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すみれの名前を口にしたあとは呆気に取られたように言葉が出ない様子の田屋に続けざまに言って、すみれはやっと、ふーっとひとつまともに息をつく。
聞きたいことは聞けたし、ずっと胸にあった気持ちも吐き出せた。これまでも今日も田屋ばっかり楽しいわけじゃなかったことは、これでちゃんと伝わっただろうか。
どうだろうと思いながら、ハンドルを握る田屋に目を向ける。
十月に入ってみるみる日が落ちる時間が早くなり、まだ午後五時を過ぎたばかりだけれど、辺りはすっかり暗くなっていた。西の空の低い位置にほんの少しだけ太陽の色が見えるだけで、それも刻々と迫ってくる夜の色に今にも押しやられてしまいそうだ。
「……ありがとう、ございます」
やがて、田屋が途切れ途切れにそう口にした。
どれくらい田屋は黙ったままだっただろう。何台も対向車とすれ違って、そのたびにすみれはヘッドライトの眩しさに目をつぶっていた。ちょうどまた対向車が来ていて、そのタイミングで「いえ」と小さく言って、すみれは前に向き直る。
硬い声にならないように、できるだけいつもどおりの調子を心がけたけれど、どこまでそうできていたかは、すみれにはわからない。けれど田屋の声は少し震えていて、すみれの思い違いや勘違いじゃなければ、田屋がまとう空気には温かなものが読み取れた。
「僕もすみれさんと同じです。いませんよ、付き合ってる人なんて。というか、いつもなにを考えているかわからないって振られてしまうんです。実際、ぼーっとしていることが多かったですしね。そんなときはだいたい、今度の休みはどこへフィールドワークに行こうか考えていたときだったので、相手は心ここにあらずな僕に呆れて当然ですよ」
「そんな。だったら一緒に趣味を――」
言いかけて、すみれはそのあとの言葉を飲み込んだ。『この趣味は僕だけでひっそり楽しむものだって思っていた』『これまで同じ趣味の人に会う機会がなかった』――ついさっきも前に田屋がそう言っていたのを思い出していたばかりだ。
口を閉じたすみれに、そうです、となんとも言えない顔で頷いて田屋は続ける。
「なにかの拍子で趣味の話になることってあるじゃないですか。同じ男相手にですけど、一度、言ったことがあるんです。そしたら見事に笑われてしまって。なので、付き合った人にこれまで言ったことはありません。もちろん人によるのはわかっていますし、この趣味はきっかけをくれた男の子に出会わなかったら生まれなかったものなので、ずっと大事にしていくつもりでした。……けどそのとき、その子との思い出ごと笑われたような気がして、恥ずかしいですけど卑屈になってしまったんですよね。笑われるくらいなら自分だけでひっそり楽しもうって、そう思ってからは、すみれさんだけです。趣味を話してみたいって思ったのも、こうして受け入れてくれたのも、すみれさんだけです」
「……田屋さん」
「すみれさんがドクダミの葉の天ぷらを作ったって報告してくれたとき、僕がどんな気持ちだったか想像できますか? ちょっとやそっとの嬉しさじゃなかったですよ。ほんと、そのときの僕の胸の中を開けて見せてあげたいくらいです。だから、これからもぜひフィールドワークに誘わせてください。たちばな荘のみんなに――すみれさんに会いに顔も出します。僕のアレンジでよかったら一緒に野草料理も作りましょう。もう僕だけで楽しむものじゃないって教えてもらいましたから、これからは『僕ばっかり楽しくて』も言わないようにしますね。……すみれさんに出会えた僕は本当に幸せ者です」
「……私もです。私も田屋さんに出会えて幸せです」
嚙みしめるように言った田屋に、すみれはそれ以上、言葉が続かなかった。なにか言おうものならうっかり涙まで出てきてしまいそうで、泣きたかったのは田屋のほうなんだから自分が泣くのは違うと、こみ上げてくるものを必死に飲み込む。
図書館で初めて声をかけられたとき、田屋はどんな思いで《食べておいしい野草図鑑》を差し出したんだろう。そう思うとたまらない気持ちになって、とたんにその本に重みが生まれた。そのあとのちょっとしたやり取りも、本を押しつけるようにしてすぐに仕事に戻っていった姿も、これまでの関わりや重ねてきた会話の中、そして苦い思い出を話してくれた今なら、全部とまではいかないけれど、すみれにも感じることができる。
飄々としたように見えて実はすごく勇気が必要だったかもしれないし、すみれが野草に興味を持ってくれて嬉しかっただろう。本を参考にドクダミの葉の天ぷらを作ったと報告したときや、スミレを使ったスイーツを作ったと言ったときも、嬉しそうに笑っていた裏で泣きたくなるほど幸福な気持をぐっとこらえていたのかもしれない。
もしすみれが大学卒業近くになっても自分の進路が決められずにいたとき、よくない言い方をされていたら。最終的にたちばな荘を継ぐことを選んだとき、否定的な声を聞いていたら。きっと田屋と同じように卑屈になってしまっていただろうし、職業を聞かれても胸を張って〝たちばな荘の管理人をしている〟と答えられるか自信がない。
田屋がキャンプの帰りに言ってくれた『自分の進んだ道をこれでもかってくらい誇ってください。――たちばな荘のみんなや、僕のためにも』という言葉に、すみれがどれほど救われ、自分を誇っていいんだと教えてもらったか、田屋には想像がつくだろうか。
それと同じことだとすみれは思う。
すみれに出会えた自分は幸せ者だというその言葉だけで、もうじゅうぶんだ。
「……へへ。なんだか照れくさいですね」
「ですね。顔が赤くなっていないといいんですけど」
「僕もです。……窓、ちょっと開けましょうか」
「はい。お願いします」
ややしてそんなやり取りをしたあとは、これといって会話らしい会話はなかった。
今日採った里山の食材について、どう下処理をしたらいいのかや、どんな料理にしたらよりおいしく食べられるか、味つけの仕方や手間の加え方、保存方法などを教えてもらいながら、田屋が少しだけ開けてくれた窓から入ってくる秋の空気で頬の熱を冷ました。
見慣れた街の景色が見えてくると、そっと窓を閉めた田屋と「そろそろですね」「田屋さんもたちばな荘に寄っていきますか?」「すみません、このままレンタカーを返しに行く予定なんです」――そんな会話をして、それからまた車内は静かになり、窓の外を流れる景色を見るともなしに眺めながら、すみれはたちばな荘に着くまでの時間を過ごした。
「着きましたよ」
ほどなくして、田屋が運転する車はたちばな荘の前に到着した。途中、車の流れが悪くなった時間があって少し遅くなってしまったけれど、晩ごはん作りには問題ない。
もともと今日の予定も下宿のみんなに話してあったため、もしかしたら晩ごはんの時間がいつもより遅くなるかもしれないことは、すでに了承してもらっていた。
そのとき『スミレが一日中たちばな荘をあけるなんて珍しいネ』とか『初めてなんじゃない?』なんて言われたりもしたけれど、誰も渋い顔をする人はいなかったし、むしろ『ニッポンの秋の味⁉』『食べたい食べたい!』『いっぱい採ってきてネ!』と大歓迎で送り出されたくらいだった。みんなからの使命もちゃんと果たせて、これで一安心だ。
「送っていただいてありがとうございました。教えてもらったやり方でみんなにおいしいごはんを作ってあげようと思います。こ、今度はぜひ田屋さんも食べに来てくださいね」
車から降りると、すみれはそう言ってぺこりと頭を下げた。
まだ照れくさい気持ちがあって少しまごついてしまったけれど、思っているだけじゃ伝わらないし、言わなきゃ気持ちもわかってもらえない。田屋の目をしっかり見つめて心からの笑顔も添えると、運転席の田屋もにっこり笑って頷き返してくれた。
「はい。今日の大収穫がみんなに食べ尽くされる前までには、必ず」
「ふふっ、八人もいますからね」
「キャンプのときの食欲から計算して、三日か四日……多く見積もって一週間弱でしょうか。もし早くなくなりそうなときは、ちゃんと僕のぶんも残しておいてくださいね」
「わかっています。田屋さんのぶんだからねって言っておきます」
昼ごはんに作っていったお弁当も夕方のバーベキューも、ものすごい勢いで口に運んでいたみんなの姿を思い出して、すみれと田屋はつい笑ってしまった。
でも、田屋が念を押す気持ちもよくわかる。これから晩ごはんに出すのは、採れたて新鮮、里山の秋尽くしの料理だ。さすがに量があるから、いくらよく食べるみんなでも一度では食べきれないけれど、なくなるのは時間の問題かもしれない。
田屋も自分で食べるぶんを採ってはいるものの、それとこれとは別の話だ。すみれは自分が作った料理を食べてほしいし、田屋もすみれが作ったものを食べたいと言ってくれている。たちばな荘のみんなには悪いけれど、どうしたって田屋のぶんは譲れない。
「それじゃあ、また――」
「すみれさん」
今度、と言おうとしたところを田屋の声がさえぎる。見ると田屋が助手席側の窓を開けて、そこから身を乗り出すようにしてすみれに手を伸ばしていた。
普段の田屋とは違う行動に、すみれはドキリと胸が鳴りつつも窓に近寄る。
「今日も楽しかったです。また今度」
「!」
すると、そう言った田屋がすみれの髪をひと房、ためらいがちに取った。田屋の手の熱と毛先の揺れを同時に感じて、すみれはこれまでには一度もなかったことに驚いて目を見開く。そんなすみれに軽く笑うと、田屋はそのまま車を発進させていってしまった。
「……」
その場に残されたすみれは、もうなにがなんだか、わけがわからない。
一瞬のことだったし、まさか田屋がすみれの髪を触るために窮屈な姿勢で手を伸ばしていただなんて思ってもみなかったから、余計に動揺してしまう。
田屋はいつも、すみれを大事に大事に扱ってくれる。話す言葉でも、ひとつひとつの仕草でも、そこには田屋の気づかいや思いやりがあふれるくらいに込められていて、すみれはそれをとても心地よく思っているし、感じるたびに温かくて優しい気持ちになる。
それに、田屋は滅多なことではすみれに触れようとはしない。もちろん、距離が近くて体が触れたことは何度かあるし、並んで歩いているときのタイミングで思いがけずそうなったこともある。
例えばフィールドワーク中にすみれの頭や肩に木や草の葉っぱが乗ったままでいるときなどは、先に一言断りを入れてからそっとそっと取ってくれるくらい、田屋の行動にはすみれへの配慮がこれでもかというほど込められていた。
「……、……っ」
それが、さっきは初めて意志を持ってすみれに触れてきた。
すみれはさっきまで、もう変に遠慮する必要はないし、どう思われるか気にする心配だってない。お互いがお互いに出会えたことを幸せに思っていることがわかっているのだから、これからもゆっくりゆっくり関係性を深めていけたらいいと、そう思っていた。
けれど田屋は、それをあっさり超えてきた。それがどういう意味を持っているのか、いくらマイペースなすみれにだって、なんとなく想像はつく。
「田屋さん……」
次に会ったとき、どんな顔で出迎えたらいいだろう。
先ほどの会話にもあったとおり、田屋の〝また今度〟は長くて一週間だ。都合さえつけばもっと早まるだろうし、もしかしたらそれは明日あさってのことかもしれない。
さっきからずっとドキドキとうるさいくらいに鳴り続けている胸の音を全身に感じながら、すみれはもうとっくに行ってしまった田屋の名前をやっとのことで口にする。けれど十月の夜風がさらっていくだけだ。まるでのぼせたみたいに体中が熱くて、田屋が触れた毛先が発信源かなにかのように、とめどなく熱が生まれてくる。
「……あ、熱い」
思わず呟いてしまうほど、その熱はしばらく引きそうになかった。
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