7
「……」
「……」
けれど、思いとは裏腹にすみれの口はそう言ったきり動かなくなってしまった。すみれが止めたために田屋も口を閉じてしまって、見つめ合ったまま無言が続く。その間も頬を伝う涙は止まらず、田屋はまた少し困ったように笑って何度もそれをぬぐってくれた。
田屋にそんな顔をさせるためにこの涙は流れているわけじゃないのに、気持ちに反して声にならないことがもどかしくて、思うように伝えられない歯がゆさが募る。
「――す、すみれさん?」
そのとき、それなら、とすみれは思った。
田屋の手を両手でそっと包み込み、すみれの顔なんて簡単に覆ってしまえるくらい大きな手のひらに自分の頬を寄せる。その瞬間、田屋の手がピクリと動いたけれど、すみれは構わず手のひらに頬を寄せ続けた。田屋の手の温かさが体中に巡ってまた涙がこぼれていったけれど、これなら伝わってくれるかもしれない。
声にはならなくても、なかなか言葉にはできなくても、すみれのこの精いっぱいの行動がそれらの代わりになってほしいと、そう思う。
「すみれさん」
「……私、嬉しくて。田屋さんを困らせたいわけじゃないんです」
「はい」
やがて田屋に優しく名前を呼ばれて、すみれも少し言葉が出るようになってきた。
すみれのペースに合わせてくれているようで、田屋が柔らかい口調で打ってくれる相づちも重なり、徐々にではあるけれど心に冷静な部分が戻ってきたらしい。
すん、と鼻を鳴らすと、すみれは頬にある田屋の手を下ろし、自分の膝に置く。
「私こそですよ、田屋さん。私のほうこそ、田屋さんが好きで好きでたまらないです。どうしたら田屋さんに好きになってもらえるだろう、どうやったらもっと田屋さんと話せるだろうって、恥ずかしいですけど、私の頭の中はそんなことばっかりです。そのくせ勇気がなくて、なかなか気持ちを言葉にできないでいました。こうして田屋さんに言ってもらってやっと私も言っているんですから、ずるいって思われても仕方ありません」
もうひとつ鼻を鳴らして、すみれは続ける。
「さっき田屋さんは、私はどんなことにも手を惜しまないって言ってくれましたけど、イギリスのグランマがまさにそんな人でした。日本の祖母も旬の食べ物や季節の行事をとても大事にする人で、私はそれを引き継いでいるに過ぎません。もちろん私にできる精いっぱいの手はかけますし、料理も庭の手入れも大好きだから、自然と手間をかけるようになっていったんだと思います。……けど、もし田屋さんがそんな私を好きだって言ってくれているなら、ちょっと誤解しているかもしれないなって思うんです」
「誤解、ですか?」
不思議そうに聞かれて、すみれは、はいと頷く。
「……だって私、いつの間にか田屋さんに会いたいから図書館に通うようになっていたんです。おすすめしてもらった野草で料理を作っていたのだって、会いに行く口実みたいなものです。田屋さんのことを好きになってからは、一緒に出かけられるだけで嬉しくて、でも、もっと田屋さんのことが知りたい、私のことも知ってほしいって、どんどん欲張りになっていきました。だから、純粋にフィールドワークを楽しむためだけじゃなかったんです。今日だってそうです。田屋さんを好きになってから、ずっとそうです」
「すみれさん……」
「ほら、ずるいんですよ、私。すごく欲張りだし、それに際限なんてありません。でも、田屋さんがこんな私でもいいって、そう思ってくれるなら――」
そこまで言って、すみれは田屋の目を真っすぐに見つめた。
いったんは止まりかけた涙がまたこみ上げてきて、心臓もバクバクと暴れはじめる。けれど、自分の口でちゃんと言わなきゃと、すみれは気持ちを奮い立たせる。
田屋に言わせて自分は返事だけだなんて、できるわけがない。
「――田屋さん、私と付き合ってくれませんか?」
しっかり言いきり、すみれは少し目を瞠った田屋の返事を待つ。
野草料理やフィールドワークは純粋に楽しむだけじゃなかった。田屋に会いたくて図書館に通っていた。これまでだって今日だって、田屋の嬉しそうな顔が見たくて、喜ぶ顔が見たくて手間をかけた。それには、失敗して無駄にするくらいなら、との思いから〝自分の手に負える範囲で〟という括りはあったけれど、でも、確実に背伸びはしていた。
それを言わないままでいるなんてできないし、言わないまま付き合うなんてもっとできない。今の話を聞いて、田屋が自分が思うすみれの姿とは違うと感じたとしても、これが本当のすみれだ。だから、知った上で自分を選んでほしい。すみれは心からそう思う。
「ははっ。正直に言いすぎですよ、すみれさん」
すると田屋はなぜか急に笑いはじめた。
すみれのほうとしては、田屋が誤解しているならそれを解きたい一心でのことだったけれど、ひょっとして田屋の言うとおり正直すぎたのだろうか。だからといって、どうして田屋が笑うのかわからなくて、すみれは目をぱちくりさせてしまう。
そんなすみれを見てふんわりと口元に弧を描いた田屋は、すみれの手を自分の両手で優しく包み込むと、ほっとしたようにひとつ、息をつく。
「これまでの全部、僕のためだったらいいなって、ずっと思っていたんです。よかった、僕だけがすみれさんと会いたかったり、話したかったりしたんじゃなくて」
「……え?」
「ずるいのは僕も同じ、ってことですよ」
聞き返すと、田屋はそう言って、またふんわり笑う。
「すみれさんが図書館に来てくれるように野草料理の本を紹介したり、すみれさんと出かけたくてキャンプに誘ったり、秋の味覚を口実にフィールドワークに連れ出したり。そんなの全部、すみれさんが好きだからですよ。僕のほうにだって、純粋に野草を楽しむためだけじゃない理由があったんです。……今だってすみれさんを抱きしめたくて仕方がなくて、どうにかして抱きしめられないかなって、ずっとその理由を探しているくらいです」
そして、欲張りなのは僕のほうが上みたいですね、と弱りきったように笑う。
「……ぷっ。ふふふっ」
「笑わないでくださいよ。これでも必死に抑えてるんですから」
「ごめんなさい。でも、かわいくて」
「ええ? こんな大柄な男に言う言葉じゃないですよ」
田屋は不服そうに言うけれど、だってかわいいから仕方がない。失礼なのはわかっているものの、それ以外に言葉も浮かばなくて、田屋がこんなふうにかわいい姿を見せるのは自分の前だけなんだろうなと思うと、ただただ、愛しい気持ちが込み上げてくる。
「じゃあ、私も同じです、って言ったら、理由になりますか?」
すっかり拗ねてしまった田屋に笑って聞いて、すみれは田屋を見つめる。
理由ならすみれにだって作れる。すみれも田屋に抱きしめてほしいし、抱きしめたい。もうお互いに触れ合うことに躊躇はいらないはずだ。いちいち許可を取る必要なんて少しもないし、もっともっと欲張ったっていい。すみれはそれに全部応えたい。
「……すみれさんは相変わらず反則ばっかりだなあ」
すると、そう言って笑った田屋がすみれの体を優しく抱きしめた。その瞬間、服から香る柔軟剤の匂いがして、それに混じって田屋の匂いもした。
田屋の背中に腕を回すと手のひらや腕から体温が伝わって、すみれの体にしみ込んでくるようだった。温かいというより熱いくらいのそれは、きっと田屋がすみれを想う強さと比例している。
「ずっと、こうしたかったです」
「私もです」
肩口で囁かれ、すみれも同じだと返すと、田屋の抱きしめる力が徐々に強くなって、すみれは少し苦しい。でも、そんなのはどうでもいいくらいに嬉しくて、幸せで、こんなに満たされた気持ちになるのは初めてだと思うほどの多幸感がすみれを包む。
「すみれさん」
やがてゆっくりと体を離した田屋は、切なげに瞳を揺らしてすみれの名前を呼んだ。田屋がなにをしたいのかわかったすみれは、はいと答える代わりに目を閉じる。すると田屋の両手がすみれの頬を包んで、すみれも田屋の両手に手を添えた。
そうすると田屋が少しだけ息を飲んだ気配がして、直後、温かくて柔らかい感触がおでこに当たり、両まぶたに、鼻に、最後に唇に触れて離れていった。
目を開けると間近に田屋の顔があって、目が合うとどちらからともなく笑い合う。おでことおでこをくっつけ合えばまた自然と笑みがこぼれて、嬉しいやら恥ずかしいやら、すみれは感情が忙しくて、笑ったまま何度目かもわからない涙がこぼれていく。
「……しちゃいましたね」
「ふふ。しましたね」
ふたりで同じことを言えば、ふわふわと夢見心地だった感覚が現実味を増していくようだった。見つめ合うとよりそれが増して、改めて、キスしたんだなと思う。
「すみれさんのこと、ずっとずっと、大事にします」
「はい。私もずっとずっと、大事にします」
このときすみれは、自分に魂の片割れがいるのなら、それはきっと田屋に違いないと強く強く思った。そして、田屋も同じだったらいいなと心から願った。
*
「そういえば、どうして今日だったんですか?」
それから少しして、そこまで送ってくるね、とみんなに断りを入れて田屋と一緒にたちばな荘の外に出たすみれは、ふと思い出して隣を歩く田屋にそう尋ねた。
みんながくつろいでいる居間に戻るなり、田屋が「すみれさんと付き合うことになったから、これからは僕のすみれさんでもあるからね」と宣言して、みんなから「おめでとう!」「ふたりともよかったネ!」と盛大に祝ってもらったあとのことだ。
特に打ち合わせていたわけではなかったけれど、みんなに報告するなら今日のうちがいいと思っていたすみれは、それでも田屋の突然の宣言に、もしかしたらみんな以上に驚いたかもしれない。しかも〝僕のすみれさんでもある〟だなんて、ひょっとしたら田屋は付き合うと独占欲がけっこう強めになるのではないだろうか。
とはいえすみれも、みんながあんまり〝ミノル、ミノル〟と田屋にかまうとやきもちを焼いてしまう自信はたっぷりあるのだから、お互いさまといったところだろう。体中から火が出そうなほど照れながらも、すみれは田屋に独占欲を向けてもらえる嬉しさを噛みしめながら、みんなからの祝福に精いっぱい笑って「ありがとう」と返した。
「ああ。告白するなら、って話ですか?」
聞かれてすみれは、はいと頷く。
季節のイベント事でも暦の上でも、今日は特別〝なにかの日〟というわけではなかったはずだ。田屋がたちばな荘に来てくれるとはいえ、それだって里山で収穫した秋の味覚たちがなくなる前に行く、という約束をしていたからではないだろうか。
「見てください、すみれさん。きれいな満月です」
すると田屋はふと足を止めて真上を向いた。すみれも同じように空に目を向けると、白く輝く満月が辺りを照らしていて、田屋の横顔にも柔らかな光を注いでいた。
「十五夜ではないですけど、今日はちょうど満月なので。思い返したとき、そういえば付き合いはじめた日は満月がきれいだったなって、ひとつでも多くふたりの思い出に残るようにしたかったんです。……まあ、満月にかこつけて、奇跡的なものが起きないかなって気持ちのほうが大きかったですけどね。でも、奇跡が起きてくれて、ほっとしてます」
「そうだったんですね」
田屋がそこまで考えてくれていたとは思いもよらず、すみれは改めて自分を想ってくれる田屋の気持ちの大きさに胸がいっぱいになる。こんなにも想いを寄せてくれる人が今日からは自分の恋人だなんて、すみれは間違いなく世界一の幸せ者だ。
「曇ったり雨が降ったりしたら、どうしようかと思っていましたよ」
「ふふ。どんな天気でも今日は特別な日に変わりないじゃないですか」
「そうですけど、格好つけたいですよね」
「いつも格好いいのに?」
「そんなこと言うと、このまま連れて帰りますよ」
「!」
本気半分、冗談半分の口調で言われて、すみれはとっさの返事に詰まってしまった。どうやら、あんまり茶化すと何倍にもして返されてしまうらしい。
とはいえ、田屋はたちばな荘のみんなになにも言わずにすみれを連れていくなんてことは、絶対にしないしあり得ない。大事にしてくれているのはすみれだけじゃなく、みんなのこともだ。だからこそ田屋はすぐにみんなに付き合うことを報告したのだろうし、みんなも自分のことのように喜び、おめでとうと祝福してくれたのだろう。
「本当に連れて帰りたくなっちゃうので、ここでいいですよ」
「ふふ。わかりました。……じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そうして田屋は、バックパックを背負い直すと名残惜しそうにすみれの頬をひと撫でして帰っていった。すみれだってもちろん、田屋が帰るのはすごく名残惜しいけれど、これからはもう会う理由を探さなくても会えるのだから、じゅうぶんすぎるほどだ。
これから秋が深まるにつれて終わりを迎える野草のシーズンも、フィールドワークには向かない冬も、春を待ちわびるだけじゃない。会いたいときに、いつでも会える。
「ほんと、きれいな満月……」
ぽつりとつぶやいて、すみれはゆっくりとした足取りでたちばな荘に引き返す。
中ではきっと、みんながすみれが戻ってくるのを首を長くして待っているはずだけれど、あとほんの少しだけ、もうちょっとだけ、この余韻に浸っていたい。
「質問攻めにあっちゃうかな」
その予想は的中して、たちばな荘に戻るなり、すみれは今か今かと帰りを待っていたみんなから質問攻めにあってしまう。それにひとつひとつ答えながら、けれどすみれは、この嬉しい悲鳴も田屋がみんなを大事に思ってくれていることの証明だなと思う。
そうじゃなかったら、みんなの顔がこんなにも幸せそうなわけがない。
――その日、たちばな荘は夜遅くまで明かりが消えなかった。賑やかで明るい笑い声がいつまでも響いて、その中心には、花が咲いたように笑うすみれの笑顔があった。
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