霹靂:ブルースカイ③
少しずつ肌寒い日が増えてきた。道行く人の着る服も、次第に厚くなってきている。それもそのはず。いつしか季節は既に秋、暦は十一月も中頃だ。木々の葉は、ここ数日の冷えた風でみるみるうちに紅く染まり、早々と散り出しては学内の通りをゆっくり覆い始めている。
フィールドワーク中の僕のホイールが、そういった落ち葉に意図せず乗り上げると、つるんと滑ってあわあわすることを最近知った。いきなり方向が変わったり、落ち葉そのものを巻き込んだりして、心臓――もとい
それでも僕が懸命に学内大通りの歩道脇を進んでいると、サウンドディテクタに聞き慣れた名前が届いた。
「そういえば先輩。友達、いるじゃないっすか」
「うん? まあ、友達はそりゃ、何人かはいるけど」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。あの、すげー顔広い人」
「あー、沢のことか」
声の主は二人組の男子学生。おそらくは先輩と後輩なのだろう。うち一人――先輩と見られる方は、以前にどこそこの屋上で沢と昼食がてらの雑談をしていた人物だ。話題はやはり沢のことだったようで、後輩の方が「そうそう」と答える。
「その人が昨日、うちのバイト先に助っ人で来たんすよ。なんでも、前にバイトしてて、店長から声がかかったとかで」
「へぇー、あいつが。でもお前のバイト先、今忙しいんだろ? ちょうどいいんじゃないの?」
「そうっす。その上、怪我人が一人いてシフトスカスカの緊急事態。なんで、今人が増えるのは非常にありがたくて、しかもその沢って人、めっちゃ働くんすよ。僕もまあまあバイト歴長いんすけど、いやー、とても真似できない動きしてましたね」
「あはは。ま、あいつは器用なやつだからなー」
確かに沢の器用さは、研究室の皆からも認められているし、僕も同意できる彼の長所だ。
しかし待て。重要なのはそんなことではない。昨日? 沢がバイトに? そういえば昨日、彼は研究室を昼で抜け出してから、結局帰ってこなかったが……。
僕は詳しい事情を聞けないものかと二人をマーク。通りを歩いていく彼らの、やや距離を取った斜め後方から追跡する。
すると後輩の方が、不思議そうな顔をして先を続けた。
「でも謎なんすよ。その沢って人、バイト代はいらないって、店長に言ったらしくて」
「は? なんだそりゃ」
「意味わかんないっすよね? なんか、代わりに相談したいことがどうとかって、言ってたらしいけど」
「はあ……相変わらずあいつ、よくわかんないことしてんなー」
「そう、かなり謎。スーパー謎。てか先輩たち、そろそろ卒論で忙しいんじゃないっすか?」
「いや、うん……その、はずなんだけどなあ……」
本当にそのはずだよ! ただでさえ今、沢の研究はかなり面倒な事態になってるのに。
「暇なんすかね? その人、一昨日はジャグリングサークルの練習に現れたって、僕の友達が言ってました」
「マジで何やってんだあいつ……今度、ちょっと様子でも見に行ってみるか……」
ちなみに一昨日は、沢が研究室に一切顔を出さなかった日だ。もうまったく、微塵も彼の意図がわからない。そして今日も、彼は研究室にはいなかったはずだ。
自身の研究が理不尽な壁にぶつかってしまったこと、それについては十分に気の毒だと僕は思っていたし、だからこそ心配もしていた。でも、だからといって、投げ出してフラフラ遊び呆けているのなら話は別だ。
僕は小さな憤りにも似た気持ちが芽生えるのを感じながら、話し続ける二人組を見ていた。
彼らはやがて通りの先で一人の女性に話しかけられた。呼び止められたみたいだったが、それでも二、三言葉を交わすと二人は女性から離れ、さきほどと同じように雑談に興じながら歩いていく。「僕、あの人知ってますよ。有名人。めっちゃ美人!」という後輩の言葉を最後に、二人は僕のサウンドディテクタの圏外へと消えた。
僕はもう二人を追わない。代わりに僕が目指したのは、今さっき有名人、めっちゃ美人と評された、すぐそこにいる一人の女性――白坂凛璃。僕は彼女の傍までたどり着く。
しかし非常に険しい表情をしている彼女は、すぐには僕に気づかなかった。
やあ、お疲れ様。
僕はそう声をかけるつもりで、ピコンと小さな合図を送った。
すると彼女はやや驚いた顔をして僕を見た。
「あなた……外、出てきて大丈夫なの」
うん、まあ、少しくらいならね。
本当は、心配されるから研究室の皆にはあまり出歩いているのを知られたくないけれど、それでも今の白坂は、なんだか放っておけなかった。そんな顔をしていたのだ。
僕は励ますつもりで白坂の足元に寄り添ったが、彼女はいつものようにしゃがんで笑いかけてはくれなかった。
「ごめんなさいね。ここじゃあ、あなたとお話しはできないわ」
小さな声でそう言って、僕から距離を取る。そしてまた、道ゆく人に声をかけにいった。
しかし誰も足を止めることはない。先の二人は、比較的まだ話を聞いてくれた方だった。
僕は人目に触れにくい通りの隅に移動し、そこからしばらく、白坂の様子を眺めていた。
陽が傾いた。
いつもは研究室にいるはずの白坂がどうしてこんなところにいるのか。そして彼女は何をしているのか。初めのうちはわからなかったが、それでもさすがに、これだけずっと見ていればわかった。そしてわかってしまったからこそ、白坂の行為は非常に実を結びにくいだろうと、そう僕は想像してしまうし、実際にこの日はその通りだった。
彼女の呼びかけに応えた通行人は一人もいなかった。
普段から感情をあまり表に出さない彼女の、険しく唇を引き結んだ表情は、見ている僕としてもいっそう胸が痛い。
通りに備え付けられた街灯に明かりが灯り、路上には等間隔に明るい円が浮かび上がる。白坂はその中間の暗い場所に立ち、今はもう、ただ俯いていた。
そこへ駆け寄っていく人影が見える。
沢だ。彼はなぜか、どこぞのファーストフード店の制服のようなものを身につけていた。
「本当にいたよ……」
その声を聞き、白坂がゆっくりと顔を上げる。それでもきっと、彼女の視界には沢の首くらいまでしか見えていないだろうと思われた。
「……何よ」
「いや、白坂がここでなんかやってるって、知り合いに聞いたから」
沢は頭に被っていた帽子をとりながら『何やってんの?』と視線で尋ねる。
白坂が少し間を置いてから「これ、集めてるの」と答えると、沢は彼女の手元に目を向けた。
そこには抱えられたたくさんの用紙。そして腕には大きめの布袋が提げられており、中からは様々な種類の光を発生させる機器がいくつか、特殊な眼鏡などが覗いていた。これらは本来ならば、二人が準備していた実験会で、被験者に用いてもらうはずだった用具だ。
つまり、白坂はこの通りに立って、実験会で行うはずだった実験の、その被験者を募っていたのだ。沢はその事実に、薄々は感づいていたのか、それとも今ここで気づいたのか。特に驚いた様子は見せずにただ尋ねる。
「んで、集まったのか?」
白坂は、また少しの間を置いてから、弱々しく左右に首を振った。
沢はこれ見よがしに大きく「はあ」と溜息をついた。
「そりゃあそうだろうな。あの実験は、道端じゃあとても無理だし、せめて座れるテーブルを用意したとしても、まあ最低で二十分くらいはかかるわけだし……そもそも通りすがりに時間潰して、こんなよくわからん実験に協力する人はいないだろ。謝礼配っても厳しい。おまけにビールか商品券付けても厳しい」
「謝礼は……実験会が中止になったから、予算が下りない」
「知ってる」
「でも、実験会中止になったの……私のせいだから」
「は? なんでそうなるんだよ」
尋ねられた白坂は、しかし今度は、しばらく待っても口を開かなかった。
それでも沢は、辛抱強く白坂の前で立って待つ。
暗くなってくると、それだけ通りを抜ける風も冷たくなる。白坂が逡巡の末にようやく発した声音は、そんな風に攫われてしまいそうなほどにか細かった。
「ちょっと前に、白坂の親戚同士で集まる席があって」
「……親戚?」
突然出てきた脈絡のない言葉に、沢はやや疑問の表情を見せた。
「うん。そのときに言われたの。学業の方は順調ですか。無事卒業はできそうですかって」
「……いや……普通、じゃね」
「ううん、違う。あからさまに嫌味っぽかったのよ。それに、あとから影で話してるの聞いちゃって……邪魔してやったって、言ってたから」
「邪魔って、どういう意味だよ」
尋ねられた白坂は、視線を左の下方へと流した。言いにくそうに先を続ける。
「私たちの実験会を邪魔した電話の相手……あの企業は、調べたらどうやら、うちの研究室をよく思っていないどこかの大学の研究室と繋がってて、白坂の親戚がそれに裏から乗っかったってこと。たぶん差し向けた本人たちは、ちょっとちょっかいかけた程度のつもりだろうから、面白半分なんだと思うけど」
「な……そんなことできるのかよ」
「まあ、できるんじゃない。相手や内容は選ぶ必要があるでしょうけど……家の名前、使えば」
家名を使って企業から手を回させ、大学の行事に影響を出す。行事と言っても小さな研究室の小さな実験会だが、本当にそんなことが可能なのかどうか、通常であればやはり疑わしいところだ。それでも、白坂の声のトーンには否応なしの現実味があった。しかもこの地域においての話であれば、白坂の家の存在は極めて大きい。
沢も、朧げながらそのあたりの事情は知っている。だからこれ以上は疑わない。ただ、疑問そのものはまだあるようだった。
「できるんだとして、でもじゃあ、なんでそんなことするんだ」
白坂は依然、視線を落としたままで言う。
「うちって古い家だから、本家とか分家とか、色んなしきたりみたいなのが一応あるんだけど、そういうのが気に食わない連中もいるのよ。私、本家にいるし……要するに私の失態は親の失態。私の両親が私に何の関心もなくても、それでも、繋がりは親子だから」
だから親を貶めるために子供の卒業を邪魔する。そういうことだろうか。
沢は黙ったままで先を促す。
「私の父は、次男で家を継いだの。そもそもそこに納得いってないって人が、たぶん一番多いわ。でも、父の兄――叔父は叔父で変わり者で、若い頃に家を出て、結婚もしなかった。その他にも、事情はいっぱいあったらしいけど」
「叔父さんは……前に言ってた例の、研究者だった人か」
「そう。そんなだから周りから、落伍者の血筋だとか、陰口言われることもあって……しかも結局、一人娘の私も、その叔父さんと同じ学部に来ちゃったわけだしね」
そこまでの説明を、沢はただ無表情で聞いていた。やがて白坂が口を閉じると、彼はその顔を意地悪く歪めて「ほえー」と零す。
「いやいや、なんつーか、さすが旧家名家だな。親戚同士の争いのために会社まで使ったり、しきたりとか血筋とか、俺にはまったくわからん世界だ」
両手を広げて肩を竦め「言っておくが嫌味だぞ」とまで付け加える。それは彼らしいと言えばらしい、軽薄な感想のお手本のようでもあった。そして沢は、その感想に何か言い返される予定でも立てていたのだろう。しかし実際にはそうはならなかった。
白坂はその白い頬に、ただ一筋の涙を流したのだ。
それを見た沢は飛び上がるようにぎょっと驚き、慌ててあとから言葉を重ねる。
「お……おい。待てよ。何も泣くことないだろ。こんなのただの、そう、ただの軽口だって」
そうだ。こんなのいつもの沢の軽口だ。普段の白坂ならば、ムッとしつつもさらにきつい言葉を沢に見舞ってやっただろう。
でも今は、それができない。それほどに今の彼女は弱っているのだと、僕はわかった。
あまりに想像に反した白坂の態度に、沢も頭を冷やしたらしい。調子を狂わせたように、居心地悪そうに視線を迷わせたのち、小さな声でこう言った。
「……悪かったよ」
両手の塞がった白坂は無理に涙を拭うことはせず、しかし意地だろうか、それ以上の涙を流すこともなかった。そうして彼女の?の上に残った線は、街灯から降る光を淡く神秘的に跳ね返す。彼女は緩く首を振りながら答えた。「ううん、いいの」と。
「いいのよ。だって私も思うもの。本当、くだらないって」
声はわずかに、ほんのわずかに潤んでいる。
「くだらないわ。何度でも言ってやる。心底くだらない。本家とか分家とかしきたりとか、家の面子とか血筋とか、そんなくだらないことのために、私自身がこんなことになっているのが、私は……すごく悔しいの。私の中に流れているのは、落伍者でもなんでもない、他の誰でもない私の血。誰がなんて言ったって、私が選んだこの道が、私の道。家業から外れているからなんて理由で、軽く見られて邪魔されるのは我慢できない。だけど……」
彼女は必死に平静を装った声を絞り出す。
「だけど、それでも……この件に関しては、私の事情があなたを巻き込んだわ。だから、これは私のせいなの。せっかく二人で頑張ったのに……ごめんなさい」
そして最後に頭を下げた。
辺りはいつの間にかもう真っ暗で、通りを歩く人は急激に減っていた。
沢はただ、目の前で深く深く腰を折る白坂を見た。しばらく何も言わなかったが、やがて直立のまま空を仰ぐ。
「ま、難しいことはよくわかんねーけど単純に、俺は全然悪くないのになー、とは思ってるよ」
また沢はすぐそう言うことを……と僕は思う。しかし彼はすぐに続けた。
「でもそれは、白坂だっておんなじだろ。今の白坂の話が全部本当だとしても、それでも白坂凛璃は悪くない。だから、謝るなよ」
まるで暗い空に吸い上げられていくような、とても落ち着いた声音だった。白坂はハッとした表情で身体を起こす。まさかそんなことを言われるなんて思っていなかったのだろう。
沢はゆっくりと視線を戻すと、再び彼女を、その瞳をじっと見つめた。
「白坂はさ。俺がもう、全部嫌になって投げ出したと思ってるのかもしれないけど……それ、ハズレだぜ。ここで諦めたら、むちゃくちゃ寝覚め悪いからな」
白坂は呼吸も忘れ、呆気に取られたように動かない。
「色々喧嘩もしながらだったけど、それでもせっかく、ここまで一緒にやってきたんだ。だから俺は、是が非でも卒業する。いいか、二人で一緒に卒業するぞ」
正直なところ、僕も半分くらい、沢は既に今年の卒業を諦めたかもしれない、なんて感じていた節はあった。けれども今の彼の言葉を――静かで真剣で、それでいて力強い沢の言葉を聞いたら、そんな想いは飛んでいってしまった。それは沢が以前、学会の日の夜に語った、軽口でも建前でもない本音、心からの声だ。
彼の本気を、白坂も確かに感じたのだろう。大きく息を吸い込むと、思わず顔を歪ませてまた涙ぐむ。
「ありがとう。でも……」
嬉しさからの涙。
けれどやはり現実は、現状は、白坂の抱える紙の束が示す通りでもある。
沢はそれを前にしてなお、彼らしいとても快活な声で言う。「目算があるんだ」と。
「被験者、ざっと六百五十人。上手くいけばもう少し、八百人くらいまで見込める」
「……どういうこと?」
白坂がきょとんとする。
「だーかーら、俺がここ最近、研究室に行ってなかったのは、別に遊んでたわけじゃねぇってこと。これも作戦の一環なの!」
沢は少しだけ顎を持ち上げ胸を張り、自身の身につけるファーストフード店の制服を強調するように引っ張って見せた。白坂の抱える束を視線で指し、さらに続ける。
「俺が集めるよ、そいつの回答」
「え、だけど……」
「ただその場合、代わりに白坂には、研究室での実験で負担をかけることになるかもしれない」
白坂はそれを聞くと、ふるふると目一杯に首を横に振る。
「そ、そんなの、全然構わないわよ。これが全部集まるんなら、そんなに、そんなにいいことはない。けど、どうやって――」
そのとき沢のポケットから電子音が鳴った。
「あ、やべ、俺そろそろ休憩時間終わるわ」
タイマーか、あるいはバイト先からの連絡だろう。沢は慌ててスマホを取り出し、手早く操作をすると踵を返した。
「よし、じゃあ決まりな。詳しいことはまた連絡する。あ、それと、梅田先生が何か言い出したとき説得するのも、白坂の役目ってことで」
彼は駆け出し、走り去っていく。
白坂はその背をずっと、遠い交差点の向こうに消えるまで見つめ続けた。用紙の束を抱える両腕に力を込めると、やがてゆっくりと瞼を下ろす。そこから再び煌めく涙滴が流れ落ちた。
僕は元来た道を戻り始める。彼女の浮かべた静かな笑顔を、最後に見て。
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