第2話口説いてるの?

 何の変哲も無い退屈な授業が終わり、僕はいつものごとく図書室のドアを開ける。やたらと響くガラッという音に数人の生徒の視線が集まる。

 背の喧騒に押されるように一歩を踏み入れ、ドアを閉めると、突然の静寂が訪れる。緊張という言葉は少し語弊があるのだろうけど、歩くのですらなるべく静かに歩こうと意識してしまうような、不思議な感覚。


 紙が擦り合う音と、ペンを走らせる規則的な音が空間を支配して、心地よい息の詰まりを感じた。


 いつもの席に座り、適当に持って来た参考書とノートを開いて、それらに目もくれず頬杖を付いてカウンターを眺めた。

 もちろん、今日も彼女はそこにいた。すらっと長い髪を片耳にかけ、今にも吸い込まれてしまいそうな瞳を本に這わせている。


 今日もまた、自然と見惚れていた。

 鼓動が早くなるとか、ときめくとか、そういう類の感情はないのだけれど、なぜか彼女に見入ってしまうのだ。


 不意に彼女が顔をあげた。いつも以上にぼんやりしていたことも合間って、目をそらすのが間に合わず、彼女と目があってしまう。


 硝子のような瞳に気圧され、すぐさま目をそらして、机に突っ伏した。


 まずい……変な奴だと思われたかもしれない。だが、どうせすぐに忘れてくれるだろう。


 言い訳がましくなるが、別に彼女を観察するためだけに、わざわざ放課後に図書室なんかに来ている訳じゃない。単純に家に帰りたくないだけだ。あとは、まあ一応勉強も兼ねている……つもり。


 何となく、そんなわけがないのに、彼女がまだ僕を見ている気がして、しばらく顔を上げる気になれなかった。

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。まどろむ意識が肩を揺らされることで覚醒する。


 勢いよく身体を起こすと、目の前には藍色の制服と、その奥に覗くクリーム色のセーター。妙な汗を垂らしながら視線を上げると、数冊の本を片手に感情の読めない表情で僕を見下ろす彼女がそこにいた。


「もう、図書室閉めますよ」


 思えば彼女の声を初めて聞いた。小さくつぶやくような声だったのに、どうしてか強く鼓膜を揺らす。一言で言えば、どこか力強い声だ。


 周りを見ると、他の生徒は誰もおらず、図書室にいるのは僕と彼女だけだった。

 時計に目を向けると19時をちょうど回ったところで、同時に校内にチャイムが鳴り響く。どうやら、突っ伏してそのまま寝てしまっていたようだ。


 彼女は僕が起きたことを確認すると、背を向けて手に持った本を棚に戻し始めた。


 僕はまだ飛び跳ねている心臓の音に急かされるように、急いで教科書をカバンに押し込む。

 

「おーい、もう下校時間だぞ。早く帰れよー」


 開けっ放しにされたドアの向こうから見回りの教師の声が聞こえてくる。


 僕も彼女も返事はしなかった。そういうタイプの人間なのだ。少なくとも僕は。


 不意に、彼女がこちらを向き直る。


「そういうわけだから、急いで篠原くん」


「えっ、なんで名前……」


 ゆっくりと近づいてくる彼女にどぎまぎしてしまう。そんな僕を余所目に、彼女は机の下に落ちていた教科書を拾って、僕に手渡す。


「ずっと落ちてたわよ」


「あっ、ごめん。死角で気がつかなかった」


「忘れ物していかないでね」


 それだけ言い残すと、彼女はカウンターに戻っていった。


 その後ろ姿を見ながら、僕は自然に口を開いていた。


「ねぇ――」


 彼女が振り向く。


「運命って信じる?」


 言葉が零れ落ちるとはこういうことを言うのかと、強く思った。


 自分でも不思議だった。どうして、呼び止めたのか。どうして、見ず知らずの人に対してこんな質問をしているのか。


 彼女の口元が少しだけ綻んだ。


「なにそれ。もしかして、口説いてるの?」


 顔が急速に熱くなる。


「あ、いや……そうじゃなくて! えっと、ごめん。忘れて。ほんと、変な意味はないから……」


 手に持った教科書を握りしめたまま、カバンを持って逃げるようにドアの方へと足早に向かう。恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。


「信じるよ――」


 廊下に半身を晒したその時、彼女は言った。

 思わず足を止める。彼女は僕をじっと、淀みない瞳で見つめていた。


 静寂が流れる。


 校庭から野球部の声が微かに聞こえてきた。


 そして、また無。


 彼女も僕も一歩も動かない。彼女は僕の次の言葉を待っている。そして、僕は次の言葉を用意できないでいた。


 奇妙な空気を破るように、僕は半ば無意識に呟いた。


「じゃあ、赤い糸って信じる?」


「信じるよ」


「僕がその赤い糸を見れるって言ったら?」


 僕は何を言っているんだろうか。


 彼女は口元だけ作り笑いをして、意地悪そうに口を開く。


「なんだ、やっぱり口説いてたのね」


 こうして、僕と彼女の奇妙で最悪なファーストコンタクトが終了した。

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