Study 4
二人:シミラーカラー①
暑い。僕が日課のフィールドワークから研究室に戻ると、時刻は午後一時を回っていた。
八月下旬、この時間の屋外は蒸し風呂にも等しいほどの環境と言える。熱は機械である僕にとってわかりやすい天敵。接地するタイヤから、空を仰ぐメタルボディから、ジリジリ焼かれる感覚は非常に、非常に耐え難い。もうやめようかなこの日課。でもそれを終えて空調のゆきとどいた研究室に帰ってきたときの幸福感もまた、僕を虜にしてやまないものだった。
僕はファンを高速回転させて身体を冷やしながら廊下を進む。向かった先のお茶部屋では梅田が難しく顔を歪ませて論文を読んでおり、そこから少し離れたテーブルの端では、昼食後らしき藤林と樋尾が雑談をしていた。
「でねー。母さんが電話でさー。いいとこに就職できなかったら、うちに戻って旅館継げーって。やんなっちゃうよもー」
「あー、そういえば夏子ちゃんの実家って、旅館なんだっけ。どの辺にあるの?」
「北陸のちょー山の奥。私、寒いの苦手だから戻りたくないんですよねー」
「ははは。ま、だってそりゃ『夏子ちゃん』だもんねぇ」
テーブルをぽこぽこ叩きながら話す藤林に、樋尾は片手で頬杖をつきながら笑って応じる。
「だいたい、母さんの言う『いいとこ』ってのがまずわかんない。いいとこって何? 知名度? 給料? 待遇? 職種? そういうところをさー、ちゃんと明確にしてくれないと」
「そんなこと言ったって、明確に提示された就職先を選ぶ気はないんでしょ? 夏子ちゃんは」
「当たり前ですよ! 結局、母さんは旅館の女将だけしかやってこなかったから世間知らずなの。私はそうじゃなくて、もっといろんな世界を見に行くんだから!」
「夏子ちゃんらしいねぇ。そんな夏子ちゃんには、ドクターっていう道もお勧めできるけど?」
「樋尾先輩、博士百人の村って知ってます?」
「はははははははは」
そう言う藤林は、世間知らずではなくとも常識知らずだと僕は思うが……ただまあ、それがある種、藤林の良いところ、優れているところでもある。博士百人の村については知らない方が身のためだが、樋尾の乾いた笑いを見るに、知っていそうだ。
「あと実家に帰ったら絶対婿とれって言われるから嫌!」
そして唐突かつ声高に藤林が叫ぶ。ぶっちゃけたところ、これが彼女の本音のようだ。
するとそれには樋尾が意外な同意を見せた。
「んー、なるほどね。それは俺もわかるな。俺も家に戻ると毎度『早く卒業しろ。許婚が待ってるんだから』って言われんだ。いやー、勘弁勘弁」
なんと。まさか樋尾に許婚なんてのがいようとは。普段から樋尾はあまり自分の話をしない方だが、しかし許婚とは驚いた。しかもそれに対してなんと軽薄なことか。
「ってわけで梅田先生。俺、今年は卒業しないんで」
樋尾は少し離れた梅田に向かって振り返る。
話を振られた梅田は面倒そうに論文から目を離し、椅子の背に大胆にもたれて言った。
「そんな理由で残れると思ってか。お前D3だろ。お前の成績で卒業しなかったら、他は何年も留年だ。あとが詰まってるんだから早く出て行け。それから、結婚の話は他所でやってくれ」
「あはは、そこをなんとか、もう少し面倒見てくださいよ。まだ僕は、梅田先生から学ばなければいけない技術がたくさんある気がするんです」
「よくもまあ、そんな白々しい嘘が堂々と言えるな」
「いえいえ滅相もない」と樋尾は片掌を見せて振りながら、人当たりのよい笑みを浮かべる。
「梅田先生は、お見合いでもすれば、たちまち引っ張りだこだと思うんですけどねー」
しかし樋尾が笑みを増すほど、梅田の顔は険しくなっていく。
「嘘つきにもらう世辞は嬉しくないね」
「そんなつもりはありませんよ。普段よりももう少し笑って、白衣が私服とかもやめてですね。それから、お見合いのときにはなるべく発言しないようにして」
「てめぇこのやろう……」
確かに梅田は、口を開かなければかなりの美人だが。
「あとは、徹夜したとき机の下で寝るなら、ズボンは履いて頂いて」
「嘘!? アキちゃん研究室で寝るときパンツなの!?」
しばらく横で会話を聞いていた藤林が、そこで突如、梅田に食ってかかった。
「おいアキちゃんじゃねーよ藤林。それと最近はしてないさ……たまにしか」
「たまにでも大問題だよ! アキちゃん仮にも女子でしょ!? まだ二十代でしょ!? 見た目すっごい綺麗なのになんでそんなに中身残念なの!」
「ざんっ……」
凄い剣幕で藤林は梅田の両肩を鷲掴みにし、ぶんぶん振って訴える。
「結婚したいならまずそういうとこ直そうよ!」
梅田はひとしきり揺らされて首を前後にガクガクさせたが、しかしいい加減に鬱陶しくなったのか藤林を振り払った。そしてまたも面倒そうに溜息を一つつくと言った。
「わかったわかったよもうしない。けど別に、結婚したいから直すわけじゃないぞ」
そうして立ち上がると、持っていた論文を手際良く整える。
「そもそも、だ。このクソほど人間のいる星で、偶然にも自身の添い遂げるべき相手と出会うなど、砂漠の中から一粒の宝石を見つけ出すような幸運だ。仮に自分がその幸運に恵まれなかったとして、どこに嘆くべきことがあろう? ごくごく普通のことじゃあないか」
こういう、理性的なようで極端な思考や、冷めた振りして割にロマンティックなところは、知り合ってしばらく経つとわかってくる梅田の意外な一面だ。そしてそんな梅田は去り際、またしても冷めた振りをしては捨て台詞とともにお茶部屋を出ていく。
「それにどうせ私は、婿と研究なら研究をとるさ」
強がりか本意かは、これまた微妙なところである。藤林と樋尾はほとんど同時に顔を見合わせ、肩をすくめて呆れた笑みを零した。
陽がすっかり地平線に隠れてしまったあと、廊下を移動していた僕のカメラに映った人影。どういうわけかそいつはリュックを背負ったまま、缶コーヒー片手に壁にもたれていた。
「よぉ、シータ。元気してっか」
まあ元気だけど……ていうか沢、もしかして今、登校したのかい?
僕は彼を咎める意味も含めてその足先に何度も衝突する。
「はは、わかってるわかってる。遅刻の件はちゃんと梅田先生にでも謝るよ」
いや、遅刻とかいうレベルじゃないんだけど。
「んでよ。先生んとこ行こうとしたら、この向こうから声が聞こえるんだよ」
向こう? この壁の向こうは確か……。
「教授室に先生たち三人が集まって話してるんだ。なんか面白いこと聞けっかなって偵察中」
うん。一般的に人はそれを盗み聞きって言うね。やめようね。
僕は引き続き彼の足先にぶつかり続ける。しかし沢ときたら笑うばかりでやめようとしない。
仕方がないのでそんな彼が良からぬことを企まないよう、僕もここで見張ることにした。すると彼の言った通り、壁の向こうから何やら声が聞こえてくる。
「にしても、あいつらのやり口は気に食わねー! ちょっと前は、たまに突っかかってくるくらいだったから黙ってたけど、最近はどうにも程度が過ぎる!」
叫ぶ一歩手前くらいの声量で怒っているのは、おそらく梅田。正直、これは壁に張り付いていなくても聞こえてしまう。それをなだめるように落ち着いた声で返すのは蓮川だ。
「うむ。今回の査読で問題になった論文は、梅田くんが手塩にかけて書いたものだからね。心中穏やかではなかろう。無論、私もだ」
どうでもいいが、蓮川はいつの間に帰国していたのだろう。神出鬼没この上ない。
「それだけじゃないですよ。あの実験にはたくさんの関係者がいる。大事なみんなの功績だ。なのにあいつらときたら、あからさまに不当な評価しやがって!」
「まあ、とはいえ他からの査読評価は上々だ。雑誌への掲載は問題ないだろう」
査読というのは、研究者が学術雑誌に論文を投稿した際、事前に同分野の研究者に、検証および評価を行わせるものだ。この結果により雑誌への掲載可否も別れるため、審査の意味合いも併せ持っている。このシステムがあるからこそ、世に送り出される論文の質が高い水準で維持される。しかし同時に、情報漏洩や権威主義による弊害が生まれているのも、また事実。梅田が今問題にしているのはその後者、権威を盾にした不当評価についてだろう。
「だとしても、これじゃあ私の気が収まらない。特に今年になってからは酷いです。嫌がらせを通り越して、まるで徹底抗戦だ」
「おそらくは僕たちが痺れを切らして声を上げたところに応戦して、上手いことやろうって魂胆でしょうね。向こうの研究室と提携している企業も関わっているはずですし」
伏屋が冷静な分析を述べると、蓮川もそれに賛同し、梅田に言った。
「うむ。つまりこれは、わかりやすい挑発だよ、梅田くん。それだけ私たちの研究が注目されているということじゃないか。いや、人気者は辛いね」
あくまで余裕を崩さない蓮川を前に、梅田も自身を省みたらしい。どうにか落ち着こうと、拳を握りながら目を閉じて黙る姿が想像できた。
そして一度会話が途切れてから、蓮川がぽつりと言う。
「しかし、今年になってから……か。まあ、心当たりが、ないわけでもないが」
「もしかして……白坂さん、ですか?」
応じた伏屋の言葉に、蓮川は「ほぉ」と驚きを示した。「伏屋くん。君もなかなか鋭い」
蓮川が椅子から身体を起こしたのか、キイという骨組みの軋む音が部屋に響く。
「うん。白坂凛璃くんがこの件に直接関係しているかはわからないが、確かに彼女がうちの研究室に入った今年から、相手さんの影には、行政関係のルートで白坂の名前がちらついている」
「白坂といえば、政界ではそれなりに名の通った一派ですね。ゆえに方々に力は伸びるのでしょうが……しかし、我々と敵対する意味がわかりません」
「わからんね。けれどあれこれ勘ぐっても仕方がない。結局はわからんのだから。蓋を開けたら、やっぱり無関係でしたってオチもあるかもしれないよ」
「それは……そうですが」
蓮川はそこで溜息混じりに笑みを作る。
「まったく、政治が科学に干渉するなどいかにも無粋。しかし両者が切って切り離せないのも、また事実。科学と政治は非常に密接したファクターであると、改めて痛感するよ」
「それは、蓮川さんの先生のお言葉ですね」
伏屋が言うと、蓮川は頷きつつも軽快に答えた。
「はっはっは。その通りだよ。私の唯一にして最大の恩師、白坂教授のありがたいお言葉だ。そして私は、どうにもこの名に縁があるらしいね。ただできることなら、この名と争いたくはないと思っている」
それを聞いた梅田は悔しそうに蓮川に尋ねる。
「けど蓮川さん、それじゃあ」
「もう少し様子を見よう。下手に動くと返ってよくない。梅田くん、それは君にとってもだ」
梅田はその答えにやや歯がゆそうな様子であったが、それでもやがては「蓮川さんが……そう言うなら……」と納得を示した。蓮川は「うん」と再び頷いて、さらに続ける。
「執拗なまでの成果主義、蹴落とし合い、権力争いに面倒な駆け引き。純粋に真理を追求する学術界には一切無用なはずのものが、私たちの周りには溢れているね。実に嘆かわしいことだ。嘆かわしすぎて、とても仕事が手につかんよ」
蓮川の肩をすくめて呆れる姿が目に浮かぶようだ。
「夕食にでも、行きましょうか」
伏屋が仕切り直しとばかりにそんな提案をすると、梅田も思い出したように付け加える。
「そういえば、最近できた近くの定食屋。蓮川さんは、まだ行ったことないと思いますよ」
すると蓮川は軽快に椅子から立ち上がって言った。
「よし、ではそこへ行こう。払いは私が持とうじゃないか」
僕と沢がいる方ではない、教授室からお茶部屋へと直通の扉に三人が向かう。そしてそのまま、先生たちが外へと出ていくと、不意に辺りは静寂に包まれた。
沢はしばらくの間、動きを見せずにじっとしていたが、やがてもたれていた壁から背を離す。
「てか今更だけど、蓮川先生、帰ってたんだな」
口ではそんななんでもないことを言っていたものの、彼の胸中にはもっと、別のことが浮かんでいたはずだ。あれはそういう顔だった。沢はその足取りでお茶部屋へと向かう。
ついていくと、テーブルの上には明らかに外国産らしきパッケージのお菓子が封を切って置かれており、蓮川の土産だとわかる。沢はその菓子を一つ摘み上げては口へ運ぶと、自分のマグカップにコーヒーを注いでテーブルについた。
実に三時間の間、沢は椅子に座ったまま微動だにしなかった。だらりとした両手で持たれたマグカップの中のコーヒーも、三分の一くらいを残して、とうの昔に冷め切っている。目ははっきりと開かれているから寝ているわけではないのだろうが、一体全体どうしたのか。
僕がしばらくそんな彼を見つめていると、視界の反対側で扉が開いた。
「あら、沢くん。どうしたのー? ぼーっとして」
現れたのは橋原。作業用の手袋の片方を外しながら、部屋の隅にある備品棚に向かっていく。どうやら実験中で、何か必要なものを取りに来たようだ。
話しかけられた沢は、それでようやく我に返った。手元に残るコーヒーを即座に飲み干すと、なんでもないような様子で応じる。
「ああ、いえ、ちょっと休憩です。ってか橋原先輩、こんな遅くまでいるなんて、珍しいっすね。帰りの電車、あるんすか?」
棚の前でしゃがんだ橋原は、ポニーテールを可愛らしく左右に揺らしながら、棚を上から順番に開けては閉めを繰り返していく。
その音と同期して進む壁掛け時計の秒針。示される時刻は、午後十時四十二分。
「んー、あるにはあるわよ。でも、今日はもう少しかかりそうだし、夏子先輩のところに転がり込もうかなって考えているところ」
「そこまでして実験するなんて、さすがっすね」
「私の場合、普段はバイトであんまり遅くまでできないから、こういう、できるときにやっておかないとって思ってるだけよ」
橋原があまり遅くまで研究室に残るタイプでないのは事実だ。その分だけ朝は早く来ることが多いので、直属の上司である伏屋とは相性が良いとも言える。なぜなら、伏屋も家庭を気にして、早めに来て早めに帰るようにしているから。
この研究室、誰が指示したわけでもないのに、結構明確に朝型と夜型に分かれている。
「橋原先輩って、バイトしてるんすか?」
沢はそのことを知らなかったのか、案外、驚いた様子で問いかける。
「してるわよ。場所は家のレストランなんだけど、お給料もらってて、他に働いてる人と一緒にシフトも組まれてるから、まあ、ほとんど普通のバイトとおんなじね」
「へぇー、意外だなぁ」
「そう?」
「はい。なんか、この研究室の人たちって、みんな研究一筋って感じがしてました」
「えー、そんなことないわよ。私だってバイトくらいするし、例えば、河村くんがカメラ好きなのは知ってるでしょう? 彼なんて、研究のことよりもカメラのことを考えている時間の方が長いと思うわよ」
「ああ、いや……そうですね。あれ……? 確かにその通りだな。河村先輩って、俺よりもそんなに真面目なのか……?」
沢は呟きながら首を捻った。橋原は立ち上がってこちらに振り向き、彼の様子を見て笑う。
「ふふっ。どうしたの? そんなこと考えてるなんて、君の方こそ意外なんじゃない?」
「ははは。まあ一応、自覚はあるんですけどね」
沢は右手を持ち上げて自身の頭を掻く。そうして視線を、再び空のマグカップに落とすと、一呼吸置いて言った。
「なんていうか、ちょっと真面目になってみるのもいいかなーって思ったんですよ。ほら、真面目にやった方が楽しいことって、いっぱいあるじゃないっすか」
「それは……その通りね」
「同期で他の研究室に入ったやつらとか、結構そのタイミングでバイトやサークル辞めたりもしてて……今更だけど、俺もそうした方がいいのかなって」
そこまでを聞くと、橋原は笑顔に細めていた眼を一瞬見開き黙したが、やがて「……ふぅん、なーるほど」と小さく零して歩き出した。はめたままでいたもう一方の手袋を素早く取り去り、そのままテーブルの椅子につく。沢から右に、二人分ほどの空間を空け。
「やっぱり私も、少し休憩しようかしらね」
沢にとって、それはやや唐突な発言だっただろう。
「え、でも実験中なんじゃ」
「とりあえず一段落してるし、大丈夫よ」
「そう、なんすか?」と疑問符を浮かべながらも、すると沢は立ち上がる。
「じゃあ飲み物用意しますよ。何がいいっすか?」
「ありがとう。紅茶をお願いするわ」
こういう気遣いが媚びでも気障でもなく自然なところは、彼の良いところだと思う。沢の用意する紅茶を待つ間、橋原は手近に見つけた菓子の一袋に手を伸ばした。
「あら、これ意外と美味しいわね」
美味しいのか……それは確か、蓮川のお土産だったはずだが……。
噂によると、蓮川の土産は結構な率でゲテモノらしい。それを知りながら躊躇なく食すここの皆はさすがと言わざるを得ない。
しばらくして、沢は温かい紅茶を橋原の前に差し出した。自分も自分で、マグカップにまた新たなコーヒーを充填しているあたり抜かりない。二人が座り込んで一服する間、ただ秒針の進む音だけが部屋を満たした。やがて橋原が、紅茶から立ち上る湯気に交えてぽつりと言う。
「つまり君は、頑張りたいのね」
「え?」
「さっきの話。真面目になってみるのもいいかなって思って、その方法を探してるんでしょう?」
沢としては、その話題はもう既に終わった思っていたのかもしれない。わざわざ改めて橋原の方から水を向けられるとは考えていなかったのだろう。少々戸惑いながら応じる。
「あ……まあ、はい。そうです、けど……橋原先輩、ちょっと簡単に信じすぎじゃないっすか? いつも軽口満載な俺が、いきなり真面目になろーかなって言ってるんすよ? こんなの、単なる気紛れな嘘かもしれないのに」
「私、君が嘘を言っているところって、見たことないわ。君は確かに、いつも軽口っぽくものを言うけど、でも、言ったことは全部実行してるじゃない? それって本当は、軽いのは口じゃなくてフットワークなんだなって思うの。さっき意外って言ったのは、君が真面目になろうとしてることじゃなくて、君が真面目になろうって思って、でもそれを私に話すくらい、慎重になってるところよ」
橋原の返答は、きっと沢の想像の何倍も真剣だった。もう今更、冗談めかしてはぐらかすことなど、できないくらいに。結果、ついに口を開けてぽかんとするのみとなった沢に対し、橋原はもう一度ゆっくり語りかける。
「辞めるのも一つの手なんじゃない?」
「……え?」
「バイトよ、バイト。あと君の場合は、サークルとか、その他諸々? 何か一つのことに一生懸命になろうとするとき、代償として他のものを差し出すのって、わかりやすいやり方だと思うから、それもありなんじゃないかなってこと」
「わかりやすい……っすか」
「うん。踏ん切りとか、覚悟としてね。もしその先で辛いことが起こったとしても『でも、あれもそれも捨ててこれに賭けたんだから』って思えるじゃない。そういうときのために、先に事実を作っておくの」
「……なるほど」
そういう感覚は、どんな人にも少なからずあるのではないだろうか。ただもらうよりも交換で得る方が、ただ失うよりも何かの引き換えにする方が、その方が、納得できる場合がある。そしてその結果、自身の手元に残ったものの価値は、よりいっそう大きく見えるものだ。
「ま、そうじゃなくても、純粋に目的とすることのために大量の時間や労力が必要だったりして、自分のキャパシティと相談した場合に致し方ないってこともあるわね」
「……なるほどなるほど」
眼を閉じて、何かの講義のように人差し指を立て話す橋原。彼女は再びカップを手に取り、自らの口へと紅茶を運んだ。茶器の奏でる高い音は、傍にいる僕のサウンドディテクタを心地良く刺激する。カップの中身が空になったことを確認すると彼女は、すっと背筋を伸ばして椅子を引き、滑るようにして沢に近づいた。
「でもね」
「うおっと」
橋原は「ふふっ。驚いた?」と下から覗き込むようにして沢を見る。
「方法は必ずしもそれだけじゃないと、私は思うわ。一点集中でなければ一生懸命でないとは思わない。勉強のできる人が総じて運動音痴ではないように、スポーツマンが総じて無知ではないように、文武両道は十分可能だし、どころか、それぞれの要素が互いに高め合うとも思っている。例えば私、これまで研究で行き詰まったときなんか、座って頭捻ってた机の前よりも、バイト中にいいアイディアを思いついたことの方が多いのよ」
「ああ、そういうのはわかります。俺も高校の頃、文化祭の劇の脚本で長いこと悩んでたんすけど、結局いいネタ思いついたの、ファミレスのバイトでパフェ作ってるときでした」
「そうそう、そんな感じ」と答える橋原は、そのまま体勢を戻して続けた。
「私個人としてはね、何かを得るために何かを差し出すっていう、そういう『世の摂理』みたいなの? ノーセンキューよ! 私は根が欲張りだから、そんなルール知らない。だって欲しいものは、全部欲しいんだもの」
「あはは。そりゃ、なんつーか、いっそ清々しいっすね。橋原先輩が夏子先輩と上手くやってるのが、それ聞いて納得できました」
大笑いする沢を見て、橋原も「でしょ」と一緒になって笑う。やがて彼女は、沢のすぐ隣でテーブルに向かい、両手を軽く重ね合わせた。
「一生懸命の、努力の形って、人それぞれよ。世界には色んな人がいるんだもの。努力を見せる人とか、努力を隠す人とか……あとは、努力するふりをする人、とかね」
沢はただ黙って、重ねられた橋原の白い両手を見つめている。
「ちなみに私は、そういう嘘も悪いとは思わないわ。私も人並みに、人の評価が気になることはあるし。でも……自分にだけは、嘘、つけないじゃない。だからこそ、自分の納得した方法で、一生懸命やるの。そうすれば、誰がなんて言ったって『自分は本気だ』って胸張れる。そういう風にしている人が、頑張ってる人だって、私は思うから」
そして長い沈黙が落ちた。沢も橋原も動かない。動かないで、たぶん、ただ純粋に、思考している。窓から見える黒い建物たちは、所々から四角に区切られた灯りを発しているが、たった今、その中の二つが連続して消えた。
「そう、っすね。先輩のスタンス、俺、好きです。俺は、今まで色んなことやってきたけど……その全部に本気だったかは、もうわからないけど……でも、本気出さなきゃいけないときに出せないのって……なんか、格好悪いっすもんね」
初めは独り言のように小さな声だったそれは、しかし段々とはっきりした言葉となり。
「だから俺はこれから、自分で自分の一生懸命、探します!」
最後には、沢の右手で握られたささやかな拳にも似つかわしい宣言となった。
「そうね。応援してるわ」
橋原は満足気に、いっそう優しく彼に微笑む。
「ありがとうございます!」
「よし。じゃあ、もっといい顔して、楽しくいきましょう。『楽しく』は君の得意分野よね」
「イエッサー! その通りであります!」
沢は、さきほどまで静かだったのがまるで嘘のように突然立ち上がり、敬礼などしてみせる。
「私、サーじゃないけどね」
その指摘に沢は「あれ? そっか。じゃあ」と首を傾げたが、やがて二人は笑い合いながらテーブルを離れ、部屋から出ていった。きっとそれぞれの仕事に向かったのだろう。橋原につられたのか、沢までがこんな時間からデスクに向かうなんて、僕としては意外だったけれど。
結局その夜、橋原が研究室をあとにしたのはそこから二時間後のことで、沢はそのさらに二時間後に帰宅した。帰り際に僕の様子を見にきた沢の表情は随分と眠そうであったけれども、同時にとても晴れやかであった。
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