よい夢をあなたへ 1 【どことなくホラーっぽい】

 ついうっかり……というには痛すぎる失敗だ。

 滝口正志たきぐちまさしは、目の前で動き始めた新幹線を呆然と見送った。

 あっという間に遠ざかっていくのが、今日の最終便だ。

 明日も平日で、本社での仕事は普段通りある。この新幹線に乗れなかったということは、遅刻は免れないだろう。滝口は肩を落としてホームを後にした。


 出張先での仕事が思った以上に手間取ってしまったのは、決して滝口のせいではない。上司はちゃんとやむを得ない遅刻だと認めてくれるだろうか。言い訳のセリフをいくつも考えながら歩いていたが、いやそんなことよりも今日の宿だと思い至った。

 予約サイトで空き部屋を探すのも、気が滅入る。もしかしたらホテル代は出張費として認められないかもしれない。できるだけ安いところを探そう。最悪、ネカフェでもいいかもしれない。まだ三十になったばかりで体力もある滝口には、ただ横になって眠る場所があればいいから。

 そんなことを思いながら画面をスクロールしていると、派手な赤い文字が目に入った。

『激安タイムサービス・本日限定』

 開いてみれば、ごく普通のビジネスホテルのようだが値段はたしかに激安だ。

 ホテルの開業一周年の記念イベントの一環らしい。この値段ならネカフェに泊まるよりもお得かもしれない。

 駅からも近かったので、滝口はさっそく予約してホテルに向かった。スマホを操作しながら歩いても、たった五分くらいで着いた。

 そのホテルの外見は小さいながらも落ち着いた佇まいで、中に入るとロビーもきれいに整っている。雰囲気がよく、これなら正規の値段で泊ってもいいくらいだと思わせた。


「いらっしゃいませ」


 フロントに立っているのは女性だった。滝口よりは、いくらか若いくらいだろうか。目を見張るほどの美人ではないし、地味な制服に身を包んで目立たない化粧をしている。

 けれど向けられた笑顔がとても温かかったので、好感が持てる。

 そんな彼女の顔に見とれていたからかもしれない。

 カードキーを受け取ろうとしたときに、うっかり彼女の手に滝口の右の手のひらが触れてしまった。


「あっ」


 思わず声を上げたのは滝口だ。ほんの少し触れただけだが、その手にピリッと痛みが走った。静電気か。

 そんなことよりも、もしかしたらわざと手を触ろうとしたなどと思われなかったか心配になる。昨今はどこもセクハラに対しては厳しい。

 恐る恐る彼女を見ると、彼女は逆にすまなそうな顔で頭を下げた。


「申し訳ございません。手が当たってしまいました」

「いえ、こちらこそ」

「ではごゆっくりとお過ごしください。よい夢を」


 責められなかったことに安心して、滝口の顔もほころんだ。

 彼女の柔らかい声が疲れた体に染みる。

 たしかに今日はいい夢が見れそうだ。


 ◇◆◇


 部屋は想像以上に広く、ベッドも一人部屋とは思えないほど大きかった。

 明日の仕事のことを考えると憂鬱だったが、それもこの部屋にいる間は忘れてしまいそうだ。さっと風呂に入り明日の朝いちばんの新幹線を予約してから、滝口は大きなベッドの真ん中に潜り込んだ。

 マットレスは程よい弾力で滝口の身体を受け止める。

 いっそ明日は有給をとって、時間ギリギリまでここで過ごすというのも良いかもしれない。

 エアコンの音は静かで、隣の部屋からも何の物音も聞こえてこない。


「これなら夢も見ないほどしっかり眠れるかもな」


 そんな滝口の独り言は、けれども実現しなかった。


 明かりを落として目を閉じると驚くほどあっという間に、滝口の意識は深淵に沈んでいった。

 深く深く、まるで温かい泥の底に引き込まれるように、滝口は眠っていく自分を感じる。

 今まさに自分は完全に眠った。

 妙に覚めた心の声がそう滝口に告げる。

 ちょうどその時だ。

 右の手のひらに突然鋭い痛みを感じた。

 けれども目は覚めない。なぜならこれは夢だから。

 まるで何者かが滝口の右手をナイフで抉っているかのようだ。それなのにただ痛みに耐えるだけで抵抗もできない。いや、抵抗しようと思いつくことすらできない。


 なぜならこれは夢だから。


 何度も、何度も繰り返される激しい痛み。けれど滝口はただの一度も、叫び声すら上げることができなかった。

 そして痛みの後には必ず、心地よい温もりが訪れた。それはまるで傷口に温かい泥が染み込むかのような。その熱は滝口の痛みを癒し、溶けるような快感すらも与えた。右手から全身に、毒のように快感が浸食する。

 寝ている間ずっと、痛みと快感は交互に訪れた。

 それは悪夢のようでもあり、恩寵のようでもあった。


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