二人:シミラーカラー③


 例の爆発事故の後始末がついた頃には、暦は九月となっていた。三年生までの学生は依然として夏季休業中のため、学内はまださほど賑やかとは言えない。八月と比べてほとんど変化がないからか、僕は月を跨いだことに気づいていなかったほど。白坂が、律儀にも研究室中の壁掛けカレンダーを丁寧に剥がして回っていたのを見てようやく知ったのだ。

 緩い空気の流れる研究室を一通り眺めてお茶部屋に戻ってきた僕は、しかし、そこで繰り広げられる光景を見るなり愕然とした。

 なんと河村がいる。完全夜行性の彼がどうしてこんな真っ昼間に……しかもよく観察してみると、彼はなんだかおかしな服を着ているではないか。あれはスーツ……とはちょっと違う。もっとこう、物語の中の召使いが着るみたいな、そんな服だ。

「お嬢様。どうぞ紅茶でございます。それから、こちらがご所望のお荷物です」

「あら、早いのね。さすがだわ。でも河村くん、私のことを呼ぶときはそうじゃなくて、ちゃんと『唯花お嬢様』って呼んでくれないと」

「失礼致しました、唯花お嬢様。では、またご要望がございましたらお呼びください」

「ありがとう。今は特にないわ。あ、でも戻っちゃ嫌よ。ここで待機ね」

 ……なんだこれは。いったい何がどうなっているんだ。

 河村が、普段の彼からすればあり得べからざるほど恭しく丁寧に振る舞い、橋原の身の回りの世話をしている。その河村は橋原に対して深々と一礼すると、言われた通りに彼女の隣で、しかも椅子に座ることもなく待機状態に移った。

 あまりの事態に気づくのが遅れたが、橋原の向かいには白坂が座っている。彼女は言った。

「あの……唯花さん。もう、許してあげたらどうですか? 河村先輩のこと」

 橋原は用意された紅茶を飲みながらさらりと応じる。

「ふふっ。まだまだ全然駄目よ。彼は学祭で撮った私のウェイトレス姿の写真を無断で複製して、しかもそれらを営利目的で知人に販売していたのよ。私の肖像権を侵害し多大なる精神的苦痛を与えたのだもの。これくらいの罪滅ぼしはしてもらわないと」

「いえ、もちろん河村先輩のやったことは、いけないことですけど……でもなんていうか、どんな無理難題をふっかけても死んだみたいな目で応じるところが、思いのほかに見ている方の胸を打つというか……そもそもこの光景の異常さに私がちょっと耐えられないというか……それ、執事服ですか?」

「そうよ。私たちもウェイトレスをやったんだもの。これでおあいこ。りりちゃんも、昼間に顔を出さない彼とは、あまり話したこともないでしょう? いい機会だと思うわよ」

「いや、話すにしてもこの状況では……」

「それに、彼はりりちゃんの写真でも同じことをしていたのだから、あなたも立派な被害者なのよ。使いたければ使ってあげるといいわ。それで彼の良心も救われるはずだから」

「えっと……でも、さすがに」

「あ、りりちゃんケーキ食べたくない? 私、急に駅前のお店のケーキが食べたくなってきちゃったわ。ねぇ河村くん、お願いできるかしら?」

 橋原が突然、何の脈絡もなくそんなことを言う。にもかかわらず、河村はすぐに橋原の前に来て、また深々と頭を下げた。

「ショコラケーキでよろしいですね?」

「さすが河村くん、よくくわかっているわね。嬉しい。あと、りりちゃんの分も忘れないでね」

「かしこまりました。二十分ほどでお戻り致します」

 二十分! いや河村、ここからその店のある駅まで、片道で十五分はかかると思うけど……。

 しかし河村は、その言葉を最後にすぐさま部屋を飛び出していった。

 うーん。まあ彼の場合は自転車があるだろうが、それにしてもどれだけ急ぐつもりなのだろう。しかもあの姿で。ちょっとシュールすぎやしないか。

 白坂は、もはや何も言うことはないと悟ったのか、特に口を挟むことはなかった。

 お茶部屋には彼女たち二人だけが残る。

 すると橋原は、さきほど河村に持ってこさせたバッグを持って、白坂の隣に移動した。

「ところでりりちゃん、こういうの、興味ない?」

 言うと同時に、バッグからは色鮮やかなケースがいくつも取り出される。

「こういうのって……なんですか? これ」

「ネイルよ。新しいの買ったんだけど、りりちゃんにとっても似合いそうな色があってね。ちょっとやってみない?」

「え、あ、あの……私、そういうのあんまり……」

「好きじゃない?」

 白坂は遠慮がちに身を引いたが、橋原に尋ねられると、並んだケースたちを見て少し考える。

「いえ、そんなことは、ないですけど……やったことないから、よくわからなくて」

「それは大丈夫よ、私がやるから。ね、お願い! 絶対似合うと思うの。試してみたいのよ」

 橋原は白坂の前で可愛らしく両手を合わせた。その爪には既に、爽やかな空色のネイルがあしらわれている。白坂はそれを見つめたのち、答えた。

「……いい、ですけど」

「やった! ありがとう!」

 橋原はそれから、手慣れた様子で準備を始めた。彼女は普段から、化粧やアクセサリーなどのお洒落に関心がある方だ。あくまで清楚な印象を害さない程度に、それでも毎日、違ったコーディネートで現れる。きっと自分を綺麗に見せるため以外にも、装うことそのものに純粋な興味があるのだろう。彼女のことだから、色々と研究とかしてそうだ。

 まあ、今回白坂はそれに巻き込まれる形となったわけだが、でも本人も案外、まんざらでもない顔をしている。だったら是非、実験台になるといい。

 僕が興味本位で近づいていったら橋原に「あらシータちゃん。あなたもやってほしい? ボディペイントになっちゃうけど」なんて言われたので、すわ早々に退散した。僕はシックでシンプルな見た目を売りにしているので、ボディペイントは御免被る。

 しばらくして橋原が言った。

「はい、できた!」

 白坂は両手を広げて出来上がったネイルを見渡すと、誰にも聞こえないくらいの小さな声で「わぁ」と零す。白を基調とした、白坂のイメージにとても似合うデザイン。表情にはあまり出ていないが、まるで子供のように無邪気な感心を抱いているのだとわかった。

 橋原もしっかりそれを感じたようで、よりいっそうに声が明るい。

「やっぱり、すっごく似合うわ! りりちゃんって、普段からかなり薄化粧じゃない? 学祭のときにウェイトレス姿見て思ったんだけど、素材がとてもいいから、色々覚えてお化粧凝ると、もっともっと綺麗に見えるわよ」

「そ、そう、ですかね」

「うん! 絶対そう! そうだ、髪型も変えてみない?」

 言うが早いか、橋原はバレッタとヘアゴムを取り出してみせた。白坂もだんだん楽しくなってきたようで、その申し出に嬉しそうに応じる。いつも下ろされている白坂の長い黒髪を、瞬く間にハーフアップに仕上げる橋原の手際は、見ていて気持ちが良くなるくらいだった。

 ちょうど白坂の髪が出来上がったところで、お茶部屋に新たな声が訪れる。

「おっつかれー。別に特に全然疲れてないけどお疲れー」

 彼女は橋原と白坂の姿を認めるなり、条件反射のように傍に寄ってきた。

「あれ? なに、ゆいゆい。りりりんにギャルメイク教えてんのー?」

「ああ、夏子先輩。違いますよ。ギャルメイクじゃありませんー」

 笑ながら応じる橋原をよそに、ギャルメイクと聞いた白坂の驚いた顔を、僕のカメラはしっかりと捉えた。

「ほんとー? だってゆいゆい、昔はすごかったじゃん?」

「昔は昔です。それはそれ。今は今!」

 そのやりとりへ向かって、尋ねずにはいられないといった様子の白坂が口を開く。

「あの……唯花さんって、昔はどんなだったんですか?」

 藤林は楽しそうに「お、興味ある? じゃあ聞かせて進ぜよう」と笑って続けた。

「ゆいゆいが、一年生くらいの頃かな。すっごい派手だったよねー。髪の色とかコロコロ変わってたし、ついでに一緒にいる男もコロコロ変わってた」

「ちょっと夏子先輩」

「成績は良かったけど、授業とかほとんど出てなかったでしょー。んで、護身用にスタンガンだけ鞄に忍ばせて、毎夜毎夜遊び放題」

「スタ……え?」

「ゆいゆいがお酒に慣れてるのって、絶対そのへんの影響じゃん? 全然家に帰ってなかったけど、あのときはどこで夜明かしてたのかなー。今はよく、あたしの下宿先に泊まるけど」

「ちょっと夏子先輩! それ以上はやめてください! もう駄目です!」

 話の内容は、想像を遥かに超えるものだったのだろう。白坂は驚きのあまり絶句している。

 止まらない藤林に我慢ができなくなったらしい橋原は、いい加減に限界がきたのか制止するも、やはり藤林の勢いは止まらない。

「それがさー。キッシッシ。あるとき、あきらんに出会ってからというもの――」

 そして、話に予想もしない名前が登場したのと、ほぼ同時。

「夏子先輩、俺がどうかしました?」

 その本人がケーキのお遣いから戻ってきた。

 突然、橋原がガタンと立ち上がる。てっきり藤林の口でも塞ぎにいくのかと、思いきや。

「河村くん! ちょうどいいところに! 私、図書館に行きたいのよ! 探したい文献があるんだけど手伝ってくれる? いいでしょ? いいわよね! さあ行きましょう!」

「え? ちょっ、え? でもケーキ……あの、あれー?」

 河村の腕をとった橋原は瞬刻、脱兎となって部屋を去っていった。橋原があそこまで慌てた姿は、僕も見たことがない。何か、よほど河村に聞かれては不味いことでもあるのだろうか。

 橋原の俊敏な離脱に、白坂と藤林はただ黙す。

 空気が固まったままのお茶部屋に、入れ替わりで現れたのは沢だった。

「随分騒がしいっすね。なんか今、橋原先輩に引きずられてった河村先輩から、ケーキ受け取ったんすけど……白坂宛てだって」

「お、沢っち。君もなかなかタイミングがいいね」

「そうなんすか?」と適当な返事をした沢は、マグカップを持ってコーヒーを取りに行く。

「てか、あの二人って、夜型と朝型で真逆だから、あんまり絡んでるところ見ないですけど……普通に仲良いんすね」

「仲が良いっていうか……あれ? 沢っち知らないんだっけ。ゆいゆいはもう長いこと、あきらんに惚れてるんだよ」

「マジすか……え? マジすか!」

 なんで二度言った。いや、確かに僕も驚きを隠せいないけれど。

「マジだよ。沢っちも今度、観察してみたら? 飲み会のときとか、見てたら丸わかり」

「へぇー」

「わかってないのは……まあ、あきらん本人くらいだね」

「ほぇー、河村先輩って鈍いんすね」

 ははっと笑いを漏らしながら、沢は白坂の方へと向かう。

「よぉ白坂。なんかよくわかんねーけど、お届けもんだ」

 白坂はこくんと小さく頷くと、差し出された箱を見て一瞬だけ迷い、しかしすぐに両手を出して受け取った。その爪には、さきほど橋原に施してもらった白いネイルが輝いている。恥ずかしくて隠そうにも、両手で、しかも目の前の箱を受け取ってしまえばそうもいかない。

 そんな白坂を前にして、沢は尋ねる。

「今日は随分と大人しいな。あれ? なんかいつもと違くないか?」

 沢がネイルに気づいた、ということはないだろう。彼は白坂の爪ではなく顔を見つめている。そういえば、今の白坂は髪型も普段と違うのだった。しかし、何かが違うと言うばかりで具体的には言い当てない沢。

 白坂は少し俯き気味に黙っていたけれども、やがて顔を赤らめては立ち上がって、とととと、と部屋から出ていく。その後ろ姿に、沢は解せない様子で首を傾げた。

「なぁんだよ。せっかく届けてやったのに、礼の一言くらいあっても」

 その様子を見ていた藤林は、沢の後ろでニヤニヤと笑っている。

「キッシッシ。さて、鈍いのはどっちかなー」

「え?」

「いーやー。なーんにも」

 ポン、と軽く沢の肩を叩くと、藤林はそのまま部屋を出ていく。

 沢はやはり解せない様子で首を傾げるのだった。

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