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といっても、すみれは自分の中ではこれといって〝きっかけ〟になるような出来事があったわけではなかったので、田屋が退屈してしまわないかとずっとハラハラだった。
それでも挙げるなら、五年前にイギリスにいた父方の祖母――〝ひみつの花園〟を作り上げたグランマが亡くなったことと、三年前、母方の祖父母が切り盛りしていた〝たちばな荘〟を閉めようかと話が出たときに継がせてほしいと手を挙げたことだろう。
あのときはずいぶん大胆なことをしたなと今でもときどき思い出すものの、それだってすみれにとってはだいぶ後ろ向きの決断だったように思う。
両親と一緒にイギリスへ行ったとしても、自分がなにになりたいか、どうなりたいかもわからない中では、そう遅くない段階で限界がやってきただろう。そのうち家に引きこもるようになってしまうくらいなら、日本に残ったほうがいいと思った。
日本には母方の祖父母がいるし、大学で出会った友達もいる。両親と離れるのは寂しいけれど、なにより当時のすみれは今の生活を変えるだけの勇気は持てなかった。
下宿を継いだときだって、ここをひとりで切り盛りできるようになれば変われるかもしれないと思ったからだ。越してきて間もない人もいた中、こちらの都合で追い出すような形になってしまうことに申し訳なく思ったのも本当だったけれど、むしろその人とすみれ自身が重なって見えたことのほうが、下宿を継ごうと思った決め手になった。
グランマが亡くなったのはすみれが大学二年、二十歳のときだ。イギリスでひとりきりになった祖父――グランパを心配して両親はすぐに移住することを決めたけれど、すみれについては、大学や友達のこともあるだろうからと急かすようなことはしなかった。
成人していたことも大きかっただろうけれど、このまま一緒に来てもいいし、日本で卒業してから来てもいい、日本にいたいならそれもちっとも構わない、だって自分たちがちょくちょく顔を見に帰ってくればいいんだから、なんていう大らかな両親のため、すみれはその時点での答えとして、大学を卒業するまでにいろいろ決めること選んだ。
そのころには、イギリスへ行ってもやっていけるようになっているかもしれない。
そんな思いもあって、大学卒業まで時間をもらうことにした。
けれど、四年生になってもすみれの決心はつかないままだった。これといってやりたいこともなりたいものも見つけられず、焦る気持ちだけがどんどん大きくなる。どうするのかをそろそろ本当に決めないといけないのに、そう思えば思うだけ沼にはまっていくようで、でも考えないといけなくて――というループにすっかり陥ってしまった。
周りや友達は三年生のときから就活セミナーやインターンシップなんかに行って、たくさんの企業の情報を集めたり、職場体験をして就職に動いているのに……。
そんな周囲との熱量の差もあって、すみれの心は決まらないままだった。
両親がそばにいるとはいえ、すみれだってグランパのことが心配だったし、グランマが先に亡くなってからグランパの体調があまり良くないことも両親から聞いていた。もしかしたら自分もイギリスに行ったほうがいいんじゃないかと考えたりもする。
でも、日本には母方の祖父母がいる。ふたりで外国人専門の下宿を営んでいることは以前から知っていたし、体力的にきつくなってきているという話もすみれの耳に入っていた。父に付いてイギリスに行った母もそのことをしきりに案じていて、夫婦の間でどうするのが一番いいんだろうという話をしているということも、すみれを悩ませる。
言い訳だけれど、そんな中で自分の進む道を決めるのは、すみれにはひどく難しいことだった。就活に励む周りや友達、イギリスのグランパ、日本の祖父母――なにをどうしたらいいのか、四年の夏頃になってもすみれはまだ決めかねていた。
秋口になっても一向に答えは出ず、すみれはいよいよ途方に暮れてしまった。もちろん友達にも相談したし、両親にも気持ちを吐露していた。けれど最終的に決めるのは自分自身だということはすみれが一番よくわかっている。だからどうにも決めきれないのだけれど、時間ばかりがどんどん過ぎて、それに比例して焦りが募っていくばかりだった。
そんなとき、イギリスいる母伝いに、日本の祖父母が〝たちばな荘〟を閉めようと思うと言っているという話を聞いた。どうして祖父母は日本にいるすみれではなくイギリスの母――祖父母にとっての自分たちの娘にその話をしたんだろうとは思ったけれど、孫のすみれに心配をかけたくない思いだったり、もしかしたら母からすみれがずいぶん悩んでいるようだと聞いて、これ以上悩みの種を増やしてはいけないと思ってのことだったりしたかもしれないとすぐに思い当って、すみれはこのとき、少しだけ泣いてしまった。
たくさん愛されてここまで育った――そのことが胸に染みて。それなのに二年も待ってもらっていながら優柔不断で、いまだになにになりたいかも、どうなりたいかもわからない自分が不甲斐なくて。いっそのこと誰かに決めてもらったほうが楽なのにと心の隅で思っていることが恥ずかしくて。すみれの胸は、ぎゅうぎゅうに締めつけられた。
その電話で母は最後に『おじいちゃんとおばあちゃんの様子見がてら、たちばな荘のことも見てきてくれない?』とすみれに頼んで通話を終えた。
母が言った〝たちばな荘のこと〟とはつまり、そこに住んでいる下宿人のみんなのことだ。もちろん遠い日本にいる祖父母のことも心配だっただろうし、たちばな荘そのものも古いために建物自体の心配もあっただろう。けれど、それだけじゃない。すみれが大学卒業後の自分の進路がわからなくなっていることへ対して、気分転換や気晴らしも兼ねて見に行ってみてはどうかと、母はそう言ってくれたに違いなかった。
当のすみれも、ひとりで考えていても一向に埒が明かなかったし、いい加減、そんな自分にほとほと嫌気が差していたから、母の言葉に素直に従うことにした。
母から電話があった翌週の週末にたちばな荘へ行って、そこで祖父母や実際にそこで暮らす下宿人のみんなを見て、継がせてほしいと名乗りを上げた。それからは三年かけて田屋が言うところの〝いつも賑やかで楽しそうで、前を通るたびにほんわかした気持ちになる噂のたちばな荘〟が出来上がっていった――そういうわけだ。
「私のきっかけなんて、田屋さんの足元にも及びません。卒業までの間は見習いみたいな感じで毎週末、たちばな荘に通って、管理人のあれこれを教わったり料理を作ったり、下宿のみんなと触れ合ったりしたんですけど、それだって私自身が〝なにかに打ち込んでいる〟って感覚が欲しかったのもありましたし、進路を決められない自分からやっと解放されたって実感したかったから……っていう気持ちが大きかったんです」
話し終えてすみれは、たまらずくしゃりと苦笑した。
三年、たちばな荘を切り盛りしてきてそれなりに自信はついたし、今の自分にもじゅうぶんなほど満足している。たちばな荘を選んでくれる留学生がひとりでもいる限りは続けていきたいと思っているし、この仕事が自分の天職だと今なら胸を張って言える。
けれど〝身内だから〟という気持ちがなかったかと言えば、胸は張れない。結局は甘えてしまったことと同じなんじゃないかという思いは、今もときどきすみれの胸にひょっこりと顔をのぞかせる。そしてそれは、自分ではなかなかどうにもならない。
だから、田屋が退屈してしまわないかとハラハラしたし、がっかりされてしまうんじゃないか、田屋の想像を裏切ってしまうんじゃないかと、内心、気が気じゃなかった。
田屋はどうしてか、たちばな荘のことをとても気に入ってくれている。それはすみれにとっても嬉しいことだけれど、だからこそ自分はなんてお粗末な〝きっかけ〟なんだろうと思うと、そんな思いが胸の中いっぱいに広がって苦笑せずにはいられなかった。
「足元にも及ばないなんて、そんな。僕はすみれさんらしいなって思いますよ」
けれど田屋は、そう言って微笑むとさらに続ける。
「周りのことを思って自分の進む道に迷うのは、優柔不断なんかじゃないです。日本とイギリスと、ふたつの間で身が裂かれそうだったんじゃないですか? それはすみれさんがどちらの国も同じだけ愛していて、大切に思っているからだと思うんです。もしイギリスで生まれ育っていたって、きっと変わらないはずです。それに、すみれさんが悩んで悩んで決めたことに誰が水を差すっていうんでしょうか。嬉しいですよ、僕は。すみれさんがそうやって決めたのが〝たちばな荘を継ぐこと〟だったこと。だから、自分の進んだ道をこれでもかってくらい誇ってください。――たちばな荘のみんなや、僕のためにも」
そして、車のバックミラー越しにちらりと後ろに目をやった。
「……はい。ありがとうございます」
すみれはそれ以上は言葉にならなかった。田屋の温かい言葉の数々に胸がいっぱいになって、これ以上なにか言おうとしたら、うっかり涙が出てきてしまいそうだ。
わざわざ振り返るまでもなく、田屋が目を向けた先には仲良く眠るたちばな荘のみんながいる。今日の一日を思い返してみても、たちばな荘を継いでからのこれまでの日々を思い返してみても、そこにはいつだってみんなの賑やかな声や笑顔があって、楽しかった思い出ばかりがすみれの脳裏に途切れることなく浮かんでくる。
もしひとりで下宿を切り盛りできたら、私にも自信が持てるかもしれない――そんな思いから継いだ〝たちばな荘〟は、今ではかけがえのないすみれの財産だ。田屋はそれまでの道のりを、すみれ自身にこれでもかというほど誇ってほしいと言ってくれた。それがすみれにとってどんなに嬉しい言葉か、田屋本人はわかっているのだろうか。
「すみれさんがたちばな荘を継いでくれて本当によかったです」
そう言って優しく微笑みかけてくれた田屋に、すみれも涙混じりの目元で笑って「私も思いきって継いでよかったって心の底から思います」と、そう言葉を返した。
*
それからほどなくして、田屋が運転する車はたちばな荘の前に到着した。すっかり眠り込んでしまっていたみんなを起こしてそれぞれの部屋に戻っていく背中を見届けると、休憩がてら運転席から下りてその様子を見ていた田屋に、すみれは駆け寄る。
「今日は本当にありがとうございました。みんなすごく楽しんでましたし、私も楽しかったです。車の手配も、運転までしていただいて、なんてお礼を言ったらいいかわかりません。……あの、バーベキューのとき、田屋さんは『今日はなんていい日なんだろうって思ってる』って言っていましたけど、それは私の台詞です。挙げればきりがなくなっちゃうくらい、私の中では〝今日はなんていい日なんだろう〟だらけです」
そう言って、田屋を見上げて笑った。
「じゃあ、その〝今日はなんていい日なんだろう〟って日を、これからもっと増やしませんか? 野草を探しに行ったり、またどこかへ出かけたり――って、僕しか楽しくなかったら元も子もないですけど、でも、すみれさんさえよかったら、また誘わせてください」
すると、田屋がすみれのほうに一歩近づいてそんなことを言う。
突然のことに頭が追いつかないでいると、田屋は「いいお返事を待ってますね。僕も楽しかったです。それじゃあ、おやすみなさい」と言い置いて車に乗り込もうとする。
「た、田屋さんっ。私も……田屋さんといると、た、楽しいです」
思わず引き留めてしまったけれど、そう言うだけですみれは精いっぱいだった。本当は誘ってほしい、もっと一緒に出かけたい、たくさん話がしたいと喉元まで出かかっていたけれど、胸の中が痛いくらいにぎゅっとなって、なかなか言葉にならなかった。
「それなら今度はふたりで出かけませんか? 空いている日があったら教えてください。パンケーキとスムージー、おいしいお店を探しておきます」
それでも、どうにかすみれの気持ちは田屋に伝わったようだった。すみれがあんまり必死な様子だったからか、はははっと口元に手を当てて笑った田屋は、けれどすぐに優しい眼差しを向けて「じゃあ、また図書館で」と言って車を発進させていった。
残ったすみれは、車が見えなくなってもしばらくの間、そこから動けなかった。体中が熱くて、頬と両耳なんか、触らなくてもわかるほど熱を持っている。
「スミレー? どうしたのー? 早く入ってきてー」
「……は、はーい!」
それは声をかけられるまで続き、すみれは弾かれるようにして返事をすると、急いでたちばな荘の中へ入った。中ではすでにテーブルにキャンプ場で買ったお土産を広げたり、それぞれの楽しかったことを話していたりと、みんながみんな、今日の余韻に浸っているようだった。車の中で眠って元気になったらしく、テンションはすこぶる高い。
けれどすみれは田屋のことで頭がいっぱいで、話しかけられても上の空の返事しかできなかった。それを見てみんなが「早く寝て」「ゆっくり休んで」と慌てて母屋のほうへ行かせたものの、当のすみれは布団に入ったところで寝付けるはずもない。
結局その日、すみれは一睡もできなかった。
田屋とふたりで出かける約束をした――そのことにどうしようもなく胸が鳴って、すみれは自分では、それを落ち着かせることはなかなかできそうになかった。
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