Study 6

冬の街:ビジーイルミネーション①

 裏口の開く音がした。足取りはそのままお茶部屋へと向かい、冷蔵庫を秒速で開閉してすぐこちらに歩いてくる。この行動パターンは河村だ。時刻は午後七時。彼はいつもこのくらいに登校すると、真っ先に愛飲のエナジードリンクを手にしてデスクへ向かうのだ。

 彼は廊下で待ち構えている僕に気づくと「おす、シータ」と軽い挨拶を放りながら105号室に通じる扉を開いた。僕は彼のあとに続いて、室内に身体を滑り込ませる。

「おはよーございまーす」

 ガランとした室内に彼の声が通る。すると、目の前に設置されたミーティング用の大きな机にどんと陣取って座る藤林から返事がきた。

「あきらんおはよー」

 応えつつも藤林の視線は、机の上に広げられた複数の雑誌の上を泳いでいる。そのどれもが、この研究室あるいは大学が定期購読している学術雑誌――の懸賞応募に関するページ。藤林はそれらの記事を一心不乱に読み進め、印を付けては手元のハガキに宛先を記入していた。いったい何を企んでいるのか。

 藤林の他に、この部屋は梅田もいたが、もはや彼女は藤林の奇行には興味の欠片もないようで、黙々とパソコンのディスプレイを見つめている。

 河村も、触らぬ神に祟りなしとばかりにスルー。

「沢は?」

「いないよー」と答えつつ、藤林は書き上げたハガキを素早く机の隅に積み上げる。

「あいつ今日もいないのか。なんか最近、全然顔出さないなー」

「ちなみに樋尾先輩は夕飯買いに行ったよ」

「あー……じゃあ夏子先輩でいっか」

 河村がそう言うと、藤林は顔を上げて頬を膨らませる。

「おいおい。何だか知らないけど、本人を前にしてなんて言い草だい」

「まあまあ、そこは気にしないでくださいよ」

 河村は自分の鞄を覗き込むと、何やら指の先ほどの小さな球体を取り出して言う。

「こんなの作ったんですけど、使ってみません?」

「何? これ」

「シータの第二視点カメラです。キーホルダー型になってるんで、何かにつけておくだけで、シータの二つ目のカメラとして機能します。名付けて“シータカメラ・ツヴァイ”!」

 河村の言うその球体からは、一本の紐のようなものが伸びていた。何かに括り付ければ、確かにキーホルダーにも見えるだろう。しかも、あれがカメラとなれば、それはまさしく全天球! 三百六十度が同時に見渡せるカメラだ!

「え? 要するにシータ用の小型カメラってこと?」

「まあそうですね。シータの自立行動のための情報が増やせるかなって。データの蓄積とか処理は全部シータ本体の方でやるんで、結構小さめにできました。あと、夏の学会で沢がやったみたいに、同行してシータに録画させる場合でも、持ち運べる視点があると便利ですし」

「ふーん」

 藤林はカメラを受け取ると指でつまみ上げ、目の前に吊るしてまじまじと見る。

「本当にただのキーホルダーに見えるね。てか、こんなの盗撮用じゃん」

「盗撮するかどうかは使う人間によるんで、機械に罪はありませんよ。あと、前にシータにインストールしたGPSの方も試したくて、こいつとシータ、互いが互いの位置情報を受け取れるようにもしました」

「めっちゃストーキングアイテムじゃん!」

「いやだからそれは使う人の――」

「ちょ、これでりりりんにあげていい!? これで私の可愛いりりりんコレクションがさらに充実する!」

 藤林は興奮した様子で河村に詰め寄る。

 彼はそれを見た途端、すーっと目を細めて冷めた声を出した。

「あ、やっぱり僕、話す人間違えましたね。あと白坂さんには、金輪際、夏子先輩に関わらないように忠告しておきますね」

「あーん、待ってー。それはダメー」

 まるでコントのように身を翻し、河村の腰に縋り泣きつく藤林。あまりにも上級生としての威厳がなさ過ぎる。

 いや、それよりも河村、GPSってどういうことさ。僕が以前に要求したのは落ち葉を華麗にかわすプログラムだったはずでは? インストールしたのはそれとは別のものだったの?

 しかし河村は僕の問いかけには気づかなかったようで、まとわりつく藤林を引き剥がしながら呆れて言った。

「だいたい最近の白坂さん、休日までほとんどずっと実験室にいるじゃないですか。ストーキングしたところで、あれ、帰って寝てまたここに来ての繰り返しでしょ」

「そうだけどー。ちょっと前は同期の子たちとご飯とか行ってたんだってー。もー、なんで私を誘ってくれなかったのかー」

 河村は「むしろなんで誘われると思っちゃったの、ウケる」ともはやどうでもよさげである。

「そんなに卒論やベーのかなー。僕、去年、さすがにあそこまでやった覚えないけど」

 河村が呟くと、それを聞いた藤林もさすがに真面目そうな顔で答えた。

「あれは……そうだね、本当なら沢っちと手分けしてやるところだよね」

「じゃあその沢っちはどこに行っちゃったんですか?」

「私が知るわけないでしょー。まあ、あっちこっちで妙な噂は耳にしてるけどさ」

 藤林は椅子に座り直すと、そのままの姿勢で首だけ後ろに回して尋ねた。

「ねぇアキちゃん。大丈夫なのー? 卒論提出って、年明けたらすぐじゃなかったっけ? もう十二月じゃん? 今日は、えっと……七日、そう七日だよ!」

 熱心にディスプレイから目を離さない梅田。それでも一応、会話だけは聞いていたようだ。

「お前の修論の提出だって、四年の卒論締め切りから二週間ほどあとなだけだろう。人のこと言ってる場合か。それといい加減アキちゃんはやめんか」

「私は大丈夫だよー。ってか、ちょっと前にも私の修論見せたじゃん? そんなに赤ペン入んなかったでしょ? もうちょい直したら伏屋先生や蓮川先生にも見てもらおうと思ってるよー」

 梅田は少し考えたあと、椅子の背にもたれて「ふんっ」と鼻を鳴らす。そうしていかにも気に食わなそうに零した。

「ちゃらんぽらんな性格な割に、時たましっかりしてるから、わからんよお前は」

「いやいやー、アキちゃんの弟子やってて、みっともないことはできんですからなー」

「わからんと言えば、実際、沢のことも私にはよくはわからん。ただ、今回に限っては、今まで勝手にサボりやがったときと違って、毎日メールが入ってんだ」

「メール?」

 疑問を口にしたのは藤林。けれど河村も、同じことを気にしたようだ。二人は揃って梅田の方を見る。

 梅田は面倒そうに目を閉じ、これまで受け取ったメールをそらんじるように口で並べた。

「今日は欠席します。今日は午後三時に一度顔を出します。今日は午前六時まで実験して帰宅しました。って具合に、平日も土日も毎日な」

「へぇー、何それ、変なとこ真面目だね。それで? アキちゃんは珍しく信じてるんだ?」

「こいつが珍しく真面目だからさ。まあそれに、待機命令出して曖昧なまま待たせたのは、むしろ私の方でもある。そろそろ方針を伝えたいんだが、どうにも忙しないんだ」

 梅田は目を開く。そして再びディスプレイを見つめる。そこにはもしかしたら、今話している沢からのメールを開いているのかもしれない。

「ただこいつは、沢は……向かう方向さえ間違わなけりゃ、案外見込みのあるやつだよ。いつも自分の楽しいことを探す気概。いつも自分の好奇心に従う勇気。それは研究者としては、くだらん社会常識や定説なんかよりも、よほど大事なもんだ」

 僕の認識違いでなければ、どうしたことだろう、これは……。

「梅田先生が沢のこと褒めてるの、僕、初めて聞きました」

 河村が感心したようにそう言うと、梅田は小さな舌打ちとともに答えた。

「たりめーだ。本人の耳に入ったら調子に乗るだろ。 私は貶して伸ばすタイプだ」

「けな……え? 叱ってじゃなくて……?」

 後世の才を伸ばす先生としては不安になるようなタイプだ。

 梅田はディスプレイの電源を落とすと「さて、と」と言って席を立つ。

「どしたの? アキちゃん」

「沢のやつが、今日は午後八時に一度、顔を出すってメールで言ってやがるからな」

 それとほぼ同時、正面玄関が開く音に続いて騒がしい足音が聞こえてくる。こんな現れ方をするのは沢しかいない。その音がまっすぐ実験室に向かうのを確かめてから、梅田は狩りに出るライオンのようにあとを追った。おそらく沢は、白坂との打ち合わせのために実験室に入ったのだろう。そこに梅田が混ざると、さて、どうなるか……。

「わっ、ちょ、先生! なんすかいきなり!」

「うるさい! お前こそいったいどういうつもりだ!」

「え? メール届いてないんすか? 今日はこの時間まで用事があって……あ、このあとも用あるんで、すぐに出なきゃなんないんすけど」

「許可できん!」

 早くもどちらかが実力行使に出たのか、実験室からは何か物の落下する音が響く。

「あっはは! その手はもう食わないっすよ! 樋尾先輩は今頃夕飯っすか? 読み通りー!」

 勢いよく扉が開かれ、中から沢が飛び出してくる。そして彼はすぐに扉を閉めると、近場にあった外套用のロッカーを扉に向かって蹴り倒した。ガシャン、と大きな音が響き渡り、結果、ロッカーは扉を塞ぐことになる。梅田は中から出てこられない。

「おい藤林! そいつ捕まえろ!」

 怒声を飛ばしながら、梅田が扉をドンドンと叩く。

 裏口に抜けて出ようとする沢の前に、素早く藤林が回り込んだ。

「おっと夏子先輩。今日は樋尾先輩と夕飯に行かなかったんすね」

「まーあねー」

「夏子先輩は読めないからなー。で、どうします? 俺を捕まえます?」

 尋ねる沢の後ろでは、依然、扉を叩く音が鳴り続けている。

「いやいや、あたしは捕まえないよ。代わりにこれを持って行きなさい」

 藤林はニッと笑うと、手に持っていたものを投げて沢に寄越した。そのとき僕の横で河村が「あ」という顔をする。

「なんすか? これ」

「御守りだよ、御守り」

「……いいんすか? 俺、客観的には卒論提出を目前にバックレようとしてるわけですけど」

「だって主観的には違うんでしょー? あたしは信じて伸ばすタイプなんだよねー」

 そう言うと藤林は、自身の後方にある裏口を示して脇に退いた。

 沢は一瞬、拍子抜けしたような表情を浮かべるが、目の前に開けた道を見ると、すぐに力強い笑みを見せた。

「ありがとうございます! 神様仏様夏子様!」

 そして叫びながら、走って研究室をあとにしていく。沢の足音が聞こえなくなった頃、ずっと口を挟み辛そうにしていた河村が、ようやくおずおずと言った。

「ちょっと夏子先輩。沢に渡したのって、御守りじゃなくてツヴァイ……」

 けれども藤林はあっけらかんと笑うだけ。

「ま、いいじゃんいいじゃん。沢っちが何するつもりか、あきらんも気になるっしょー?」

「いや信じて伸ばすタイプとはどの口が……というより僕は、あいつがツヴァイを壊さないかどうかの方が気になりますよ。まだ試作段階で強度には不安が」

「はいはーい。アキちゃん助けるの手伝ってー」

 その後、藤林は河村と一緒に実験室の扉を塞ぐロッカーをせっせと退かした。

 出てきた梅田は、沢を見逃した藤林にネチネチと文句を言ったが、結局諦めると、その足でお茶部屋の方へ歩いていく。そのままふてくされた顔でテーブルにつき、冷蔵庫の酒を呷り始めた。もう今日は仕事をしないらしい。

 藤林は105号室に戻って自分と梅田の荷物をまとめて持ってくると、梅田の横の椅子に座ってお酌をする。同時に自分も、楽しそうに飲み始めた。

 河村は呆れ笑いをして自分のデスクに向かう。

 忙しい時期ではあるが、それでもブレない皆の様子を見ていると、僕はなぜか安心を覚えた。どうやら当面の心配事は、沢と白坂の卒論くらいらしい。

 白坂は今も実験室で黙々と実験中。

 はてさて、彼はいったいどうするつもりなんだろう。

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