それから半日ほどかけて、すみれと田屋は里山の秋を楽しみ尽くした。

 夕方、砂利道の端に停めたレンタカーに戻るなりリュックの中や袋いっぱいに収穫した食材の数々を眺めて、すみれは田屋に満足げな笑みを向ける。

「ありがとうございます、田屋さん。田屋さんのおかげで大収穫です! こんなに持って帰っちゃっていいのかなって、申し訳なく思うくらいですよ」

 民家の跡地で採った栗やイチジクなどはもちろんのこと、クルミも採れたし、きのこも採れた。ムカゴや自然薯は残念ながら見つけられなかったけれど、田屋の話では「先に採った人がいたのかもしれませんね」ということで、自分たちはちょっと遅かったらしい。

 すみれが「それもまた里山ですね」と言うと、田屋も頷いて「訪れる人に分け隔てなくおすそわけしてくれるのが里山のすてきなところですよね。なので、マナーやモラルを守れない人にはぜひご遠慮してほしいです」と、ちょっとだけ苦笑いした。

 それはすみれも、おおいに納得だった。

 もしかしたら田屋は、前にそんな場面を目にしたのかもしれない。悲しい気持ちになっただろうし、怒りたい気持ちにもなっただろう。幸いすみれはまだそんな場面に出会ったことはないけれど、もし見つけてしまったら、田屋と同じように悲しいし怒りたい気持ちになるだろうことは感覚的にわかるし、できれば出会いたくない光景だ。

 場所さえ知っていれば誰にでも採れるぶん、常識が必要なのが山菜採りや野草採りなんだと、すみれはそのとき再確認したような気分だった。

 もちろんこれからもマナーやモラルを守った常識あるフィールドワークを続けていこうと思う。田屋と行くときも、ひとりのときも、それはいつだって変わらない。

「いえいえ。楽しんでいただけたようで、なによりです。逆にほとんど歩きっぱなしで疲れさせちゃったんじゃないですか? 足元もそんなによくなかったですし。それに、前みたいにお弁当まで用意してもらっちゃって、僕のほうこそ申し訳ないくらいです」

 眉尻を下げる田屋にすみれは、そんなことはないです、と勢いよく首を振る。

「疲れたなんて、とんでもないです。一日中、ずっと楽しかったですよ。お弁当だって私が作りたくて作ったんですから、気にしないでください」

 出発は午前八時と比較的早い時間だったけれど、五時には起きているすみれには、お弁当を作るにはじゅうぶんだった。疲れもまったく感じていないし、むしろまだまだ元気なくらいだ。それほど今日のフィールドワークは楽しくて、すてきな時間だった。

「はい。じゃあ、次に出かけるときもお願いしていいですか?」

「もちろんですよ。リクエストなどあれば、じゃんじゃん言ってください」

 にっこり笑って言った田屋に、すみれも笑顔を返す。野草の季節は秋までということだから、フィールドワークに出かけられるようになるのは来年の春だろう。冬は植物が芽吹きの季節を待つように、すみれも春を待ち遠しく思いながら待とうと思う。

「それでは、出発しますね」

 田屋のその言葉で、すみれたちは里山をあとにした。

 連れてきてもらったときは、初めての場所なのにのどかな田園と畑が広がる風景に懐かしささえ感じたすみれだったけれど、実際に歩いてみれば時代とともに変化してきたあとが見て取れた。

 田屋がひとつひとつ丁寧に説明してくれたおかげで、すみれなりに背景を思い描くことができたし、自然から〝おすそわけしてもらうこと〟や〝ありがたくいただくこと〟とはどういうことか、常識的な部分も含めてわかったような気がした。

 それに、田屋の知識の深さにも改めてすごいなと思った。聞けば淀みない答えが返ってくるし、考察も並外れたものだと思う。それはすみれが本で読んで得た知識を補ってあまりあるほどで、書かれていない細かい部分を補強してくれるものでもあった。

 そんな田屋を目にするたび、すみれは毎回、どれほど勉強したんだろうと感動すら覚えた。きっかけはすみれも知っているけれど、それにしたって豊富な知識と深い考察だ。たくさんの経験を積まなければ、きっとそこまで落とし込めないものだろうと思う。

 そしてそのたび、すみれは田屋を好きだなと思った。

 自然や植物全般に対してこれでもかというほど敬意を払い、慈しみ、愛情を持って接する姿がイギリスのグランマと重なって、どうしようもなく胸がぎゅっとなったし、愛しい気持ちが込み上げる。それは、この人に愛される植物がうらやましい、なんてちょっと的外れなことを思ってしまうほどで、すみれは何度心で苦笑いしたかわからない。

「そういえば田屋さんって――」

 たくさん誘ってくれますけど、お付き合いしている人はいないんですか?

 帰りの車中、そう言いかけてすみれは、はっと口をつぐんだ。車に乗り込んだときはまだまだ元気なくらいだと思っていたけれど、やはり歩き疲れたのだろう、心地いい車の揺れとヒーターの暖かさも相まって頭がぼーっとしてきていた矢先のことだった。

「はい?」

「あ、えっと、帰りが遅くなると心配しませんか? ……ご、ご家族とか」

 聞かれてすみれは若干しどろもどろになりながら尋ねる。

 私の意気地なしとも思ったし、大人の男性に対してする質問ではないのもわかっていたけれど、田屋の口調があんまり優しいものだったから、どうにも聞くに聞けない。

 キャンプに行った帰りにしたお互いの〝きっかけ〟話の中では、田屋の家族の話は出なかったように思う。だからひとり暮らしなのかも、家族で住んでいるのかもすみれはわからないし、想像するしかない。機会があれば聞いてみようと思ってはいたものの、まさかこのタイミングで聞くことになるとは、すみれ自身まったく思っていなかった。

「ああ、大学進学で実家を出てからずっとひとり暮らしなんですよ。僕の実家は宮城の仙台市なんですけど、中心部から離れた郊外のほうで。今日行った里山みたいに、目の前に田んぼと畑が広がっているような、のどかな場所なんです。だからついつい、実家の風景に似た場所を見つけると懐かしくなって足が向いてしまうんですよ」

 けれど田屋は、すみれの質問に不思議がることなくそう答えて目を細めた。きっと実家の風景を思い出しているのだろう、その横顔には穏やかな笑みが広がっている。

 そんな田屋につられるようにして、すみれも宮城の風景を想像してみることにした。

 似た場所ということだから、きっと緑にあふれたところだろうし、もしかしたら山も近いかもしれない。小さい頃から自然に慣れ親しんできたのだとしたら、山の植物に詳しいことも、そこで採れる山の幸に精通していることも、おおいに頷けるだろう。

「見てみたいなあ……」

「じゃあ、いつか行きましょうか」

 思わずぽつりとこぼすと、その声を拾った田屋がドキリとするようなことを言った。驚きすぎて声すら出せずにいれば、そんなすみれを見てふっと笑った田屋が続ける。

「今日の里山の風景を気に入ってくれたのなら、僕の実家の風景もきっと気に入ってくれると思うんです。場所が違うだけで、目に映る景色はそんなに変わらないんですよ。ありふれた田舎の風景――って言ったらそれまでなんですけど、でも、もしすみれさんが見たいって言ってくれるなら、ぜひ見てみてほしいんです」

「……は、はい」

 すみれはそう言うだけで精いっぱいだ。ドキドキと胸が鳴って、どうにもならない。

 さっきまで感じていた心地いい疲労感や眠気もとたんに吹き飛んでしまって、膝の上に置いていた自分のリュックをぎゅっと抱きしめ、胸が鳴るのを必死に押さえ込む。

 すごく嬉しいのに、それと同時にどうしたらいいかわからなくなってしまう。

 田屋はときたま、こうしてすみれにとって大きなサプライズを仕掛けてくるけれど、その真意はいまだにわからないままだ。野草が好きな〝趣味仲間〟として誘ってくれているにしては〝一緒に〟とか〝ふたりで〟と限定している気がするけれど、前に『この趣味は僕だけでひっそり楽しむものだって思っていた』『これまで同じ趣味の人に会う機会がなかった』とも言っていたから、すみれが加わって喜んでいると捉えることもできる。

 田屋に付き合っている人がいるのか気になるなら聞けばいいのに、一番肝心なところだけ聞けない自分がひどく情けないし弱虫だとも思う。でも、もしただの趣味仲間としてしか誘われていなかったと知ったときのことを考えると、立ち直れそうになくて怖い。

 それくらい、すみれは田屋に心を奪われてしまっている。

 これまで田屋と接してきて誠実な人だということはじゅうぶんすぎるくらいわかっているけれど、いつか知ってしまうくらいならこのままでいいとさえ思ってしまうほどで、すみれは恋心特有の不安定で曖昧な揺れ動きに翻弄されっぱなしだ。

「ところで、すみれさんこそ大丈夫なんですか?」

 すると田屋が片方の手でぽりぽりと頬をかきながら尋ねてきた。なんのことだろうとそちらに目を向けると、田屋は心なしか言葉を選ぶようにしてさらに続ける。

「いえ、誘うといつも都合をつけてくれて僕としては嬉しいばかりなんですけど、イギリスのご両親や日本のご家族は、すみれさんが僕と出かけることをどう思っているのかなってふと気になってしまって。……もしすみれさんに付き合っている人がいたら、その人にも申し訳ないですし、僕ばっかり楽しくても仕方がないというか、なんというか」

「そんなっ。い、いませんよ、付き合ってる人なんて」

 だんだんと尻すぼみになっていった田屋の声に被せるように、すみれは大きく身振り手振りをつけて否定した。その拍子に膝のリュックが落ちそうになって慌てて抱きとめる。

「……りょ、両親や祖父母も、田屋さんに会いたがっているくらいです」

 もしすみれに恋人がいたら初めて図書館で会ったときのそれきり、何度も足を運ばないし、そもそも野草に興味を持ったかどうかもわからない。世間話に花が咲くこともなかったし、会話も社交辞令として受け答えする程度にしていたはずだ。

 それに、両親や祖父母とはつい最近も電話をしていて、庭のドクダミをきっかけに田屋と知り合ったことも話しているし、そのおかげでたちばな荘の食卓にも華が加わり、みんなの笑顔が増えたことも話してある。すみれのことももちろんだけれど、両親や祖父母は下宿のみんなにも同じように心を寄せてくれているため、田屋と知り合ってからのすみれや彼らの変化をとても喜んでいるし、一度会ってお礼がしたいとも言っている。

 だから田屋が気にすることは少しもない。それだけは胸を張って言い切れる。

「――ぼ、僕にですか⁉」

「そうですよ。両親にも祖父母にも、田屋さんのことは話しているんです。田屋さんと知り合ってから私もたちばな荘のみんなも楽しいことばかり経験させてもらっているって話したら、お礼がしたいって言って。祖父母はともかく、両親はイギリスなので私もそう簡単には会えないんですけど、帰国したときは、ぜひ田屋さんも一緒にどうですか?」

 たっぷりの間を置いて驚いた声を上げた田屋に、すみれはそう言って笑う。

 いつも穏やかな田屋にしては珍しく大きな声だったけれど、突拍子もなく会いたがっているなんて言われたら声だって大きくなる。さっきすみれが田屋に実家の風景を見てみてほしいと言われて『……は、はい』としか答えられなかったのと同じだ。

 まだ目をパチクリさせて驚いたままでいる田屋にくすりと笑ってしまいながら、それでもすみれは今なら変に気負わずに聞ける気がして、ふぅとひとつ息を吐くと口を開いた。

「あの、話が前後しちゃいますけど、田屋さんには今、お付き合いしている方はいらっしゃいますか? もしいらっしゃらないなら、これからもこうしてフィールドワークに連れて行ってもらいたいんです。たちばな荘にも顔を出してほしいなって思っていますし、田屋さんが作る野草料理も教えてほしいです。気が向いたときにでも、ふらっと来てもらえたら、みんなも私も――いえ、私がすっごく嬉しいんです」

「すみれさん……」

「わがままばかりですみません。けど田屋さん、さっきもですけど、たまに『僕ばっかり楽しくて』って言うじゃないですか。そのたびに身勝手にも距離みたいなものを感じていて、私のほうこそ楽しいのにってずっと思っていました。楽しいのは田屋さんだけじゃないですよって伝えたかったんですけど、私にはこんな言い方しか思いつきません」

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