5  もう夜が明ける

「アディ、ほらごらん」


 8歳年上の兄は、まるで宝物でも見せるようにその科学雑誌を見せてくれた。

「兄さまこれなあに?」

 10歳のアディにはその雑誌に掲載されている記事はよくわからなかったけれど、写真に写っている顔のあるドラム缶のようなものには興味をそそられた。


「それはロボットだよ」

「ロボット?」

「コイツは地面を耕し、種を蒔き、水を降らせる」

「水を?」

「そう水を。そうして緑の大地を創り出す」

「緑の? じゃあ砂漠も緑になるの?」

「ああ、きっと緑にしてくれる」

 兄は瞳をキラキラさせている。


 アディは驚きのあまり声も出せないでいた。

「この人がこのロボットの持ち主なんだよ」

「このおじいさんのものなの?」

「このおじいさんとこのロボットで、もうたくさんの砂漠地帯を緑にしてきたんだ」

 そのおじいさんとロボットは、ものすごくにこにこしていた。


「さあ、アディ! 」

 兄は力強く言った。

「花咲博士を絶対この国に呼ぶぞ!」

「うん!」


 この兄は頼もしく、カッコよくて憧れの存在だった。

 憧れの兄が夢を語ったその日は、季節風が砂塵を巻き上げ、空は灰色にけぶっていた。


「もう夜が明ける」

 兄は窓の外を見つめていた。

 空が少しずつ明るくなると、はるか遠くに青い山のシルエットが浮かんでいた。


 不安な夜は明けたのだ。



     * * *




「申し訳ありません!」

 佳奈は深々と頭を下げた。

「わたくしの力足らずで、どうしても与作くんの水撒き機能を回復できませんでした」


「インや、オラこそすまねえだ」

 与作はドラム缶のようなボディーをギシギシいうほど前傾させた。きっと深々と頭を下げているつもりなのだろう。


「きっとコレ以上直せネエ」

「構わないのですよヨサク副大臣。

 水撒きは他の者に任せてくだされば」

 今日も優しいアド•アブラ王子である。


「もしお気が済みましたら、サワジ公国に帰りましょう」

「インや。オラもう戻っても意味がネエダヨ」

 だが、与作は頑固だった。


「オラもう終わりの時がきたダヨ」

「そんな……」

 佳奈の言葉より速く、アド•アブラ王子は与作に抱きついていた。

「世界中から花の種を取り寄せましょう。

 ヨサク副大臣は毎日好きなことをして過ごしてくだされば……」

「インや。オラもうここにいるダ」


 今日もケイは仕事をお休みしてアド•アブラ王子の通訳をしている。

 実は、ケイは王子にいたく気に入られて、サワジ公国に秘書として連れて帰りたいとまでいわれていたのだ。

 いや、気に入られたのはケイだけではなかった。

 ミキを自分の第2夫人に、ルイルイをヨサク副大臣の嫁にというオファーも、丁寧にお断りしたところだ。


 この上、与作までサワジ公国に戻らないなんて許されるのだろうか。


 佳奈はおそるおそるアド•アブラ王子の様子を伺ってみた。

 王子が激怒するのではないかと心配だったのだ。そうなったら国際問題になってしまう。

 しかし、王子はただ悲しそうに与作から離れた。


 ケイやミキやルイルイ、それになにより与作を連れて帰れないことに、心からがっかりしているようだ。


「もちろん、ヨサク副大臣は好きにしてよいのですよ」

 あまりにも物分かりの良い王子に逆に不安になる。


「あの……与作くんが戻らなかったら、悲しいですよね」

「はい。でも大丈夫です」

 王子は佳奈に少しだけ微笑んでみせた。

「つらいことですが、悲しみには慣れています」


「王子はAIに対して偏見が無いようにお見受けしますが……そのようなお考えはどうして培われたのですか?」

 佳奈はどうしても聞いてみたかったことを尋ねてみた。

「わたくしはAIを信頼しています。もしかしたら、人間よりも信頼しているのかもしれません」

 王子は穏やかに答える。


「それに……」

 王子は窓の外を……いやもっと遠くを見つめているような目をした。その顔はとても悲しげに見えた。

「AIは裏切らないからです」


「わたくしはサワジ公国国王ハレマの16番目の王子です」

 ケイは流暢に同時通訳してくれている。

「わたくしの母はベリーダンサーでしたが、父王ハレマに見初められて第3夫人となりました。

 わたくしには同じ母を持つ第3王子の兄アブーラがおりまして、兄は文武両道とても優れた人でした」


 王子は静かに続ける。

「父王の後を継ぐ皇太子である第1王子は身体が弱く、先行きに不安があったので、国の大臣や役人たちは第2王子のムホマド派と第3王子のアブーラ派に分かれて争っていたといいます」

 お伽話のような王子の話には、引きつけられるものがあった。


「母とわたくしたち兄弟は、ムホマド派に命を狙われていました」

 だが、これは遠い国の本当の話なのだろう。


「わたくしは、不安な夜に兄と過ごしたことを覚えています。

 その時、兄から見せられた科学雑誌には花咲博士とそのロボットの記事が載っていたのです」

 懐かしそうな目をして、王子は与作を見つめている。

「兄は、わが国に花咲博士をお呼びするのが夢なのだと真剣に語ってくれました」


 ほんの少しの沈黙の後で、王子は続けた。

「その後すぐに、兄はわたくしを安全のためにヨーロッパの全寮制の学校に留学させてくれました。

 慣れない環境で、弱音ばかりのわたくしを兄はいつもネット通話で励ましてくれました。

 兄はいつも言っていました。今は化石燃料の輸出に頼らざるをえないサワジ公国を、いつか緑の大地にするために、力を貸す人間になってほしいと……」


「それで、国土緑化大臣になられたんですね。

 では、お兄さまのアブーラ王子さまは……」

「亡くなりました」

「……」


「知らせを受けたのは、わたくしの18歳の誕生日の朝でした。

 母と兄アブーラが車の事故で亡くなったというのです」

「……」

「その少し前に皇太子である第1王子が亡くなっていました。

 そればかりか、ムホマド以外の第15王子まで全員が亡くなっていたのです」

「そんな……!?」


「ムホマドの仕業なのは明らかでした。

 だが、味方だったはずの大臣たちもみな口をつぐんで、ムホマドは皇太子になりました」

 王子の顔は決して憎しみに歪んではいなかった。

 佳奈は、王子にむしろ何かもっと大きなものを感じ取っていた。


「人間は弱い。

 弱いからずるいこともします。

 他の人間に残酷なことをします。

 そして弱さは人を裏切らせる……。

 わたくしが信頼できるのはヨサク副大臣だけかもしれません」

 王子は悲しげに笑った。


「人間は不便なものです。

 大好きな兄が亡くなった時には、あまりにも深い悲しみで、声を出すことができなくなってしまいました」

 佳奈は王子の痛みを思った。

「それほどの悲しみをどうやって克服なさったんですか」


「克服できていないと思います。

 悲しいままです

 悲しいままでいいと……

 そんな風に思いました。

 ここがこんなに苦しくてつらいのは、わたくしが兄を愛していた証ですから、このまま悲しいままでいようと思いました」

 王子は自分の胸をそっと押さえた。


「わたくしはアドでしたが、兄の名をいただいてアド•アブラとすることにしたのです」

 遠くを見つめる王子の目には、何が見えているのだろうか。

「そうしたら、花咲博士に会いに行く勇気も出ました。

 国に帰る勇気も出ました。

 兄のように、国の人々のために頑張る勇気も……」


 人の心は実に不思議だ。


 心の問題だとしても、痛みを感じるのは心だけじゃない。

 そして、取り返しのつかない悲しみやつらさが、勇気を与えることだってあるのだ。


 この会話は佳奈に一つのヒントを与えた。


 アイドルグループに所属した時、ミキは寂しくて身体の動きが不自由になったのではなかったか。


 AIにも心らしきものがあるのだから……。



     * * *




 それは10年ほど前のことだ。


 ノーベル平和賞を受賞したばかりの花咲博士のもとに、サワジ公国の若き王子が訪ねて来た。


 王子は花咲博士とロボットを見るなり堰を切ったように話し始めた。


 信じられないことだが、お付きの大使館員の話によれば、王子は心因性のショックで声を失っていたという。


 しかし、王子は話し続けた。

 涙が溢れ、顔をぐちゃぐちゃにして、王子は語った。


 自分の兄がいかに花咲博士を尊敬していたか。

 いかに博士をサワジ公国に呼びたかったか。

 いかにサワジ公国を良い国にしたかったか。


 花咲博士とロボットはものすごくにこにこしながら応えてくれた。


「んだなあ。力を貸すべ」

「ンダナ」


     (つづく)

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