこかで猫でも歩いているのか?
そう思って辺りを見回してみたが、よく考えたら首輪に鈴をつけている猫なんて見た事がない。もう少しよく考えてみたら、猫が首輪に鈴をつけているという連想は、すでに死語ならぬ死連想ではないかと言う発想が浮かんだ。
リアルな世界ではマジで一度も見た事ないし、アンリアルな世界でもドラえもんの他に思い当たるフシが無い。ついでに言うとドラえもんの首輪の鈴はほとんど鳴らない。
季節はまだ春の始まりで、どこかの軒下で風鈴が鳴っているとも考え難い。
そもそも風のひとつも吹いていない。
いったいこの音はどこから聞こえてくるのだろう?
公団の敷地の反対側は二車線の車道になっている。
交通量は少ないくせにやたらとスピードを出して走る車が後を絶たず、帯状の危険地帯と化していた。
そこには人生にとって全く無駄な緊張感が存在していた。
僕はその無意味なプレッシャーに背を向けて、公団住宅の巨大な影を見上げた。
しゃらんしゃらんと音がした。
さっきと音が違うかな?
不思議な音だ。
もしかしたら、この音は鈴が鳴っているのではないのかもしれない。僕が勝手に鈴だと思っただけで、本当はもっと違う何か、何かは分からないけど何かの音だったのかもしれない。
公団の敷地と僕が歩いている歩道は、日に焼けて変色した緑色のフェンスで区切られていた。
少し進んだところにそのフェンスの切れ目があって、敷地と外を出入りできるようになっていた。僕の足は、誘われるように吸い込まれるようにその開かれた空隙へと向かっていた。
平日の昼下がりの空気が蔓延した遊歩道をひとり歩く。
じわりとした暖気が、そこかしこ、団地の花壇や階段にも縦横無尽に分厚い膜を張っていた。
遠くで、叫ぶような子供の、高い声。
呼び合ったり、笑っていたり。
はしゃいでいた。
心地よい生ぬるさを感じた。
「ねえ、ちょっと、そこのおにいさん」
声がした。女の人。探す。
どこから? 僕に?
「こっちこっち」
子供たちの声がする。
鬼さんこちら、声のする方へ。
いや、これは僕の記憶か。
いや、それもちがう。
現実ではない。
過去でもない。
交じり合って、書き換えられて。
建物の一階、とある一室のベランダから、エプロン姿の女性が僕においでおいでをしていた。いちおう周りを見渡してみたが、僕以外に人影はない。間違いなく僕に向けられた仕草だった。
半ば夢遊病的に、僕はその仕草に従う。女性の手に。
近くまで来る。距離、およそ五メートル。
「あなた、今、暇?」
そう聞いてくる。
「まあ、暇っちゃあ暇ですね」
「それ、取ってくれない?」
女性は僕の二メートルくらい左あたりの地面を指さした。
布きれのようなものが一枚、落ちている。
僕はそれを指先でつまみあげた。悪い予感がしていたが、やはりそれは女物の下着だった。それも下の方。
エプロンの女性は僕に手招きをした反対側の手の先にタバコを持っていた。彼女はベランダの縁に乗せた灰皿の上に灰を落としながら、虚無的な視線の先に向けて煙を吐き出した。
僕は拾った下着を持って彼女が立つベランダのすぐ下へ行き、
「どうぞ」
と言って指先のそれを差し出した。
「そっちのベランダに放っておいて」
エプロンの女性はそういって、タバコの先で仕切りに隔たれたその向こうの部屋の方を指した。
「うちのじゃないのよ、それ」
「はあ」
「あたしのだったら良かった?」
僕は答えに困った。良いも悪いも無い。
しかしよく見ると、彼女は全体的に日常に疲れた主婦の印象を漂わせているものの、目鼻立ちや顔の輪郭、線の細さなんかがとても魅力的な女性のように思えた。きっと下着姿も美しいだろう。でも僕は、下着を身に着けた女性には興味があっても、女性の下着そのものに一喜一憂する感性は持ち合わせていなかった。
僕はほんの少し迷った末に、つまんでいた下着を隣のベランダへ放って入れた。他の洗濯物もまだ干されたままで、二度と飛ばないようにしっかりと留め直してあげられればそれもいいのだが、そんなことをして下着泥棒に間違われたら目も当てられないな、と思った。
下着を投げ入れてしまうと、僕とエプロンの女性を結ぶ直線上には軽薄な沈黙が流れ込んできた。
なんの意味も重さも暖かみもない沈黙に、僕は直ぐにいたたまれなくなり、
「じゃあ、これで」
と言って立ち去ろうとしたその矢先、その先の先を打つように、
「ここまで来たついでに、お願いがあるんだけど」
と彼女は言った。
ドアの横には『相田 崇
美和子』と言う表札がかかっていた。
チャイムのボタンを押す。
美和子さんが出てくる。タバコは手に持ったまま。
「いらっしゃい」
僕は一瞬、場末のスナックにでも紛れ込んだかのような錯覚を覚えた。
近くで見た美和子さんはやはり綺麗な人だったが、いくぶん世に擦れた感じは否めなかった。
ダイニングに通され、お茶を勧められた。
やや面食らう。
「あの、背の届かないところにある荷物をとって欲しいって」
僕がそう聞くと、言い終わらないうちに、
「後でいいわ」
と美和子さんは言った。
「いや、でも」
「いいじゃない」
そう言って僕の対面に座る。
「あの」
「ユキって呼んで」
偽名じゃないか。いや、源氏名? てゆうかなぜ?
「やっぱり、帰ります」
席を立とうとする。
美和子さん、もとい、ユキはその刹那にぐっと体を伸ばしてきて、僕の手首を掴んだ。
「お願い」
手首に食い込む力は強い。理由のある強さだ、と思った。
しゃんしゃんしゃん、と音がした。
またどこかで鈴が鳴っている。
それ以外の音は遠い。
日だまりに隔てられて。
まるで追憶の彼方。
「すこし、話、だけでいいから」
テーブルの天板を見つめたままのユキの口から漏れた言葉は、切実さと弱さの響きを含んでいた。
「あなたも、吸う?」
きっちり二分の沈黙の後、ユキは言った。
僕はもらうことにした。
なぜ吸おうと思ったのだろう。
二年ぶりの一服だ。
案の定、頭がくらくらとし始める。
ユキは口をすぼめて、長い長い吐息とともに煙を吐き出す。
話なんか一向に進まない。
進むどころか発生すらしていない。
きっとどうでもいいのだろう。
そんなことはどうでもいい。
彼女は、一人だった。
だから、僕を呼んだ。
それだけのことだ。
タバコの酩酊感はまだ収まらない。
しゃりんしゃりん、しゃらららららららら
「まただ」
僕は天井に向けてつぶやいた。
「何?」
ユキが僕に視線を向けた。
「鈴の音、さっきから」
「鈴?」
「聞こえませんか?」
ユキは眉間に皺を寄せて耳を澄ます。
首を傾げている。
「何も」
「やっぱり、気のせいかな」
「どんな音?」
視線がかち合った。
「普通の、鈴の音」
僕はユキの目をじっと見た。
その中に、鈴が見えないかな、と思ったのだ。
ちゃりん。
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