第二部 第3章 やっぱりお前か!

「運ちゃん、色々参考になったよ。ありがとう。釣りは要らんから」

 茶色の紙幣を1枚差し出す。

「いえいえ、お金は丁度でいいです。その代わりサイン頂けますか?実は娘が松浜さんの大ファンでして」

「ああ、そうか。それはありがたいな。じゃあ100枚書こうか?」

「それは無理でしょ?」

 タクシー運転手が間髪入れず答えた。

「そうだよな、流石の切り返し。おい、おっさん、この辺を見習っておけよ」

「あ、はい」

「引退されるんでしょ?さっきホテルの前で言ってましたよね?これって芸能生活で最後のサインになりますよね?下世話な話、ある意味プレミアになるかなぁと思いまして」

「流石は抜かりないな、運ちゃん。そう来ないとな。おっさんもこの位の気持ちを持てよ。少しくらい図々しくても命まで持ってかねぇだろ?」

「いやぁ、私の性分的には少しハードルが高いですが」

「あ、忘れてた。おっさんの存在自体がプレミアだったな、あっ違った、ガラパゴスか」

「どういう意味ですか?」

「まぁいいや」

  夕は会話をしながら運転手の差し出したノートとボールペンでさらさらとサインを書いている。

「サインとスマホの写真があれば最後って事が分かるよな、おっさん」

「そうですね。では、私が写真を撮りましょう」

「何言ってんだ?3人で撮ろうや」

 夕は運転手のスマホ片手に自撮りした。

「ありがとうございます。いやぁ、初めてタクシー運転手しててよかったと思いましたよ。お代をチャラにしたいところですが、事務方に叱られるのできっちり頂きます。これから頑張ってくださいね。応援してます」

「お互いにな。ありがとうよ」

 運転手は帽子を取り、軽く会釈してタクシーを走らせその場を去っていった。


 二人は黄色いビートルを乗り捨てた辺りを散策する。が、何故か見当たらない。

「歩道橋先の、この辺なんですけどねぇ。車を置いた場所は。私が落ちたあたりですので。」

「夕方だったし、俺にはよう分からけど」

 すると、何やら口論している声が耳に入って来た。聞き覚えのある声、後ろ姿が見えて来た。

「だから、駐禁じゃねぇだろうが!」

「またあいつだ」

 でかい図体と聞き覚えのある太い低音の主は桜田だ。夕は思わず目隠しする。慌てて人だかりに駆け寄る。

「桜田!今度は何だよ、朝っぱらから!お前、ちょいちょい出てくんなぁ」

「あ、夕さん。おはようございます」

「おはようじゃねぇんだよ、桜田!また人様に迷惑かけてんのか?」

「ち、違いますよ」

 傍らには黄色いビートルが佇んでいる。

「夕さんにスマホを届けた後、此処に戻って来たんですよ。そしたら、こいつらがレッカー車で運ぼうとしてたもんで」

 自動車の管理会社JACの職員らしき2人が腕組みしている。

「したもんで、ってそりゃ昨日の夜だろ?」

「そうですよ」

「今まで何してたんだ?桜田」

「ずーっと此処で待ってましたが」

「待ってた?お前、夜中寝たのか?桜田」

「いえ、寝てませんけど」

「はぁ?お前やっぱりばかだな。何してんだよ、桜田ぁ~」

「ですけどね、どの道此処に戻ってくるんだろうなぁと思いまして」

「そりゃそうかも知れんけど、ずーっと此処に居なくても良いだろうが。それ位分かんだろうが、桜田!」

「まぁまぁ、夕さん。ここは桜田さんのご好意を汲みましょうよ」

「わかってるよ!でも、ばか過ぎんだろ」

「すみません」

  桜田はしょぼんとしている。JACの職員は半分呆れている様子だ。

 聡志がその職員に事情を話すと、相手方も分かってくれたようでその場を引き上げて行った。

「よかったですね、夕さん。事無きを得ましたよ。桜田さんのお陰ですよ。ここはお礼を言いましょう」

「う~ん、ありがとな」

 物凄い小声で礼を言う。その頬は幾らか赤くなっている。

「それ程の事でも」

片や桜田はデカい図体で頭を掻いている。

「って、お前ばか過ぎんだよ!桜田!まったく」

 桜田の脛を蹴り上げたが、聡志は素直になれないでいる夕を見て少し噴出した。

「おっさん、いま笑ったろ?」

「いえ」

 真顔で答えてはいるが、言った傍から笑いが禁じえない。

「何なんだよ、お前ら!しょうがねえなぁ、あはは」

 通行人たちはなぜ朝から笑ってんだろう、と不思議そうにその場を通り過ぎていた。

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