二人:シミラーカラー②

 翌日は、朝から何やら騒がしかった。ホームスペースで僕が覚醒したのは時刻にして午前七時二十分だったが、既にそのときには、廊下がバタバタと足音で溢れていた。

 僕は動き出し、声の集まる方へと向かう。途中で河村とすれ違った。

 おはよう、河村。何かあったの?

「あ、シータ。お疲れー。いやー、帰りがけに大爆発とは、まったく目が醒めるね。それでも僕は十分眠いけどね、うん」

 大爆発?

「夏子先輩が実験中に、測定器ショートさせちゃったんだって。回路組むのミスったら、扉の横にあったやつが弾け飛んだらしいよ。その勢いで扉もかなり変形してた」

 なんだって!

「向こうには行くのはオススメしないよ。ごちゃごちゃしてて危ないし、誰かに踏まれるかも」

 ……そういうことなら無闇に近づいたりはしないけれど。でも、それって色々と大丈夫なの?

「まあ、詳しいことはあとで誰かに聞いてよ。せっかく気分良く実験してたのに、最後の方は片付けに駆り出されてバッテバテさ」

 そう言うと河村は「じゃーねー」と残して帰宅していった。

 うーん。藤林が大爆発……彼女はまあまあおっちょこちょいだから、確かにあり得ることだけれど……なんだか物騒だなぁ。

 遠目から眺める限りでは、実験室の一角に黒焦げとなった部品が散乱していた。歪に変形した扉は蝶番でギリギリ姿勢を保っているが、おそらく時間の問題だろう。

 それから事態は少しばかり大きくなった。普段通り九時前に現れた梅田は、研究室の惨状を見て一瞬目を丸くしたのち、事情を聞くとしかめっ面で頭を押さえる。野次馬に来た付近の研究室の学生たちは、怒れる彼女によってみるみる追い返された。

 しばらくして伏屋の監督の下、業者の人まで引き入れての撤去、および設備の復旧作業が開始される。これがかなりの重労働で、少なくとも数日はかかるだろうと思われた。そして、あまりに自然で見落としそうになったが、動き回る業者の人の中には藤林も混じっており、作業を手伝いながら和気藹々と会話に花を咲かせていた。……いや、諸悪の根源は君なのでは?

 まあいい。研究室が急遽そんな状態であるからして、登校した沢と白坂は、すぐに梅田に呼び出された。「しばらく実験できなくなったし、ちょうどいいからミーティングだ」と。

 お茶部屋のテーブルに三人がつく。この時点で梅田はもう既に疲れ切った様子だったが、沢は珍しいトラブルに意味もなくテンションが高かった。

「ったく。朝からとんでもない災難だ」

「いや、ほんと。なんか大変そうっすねぇ!」

「お前なんでそんなにニヤニヤしてるんだ。他人事じゃないぞ。お前の今後のスケジュールだってずれるんだからな」

「わかってますよー」と答えるものの、それでも沢は緩んだ顔で、どこか呑気に笑っている。

「本当かよ。わかってるやつはそんな返事しないぞ、まったく。白坂もだ、いいか」

 振り返って、梅田が同じように白坂にも忠告を飛ばす。

 しかし白坂から返ったのは、沢とは対照的にとても不安そうな声で。

「私は……十分わかっているつもりですよ。これ、私たち……卒業できますか……?」

「お、おぉ……その反応は、わかってるやつの反応だな」

 梅田も思わず毒気を抜かれたようだった。軽い溜息とともに、肩口の長い髪を払って言う。

「まあ、心配するな。見た目ほど大事じゃない。その辺は藤林のやつも、馬鹿だけど馬鹿じゃないというか、悪運が強いというか、本当にヤバい地雷は踏まないな」

「あ、じゃあこれは、意外と大丈夫なやつなんですね」

 沢がケロリと尋ねる。

「少なくともお前が思ってるよりは重症だけどな。それにあれは、あいつだったから生きてたんだ。お前ら、頼むからマジで、実験中に死ぬなよ。あと物は壊すな」

「またまた先生、そんな大袈裟な」

「大袈裟なものか。研究室にある装置ってのはな、大概が市販のものと違って、セーフティが付いてないんだ。わかってる人間だけが使うもの、つまるところがプロ仕様だ。使用者が無知だと危ないことも簡単に起こる。のほほんとやってたら知らん間にあの世行きだぞ」

 梅田が妙に真剣に、脅しでもハッタリでもなくそう言うと、沢の顔が少しだけ固まる。

「ま……マジっすか」

「マジだよ。そこんとこわかってやってくれ。いいか、研究はいつも死と隣り合わせだ!」

 出た出た。梅田のエセ名言。しかし今日のはいつもにも増して内容が不穏である。ただ、梅田の言ったことはまったく偽りのない真実であるから、沢はここらできちんと認識を改めるのがよいだろう。実験室は、実は危険でいっぱいなのだ。僕はしばらく沢の実験には近づかない。

「んじゃ、とっとと本題を始めるぞ」

 梅田は仕切り直すように、椅子に仰け反っていた身体を前傾させる。

「まあだらだらと言いはしたがな、お前らB4の卒論にはよほど影響はないだろう。少しスケジュールがずれるか、または前後するくらいだ。だからひとまず、この惨事は横に置いといて」

「置いといて? 置いとくんすか?」

「ああそうだ。お前たちは、自分の研究のことだけ考えてろ」

 その言葉に、二人は揃って少し不思議そうな顔をする。

「沢と白坂のテーマは、それぞれ私と伏屋先生が別々に見ているが、実際にはかなり近しいものを扱っている。データを共有する可能性については、以前にも説明したな」

 梅田は二人をざっと見やるとそのまま続けた。

「ものすごーく簡単に言ってしまえば、様々に加工された光を人間が目にしたとき、その生体にどういった影響が表れるのかってことだが……この研究には、実験室で光を弄くり回すだけじゃなくて、実際に人間の反応を記録したデータも、根拠として必要だ」

「そ、それってまさか先生……俺たちにモルモットになれと……?」

「確かに、歴史上には病原菌の研究のために自身の身体を犠牲にしたヤバい学者――もとい素晴らしい偉人もいるにはいるが……今回は駄目だ。数が足りない」

「数?」

「ああ、数だ」

 梅田は、逐一疑問を投げかける沢だけでなく、同じタイミングで白坂にも気を配り、しっかりと理解が進んでいるかを確認している。

「病原菌みたいに、飲んで病気になってハイ確認ってほど顕著なものでもないからな。できるだけたくさんの人の反応を見て、統計的にデータを扱うんだ」

「具体的には、どうするんですか?」

 今度は白坂が尋ねた。梅田は、やはり二人を同時に見渡し。

「お前ら、研究室に入る前に、学生を対象にしたモニターバイトとかやらなかったか?」

「あ、俺やったことありますよ。応募して指定された時間と教室に出向いて、三十分くらい付き合うだけで数千円もらえる美味しいバイト」

「私は……知ってはいますけど、実際に行ったことはないです。よく心理学部が主催している、アンケートみたいなものですよね」

「そうだな。心理学ってのは特に統計をよく使うんだ。必然、そういうものを催す機会は多い。私たちもこれと似たようなことをやるってわけだな」

 二人の答えに応じながら、梅田はそこで席を立った。ホワイトボードの前まで移動すると、手近にあったマジックを握る。予定の確認や議論の痕跡、雑談の残りなどがひしめくボードに余白を見つけると、そこをめがけてキャップを取った。

「五百とか千とかの単位の人間に光を見てもらって、その結果をできるだけ詳しく記録してもらう。まさか研究室に連れてくるわけにもいかないから一般的な場所でできるように内容を考えて、結果を白紙の紙に書かせるわけにもいかないから用紙もこっちで事前に用意して、勝手に場所使うわけにもいかないから学校の事務局にも説明して、ついでにある程度の広報を頼んで……あとは、参加者に多少の謝金が必要となれば、それも研究費から出さなきゃならん」

 余白には、梅田の説明した内容が箇条書きとなって示されていく。どうでもいいが、月、火、水、と続いているスケジュール表や『今週末のあきらんの誕生日会お品書き』とか書かれた近くに梅田の字が加えられると、いよいよこのホワイトボードは見ていて目が、カメラが滑る。

 そんな散逸した情報たちに惑わされることなく、白坂は梅田の説明だけを手帳にメモしていく。沢は沢で簡単な脳内シミュレートを行なったのか、天井を仰いで悲鳴にも似た声を出した。

「うへ。それ、準備することめちゃめちゃ多いっすね。地味なイベントの裏方みてー。泥臭ー」

「実験ってのはときに泥臭いものなんだ。研究とは足で稼ぐもの!」

 梅田が拳を握りしめてそう力説する。

 対して沢は、顔の前で片手をヒラヒラさせて笑った。

「いやいや先生、そういうのもういいっすから。芸人にでもなるんすか?」

 すると梅田は黙って微笑みながら、抜き身のマジックを沢に向かって構えた。その目はとても冷えている。凍りつく周囲の空気。その中で白坂の動かすペンの音だけが途切れることなく聞こえる。数秒間、二人は笑顔を貼り付かせたまま固まっていたが、やがてほぼ同時に「っち」と舌打ちして居住まいを正した。この争いに益なしと気づいたらしい。

 梅田は再び、何事もなかったかのように淡々と述べる。

「これも大事な実験だ。スケジュールと準備の労力と金、その他諸々の関係から、しくじったら二度はできない。その辺を十分念頭に置いて、まずは二人で相談を――」

 しかし、場が落ち着いたのも束の間、今度は廊下の方からドタドタと足音が聞こえてきた。ただ僕ほどともなれば、姿は見えずとも足音の微妙な違いから、誰かを特定することは容易だ。

 直後、お茶部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

「ちょっとちょっとー! 沢っちりりりんー! これ! これこれ、どういうことー!?」

 そこにいたのは藤林。加えて後ろには、彼女と同じく満面の笑みの樋尾がいた。

「いやぁさ。夏子ちゃんと二人して暇になったから、こないだの学会でシータが記録してきたものを整理しようって話になったんだけど」

 ああ、そういえば、そんな記録をした覚えがあるなぁ。確かホームページに研究活動の記録を載せるとかで……学会から帰ってすぐ、研究室のサーバーにぶち込んだまま忘れていた。

 僕が振り返ると、心の底から愉快そうな、まさに格好のネタを見つけたとでも言いたげな顔をして、二人がノートパソコンのディスプレイを掲げている。

「俺と夏子ちゃんはてっきり、写真が何枚か出てくるのかと思ったけどさ。ところがどっこい、あったのはたった一つのファイルだけ。なんとこれ、最初から最後までぶん回しの動画じゃん」

 そこまで言われて、沢はようやく「あ」という顔になった。そう、君が初日の新幹線で「ずっと録画しといて」って言ったんだよ。

 一方で白坂は、何のことだかわかっていない表情をしている。

 そんなことはお構いなしで、藤林と樋尾はディスプレイにその動画を流し始めた。映ったのは夜、ちょうど沢と白坂が話をしていた宿の光景だ。

「「ぎゃあああああああ!」」

 瞬間、沢と白坂は声の限りの悲鳴とともに立ち上がった。

「なに、お前ら一緒の部屋に泊まったの? いつからそういう関係だったわけ?」

「キッシッシッシ。二人ともやっるぅー!」

 沢がすぐさま、ニヤつく樋尾と藤林に向かって詰め寄っていく。

「夏子先輩樋尾先輩! ちょっと待ってください! 話し合いましょう!」

 けれど、ほぼ同時に動き出した白坂の矛先は彼らではなかった。

「何言ってるの沢! 待つのはあなたよ! 何よあれどうしてシータが宿で録画してるの!?」

「え、ちょっ、俺ぇ!? 待って待って! 話せば長い! 話せばわかる!」

 弁解しようとする沢に対し、しかし白坂はまったく追求を緩める様子はなく「あ! 首が! 首が苦しい!」沢の襟元を掴み「白坂さんタイム! 足が! 俺の足が地面から浮いてるぐびがぁああぁあ」力いっぱい天へ向かって締め上げた。

「あれにいったいどんな理由があるっていうのよ何が話せば長いよ何が話せばわかるよだったらじゃあ早くそのご立派な言い訳とやらを言ってみなさいよどうせそんなのないんでしょ!」

「ちょっ、ぐえ、まっ」

「なんで何も言わないのよなんでもいいから何か言ってみたらどうなのおおかた自分で写真撮るのが面倒だからシータに任せてずっと録画させといたとかそんなところでしょあなたがそういうテキトーなことばかりやってるからこういうことになるのよちょっと考えたらわかることじゃない私まで巻き込まないでよ!」

「てか、あの、これじゃ、喋れな」

「だいたいあの二人に見つかったらもうどうしようもないじゃない人の口に戸は立てられないのよそれこそあの二人の口なんか水素ガスより軽いんだからそりゃあのときはあなたに助けてもらったし十分迷惑もかけたと思ってるだからこそあんな話したんじゃない誰にでも聞かせられるような話じゃなかったでしょあなた責任そうよ責任とってよ!」

「い、いや、それこそ俺じゃ、なくて早く、あっちを」

 沢と白坂が仲良く戯れている間に、横では樋尾と藤林が次なる行動に移ろうとしている。

「よーし、今日は実験もできないし、この動画を肴に酒でも飲むかー!」

「いいですねぇ! 是非是非、是非そうしましょう! あたし、プロジェクター準備しますね!」

 それを耳にした白坂は、半ば投げ捨てるように沢を解放すると、ぐるりと振り返った。樋尾と藤林を見比べ、瞬時にノートパソコンを持っている藤林の方に照準を定める。

「何言ってるんですか夏子先輩! だいたい、実験できないのは夏子先輩のせいですよね! 訴えますよ!」

「きゃはー! りりりん目が怖いよー!」

 藤林は逃げるでもなく簡単に捕らえられたが、そもそも彼女はこの事態そのものを楽しんでいるように見えた。白坂に組み敷かれても平気そうだし、それを眺める樋尾の方も、テーブルに座ったまま笑っているばかりだった。沢はといえば、まだ部屋の隅で伸びている。

 もはやこの有様に収集はつかないと判断したのか、梅田は無言で溜息を一つ吐くと、今まさに何かを諦めた顔をしてよろよろと部屋から出ていこうとしている。

 僕は少々混乱した。真面目な卒論のミーティングを聞きに来たつもりだったが、ひょんなことから一瞬で阿鼻叫喚の地獄絵図となってしまった。そして僕には、地獄に長々と留まるおかしな趣味はプログラムされていない。僕は思考するまでもなくここからの最良の行動を導き出し、そそくさと梅田のあとについていった。

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