第2話 記憶なくしてません


 秋晴れが気持ちのいい始業前。教室で着席した私は、後ろの席の市井いちい公介こうすけに声をかけられた。


志津本しづもと、お前昨日のことちゃんと覚えてる?」


「は?」


 意味のつかみづらい質問に、私の指からシャーペンがこぼれ落ちた。


 ――昨日って何かあったっけ?


 ハテナマークが浮かぶ中、市井は質問を重ねてくる。


「一時間前のことは? もしくは三分前とか。ちゃんと覚えてるか?」


「はぁ? 赤点常習犯の私でもそのくらい覚えてますけど」


 私のいらだちはなぜか叱責しっせきに撃退された。


「おい、世の中には記憶障害やアルツハイマーに苦しむ人がいるんだぞ、軽率なこと言うんじゃない」


「え、ごめんなさい」


 なんで私が謝ってるんだっけ? と困惑したところで、今度はため息が飛んでくる。


「かわいそうな志津本。やはり悲劇のヒロインにはなれなかったか……」


 ちょっと待って、なんか知ってる。このセリフ、聞き覚えがある。


 そろりと市井の机に目をやると、そこには今日も本の山。その頂上にパステルカラーの可愛い表紙。タイトルは


『君が僕を忘れても、僕が君を覚えているから』


 おそるおそるひっくり返した裏表紙には


“――ある日学校から抜け出し土手で昼寝をしていた僕は、白いワンピースの不思議な少女と出会う。学校に居場所がない二人は徐々に心を通わせる。しかし少女には秘密があった。「私、記憶が三日しか残らないの」――君が記憶を失っても、僕は君を失いたくない。記憶と想いをつなぎとめる感動のラブストーリー”


 ずずっと鼻をすする音に顔をあげると、うるうると光る市井の細い目が。


「それ、最近一番泣いた小説なんだ」


 確かに本の帯にも“最高に泣ける恋!”とデカデカ書かれている。こういう帯、前にも見たことがあるような気が……。


「というわけで志津本、記憶をなくそう。これでお前も悲劇のヒロイン……あっ!」


 カッと目を見開いた市井。


「も、もしかして……実はもう志津本の記憶はなくなってるんじゃないか? お前が気づいてないだけで」


 あ、ダメだ。こいつの目、またどこかにイっちゃってる。


「“志津本翠、高校一年生。ある暑い夏の日、彼女は事故で意識を失う。目覚めた時には昨日のことも思い出せなくなっていた”」


「やーめーろー! また勝手な物語を作るな!」


 グラグラと肩を揺さぶるが、もはやこの男の意識がここにないことを確認しただけだった。


「そしてその志津本を支える後ろの席の俺! 親切な俺は志津本の支えになるが、それを彼女は覚えていない! かわいそうで優しい俺!」


 ほぉっ、と彼は淡くため息をついた。


「やっぱりこういうの憧れる……!」


 だから頼む! と市井は私の腕をつかんだ。


 市井の肩を揺さぶる私と、私の腕をつかむ市井。もはや取っ組み合いである。


「志津本、俺のために記憶喪失になれ! お前が悲劇のヒロインになれば俺が」


「ア、ホ、かー!」


 最後まで言わせてたまるか。私は市井の脳天に頭突きを喰らわせた。


「ぎゃあぁぁぁぁ!」


「おお!」


 成り行きを見守っていた男子どもの一糸乱れぬスタンディングオベーション。


「さすが女子サッカー部のエースストライカー!」


「日本代表クラスの石頭!」


 やんやと騒ぎウェーブを作る男子どもを無視して、机にしずんだ市井を見下す。


「残念ですがちゃんと記憶ありますから。昨日の夕飯のメニューも先週出された宿題のこともあんたが“ライト文芸オタク”なことだって、ちゃんと覚えてますから」


「あっ!」


 唐突に叫んで市井が顔を起こす。

 死んだ魚のような目線が私にすがった。どうした、さっきまでうざいほどキラキラしてたのに。


「す……数学の宿題のこと忘れてた」


 「あっ」「しまった」「やべっ」と周りの男子も輪唱を始める。


 あぁ、なるほどね。ふふんと鼻を鳴らしてあごをあげた。


「えー市井ったらさっき私に言われて宿題のこと思い出したんだ? もしかしてあんたの記憶力の方があやしいんじゃなーい?」


 ぐぬぬぬぬぅ、とうめくだけで市井は言い返せない。数学の教師は宿題忘れに厳しく、しっかり終わらせて提出しないと別の課題で追撃してくる。


「市井くーんだいじょーぶですかぁ? 提出期限は今日ですけどぉー」


 数学のノートをチラつかせてここぞとばかりに市井をあおる。ひょいひょいと揺らしてみれば、やつの視線がそれを追った。ウケる、お腹すかせたこいみたい。


「まぁ、この志津本様が貸してあげてもいいですけどぉ?」


「ぐぐぐ……赤点JKのくせに!」


「何か言った?」


「言ってません! 神様、仏様、女子サッカー界のメッシ様、どうかこの憐れな男にノートを貸してくださいませ」


 よかろうと大仰にノートを差し出すと、市井はうやうやしく受け取り必死に答えを写し始めた。


 やっとアホから解放されたとノビをしていると、


「おーい、みどり


 廊下から別の男に呼ばれた。


 隣のクラスのまき蒼太そうたが教室の扉に寄りかかり手招きしている。よく焼けた肌と坊主頭という野球部員のテンプレに、鼻筋の通った女子受けする顔面が特徴の私の幼なじみだ。


 蒼太は紙袋を突き出している。


「翠、また弁当忘れてる」


「やばっ!」


 そうだった、お母さんに渡された弁当の包みを玄関に置いたままだった。


「ごめん蒼太。持ってきてくれたんだ」


「お前のかーちゃんに頼まれて仕方なく。ったく、忘れ物すんの今年で何回目だよ」


 さーせん、と運動部らしく深々頭を下げると、その頭をこつんと小突かれた。気を付けろよ、と言い残して蒼太は自分のクラスに戻っていく。


 いやぁでもよかった届けてもらえて。腹が減っては部活ができない、ってね。


 ほくほくしながら席に戻ると、じっとりとした視線が待ちかまえていた。


「志津本、お前さ……」


 市井が私のノートをかかげている。


「これ、答え全部間違ってるぞ」


「え!?」


 そんなバカな!


「お前公式自体を間違えて覚えてるんだよ。だから解答は全滅。宿題は壊滅。ご愁傷様です」


 市井がニヤリと笑う。


「公式も覚えられない、弁当も忘れちゃう――やっぱりお前、記憶喪失のヒロインなんじゃね?」


 やめてー!


「私、悲劇のヒロインにはならないんだからー!」

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