そんな前置きからはじまった田屋の〝きっかけ〟話は、けれど、言葉とは裏腹にすみれの胸を打つものだった。

 大学時代は特に司書の仕事に関心があったわけではなく、目指していたのは学校の先生だったという。中でも小学校教諭になることを目標としていて、実際、教員免許も持っているそうだ。司書の資格も、その延長で取ったという。

 とはいえ難易度は高くはなく、司書資格を得るために必要な科目を履修して卒業すれば資格が取れるということだったため、自分のほかにも、それなら司書の資格もと考える同級生は少なくなかったと、田屋は当時のことを懐かしそうに振り返った。

 ほかにも資格を取るための方法はいくつかあるという。大きく分けて、大学・短大・高専を卒業している場合、専門学校を卒業している場合、高校を卒業している場合で取得までの過程が変わってくるということだったけれど、田屋は「ここではそんなに重要なことじゃないので、興味があるときはまたお話しします」と言って、話を本筋に戻す。

「野草に興味を持ったのは、四年生のときに教育実習で行った小学校で出会った男の子がきっかけでした。当時三年生だったんですけど、これがまあ、まあまあヤンチャな子で……。いわゆる特別支援学級と本来の自分のクラスを行き来するような子だったんです」

 だいぶ苦労したのだろう、田屋の顔には懐かしむ表情の反面、苦笑が浮かぶ。

「で、その子ってば、なんでかわからないんですけど、僕を見つけると草を口に持っていくんです。行間休みとか昼休みとか放課後とか、子どもたちと校庭で遊んだり下校を見守ったりしていると、僕を見つけて〝今から食べるよー〟って感じで」

「……ええっ⁉」

「うそでしょって思うでしょう? けど、うそじゃないんですよ、これが」

 思わず驚いた声を上げると、田屋は予想していたのか、うんうんと頷く。

「初めて見たときは僕も今のすみれさんと同じ反応でした。うそだろって思いましたし、まさかとも思いました。目の錯覚なんじゃないかとか、幻でも見たんじゃないかとか、目に映ったものよりまず自分を疑いましたよね。砂ぼこりがどうとか、誰が踏んだかわからないとか、除草剤がとか、もしかしたらその子の体に影響があるかもしれないって考えるよりも、とにかく頭の中には〝なんで?〟って疑問符がたくさん浮かんだんです」

「で、ですよね……」

 あーびっくりした、と胸を撫で下ろしながら、すみれも同意する。

 普通学級の子よりどうしたって見守りが多くなるだろうことは、すみれもなんとなく想像がつくし、教育に携わる立場にはいないけれど、ニュースやドキュメンタリー番組などで見聞きして、教育の現場が多種多様に変わってきていることは知っている。

 とはいえ、その男の子はなかなかの個性の持ち主だったようだ。

 実際に関わった田屋も〝ヤンチャな子〟と言っているし、ほかにも気をつけて見なければならないような特性を持っていた子なのだろう。なにしろ〝草を口に持っていく〟なんて聞いたことがない。教育実習生という立場だったらなおさらだろうと思う。

「だから直接聞いたんですよ。その子に『どうしてそんなことをするの?』って。もちろん実習担当の先生に確認を取った上でしたけど、そうしたら『牛も馬も猫も食べるのに、どうしてぼくは食べちゃダメなの?』って聞き返されちゃったんです。きっと僕だけじゃなく、親やほかの先生の前でも同じことをしていたんでしょうね。言われ慣れているようでしたし、やっちゃダメなんだってことは理解しているようでした」

「そうだったんですね」

「その子にとって教育実習生の僕の存在は目新しかったので、単に気を引きたかったんじゃないかなって思います。でもね、そこで僕も思ったんですよ。〝あれ、どうして人間は草を食べちゃダメなんだろう、人間が食べてもいい草もあるんじゃないか〟って」

「ふふ、田屋先生は疑問に思っちゃったわけですね」

「ははっ。そうなんです。そこからは、一緒に図書室に行って植物図鑑で調べたり、自分でも調べてみたり、俗に言う〝雑草〟にふたりでとにかく夢中になりました」

 その光景が目に浮かぶようで、すみれは自然と口元に笑みが浮かんだ。

 男の子と並んで図鑑のページをめくる姿、パソコンで調べたり、図書館に行ってメモを取る姿、それらを持って実際に外へ出て『これはこの草だね』『あの草はこっちなんじゃない?』なんて言いながら確かめ合う姿が簡単に想像できて、ものにも人にもどんなことにも誠実で、心を込めて接したり向き合ったりする田屋らしいなと思う。

「しまいには僕のほうがすっかりハマってしまって」と照れくさそうに言う田屋は、続けて「それが僕が野草を食べてみようって思ったきっかけです」と締めくくる。

「か、かわいい……」

「はい、とってもかわいかったです」

「そ――田屋さんが……」

「ん?」

 思わず口をついて出た〝かわいい〟は、男の子に対してももちろんだけれど、むしろ〝田屋がかわいい〟ことへの比重のほうが大きかった。『そうじゃなくて、田屋さんがかわいいんです』と言いかけて慌てて言葉を飲み込んだのは、頭の中で一瞬のうちにブレーキがかかったのと、田屋の表情があまりに純粋無垢のそれだったからだ。

 すみれの〝かわいい〟が自分へ向けてのものだったなんて少しも思っていない顔をされてしまっては、こちらのほうがなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。

「いえ、とってもかわいい子ですね」

 内心で焦りつつ当たり障りのない言葉に言い直すと、田屋はふんわりと微笑む。

「そうなんですよ。教育実習は六年前だったので、その子は今は中三ですかね。だいぶ大きくなってるんだろうなあ。まだ野草や植物を好きでいてくれたら嬉しいんですけど」

「きっとずっと好きでいてくれてますよ。すてきな思い出ですもん」

「だといいな」

 六年前ということは、田屋は今、二十七歳だろう。それからずっと野草が趣味で、今ではその知識や経験を使ってすみれや下宿のみんなに新しい風を吹き込んでくれている。

 その子にとっても、田屋にとっても、六年前の出会いはお互いがお互いに自分の世界を広げてくれたきっかけになっただろうことは、言葉で言わなくても察して余りある。

「私、思うんです。その子にとって田屋さんの存在ってヒーローなんじゃないかなって」

「ヒーロー、ですか?」

「はい。きっと田屋さんだけだったんじゃないでしょうか。自分の疑問を正面から受け止めてくれて、自分の中で〝そうだったのか〟って理解して納得するところまで一緒に取り組んでくれた人。何回も繰り返し言われていれば、むやみに草を食べちゃダメなんだってわかります。けど〝わかる〟だけで結局はモヤモヤは残ったままです。それは特性のあるなしじゃなくて、誰にでも似たような経験があるんじゃないかなって思うんです。でも田屋さんは、その子の〝わかっているけど、どうしてなんだろう〟っていうモヤモヤに一生懸命に向き合ってくれた初めての大人だったんじゃないでしょうか。うまく言えないんですけど、そういう人のことをヒーローって言うんじゃないかなって――お、思います」

「そ、そんなかっこいいものでは……」

「いえ。本当にそう……思います」

「あ、ありがとうございます」

 最後の最後にどうにも照れくささが勝ってうつむいてしまうと、隣から聞こえてきた田屋の声も、どう返したらいいかわからないといった様子の気恥ずかしそうなものだった。

「……」

「……」

 それからしばし、なんとも言えない沈黙が流れる。かわいいだのヒーローだの、わりと直球なことを言ってしまい、自分の心臓の音が耳の奥に響いて少しうるさいくらいだ。

 このときにはもう、すみれは、じゅうぶんに自覚していた。

 どうして田屋に名前を呼ばれると胸がくすぐったくなるのかや、図書館に足を向けたくなるわけ、これまでたびたび感じてきた名前がつけられない気持ちなど、それら全部が、どうしたって〝恋〟という名前にしかぴったり当てはまらない。

 それをじゅうぶんすぎるほど自覚している今となっては、なんでもっと前に気づかなかったんだろうと不思議に思うくらい、とっくにすみれの中にある田屋の存在は大きい。

 教育実習のときの話を聞いてますます好きだなと思ってしまう始末だ。どれだけ自覚のないまま田屋を好きだと思ってきたのか、そんな自分にちょっと呆れてしまう。

「あれ。でも今は田屋さん、図書館の司書さんですね」

 ふと不思議に思い、聞いてみる。教員免許を持っているのだから、もし出会うとしたら学校の先生としての田屋と出会うほうが自然な流れなのではないだろうか。

「ああ、それが……お恥ずかしい話、肝心の教員採用試験に受からなかったんです。何回か再挑戦したんですけど、うまくいかなくて。でもプー太郎でいるわけにもいきません。その間のつなぎ――って言ったら言葉が悪いですけど、教員採用試験の勉強をしながら司書をしているうちに、こっちのほうがしっくりくるようになっちゃったんです」

「なるほど……」

 私が採用試験の面接官だったら絶対に合格を出すのに、なんて場違いなことを思いながら、一口に先生になるといっても難しいんだなとすみれはしみじみ噛みしめる。田屋はなんでもないことのように言ったけれど、自分の中で消化できるまでにもたくさんの時間がかかっただろうと思うと、胸がぎゅっと押しつぶされるように痛い。

 それでも、ちらとうかがった田屋の横顔は晴れやかだった。今では司書の道を選んでよかったと心から思っていることがすみれにも簡単に見て取れて、それだけで救われたような気持ちだ。もし出会ったのが先生としての田屋だったなら、ひょっとしたら今日のこの日はなかったかもしれない――すみれのわがままなのは、じゅうぶんにわかっているけれど、そう考えると余計に田屋が司書の道に進んでくれていてよかったと心から思う。

「僕は、ですけど」

 すると田屋がふっと笑った。なんでしょうとそちらに目を向けると、視線は真っすぐ前に向けたまま、田屋は嬉しそうに口元をほころばせながら続ける。

「司書になって本当によかったって思ってます。もちろん先生になりたかったし、そのために大学にも行きました。でも、先生になっていたら、そもそも違う場所に住んでいたかもしれませんし、すみれさんやたちばな荘のみんなと出会うことはなかったかもしれません。野草が好きなのは変わらないでしょうけど、今日みたいな日は来なかったんじゃないかって思うんです。だからというか、なんというか――僕にとってこの巡り合わせは奇跡なんですよ。司書をしていてよかったって、こんなにも思ったことはありません」

「田屋さん……」

「それに、僕が野草にハマるきっかけを作ってくれた、あの男の子も。もしかしたら、その子と出会わなかったとしても、進んだ道は同じだったかもしれません。けど、その子がいなかったら僕はただの司書でしかなかったでしょうから。さっきのすみれさんの言葉を借りると、僕にとってもその子の存在はヒーローそのものです」

 そう言い切った田屋は、自信にあふれているようだった。みんなが眠っているのでボリュームを抑えた声ではあったけれど、力強ささえ感じるそれは、それほど田屋にとって断言してもいいと思うような位置づけにあることなのだろう。

 すみれも心からそう思う。

 田屋の言葉を借りると、田屋と出会えたことそのものが奇跡だ。

「――さて。次はすみれさんのお話、聞かせてください」

 そう言って田屋は居住まいを正すとハンドルを握り直した。

 たちばな荘までは、ちょうど半分を過ぎたあたりだろうか。

 到着まで時間はじゅうぶんある。「そんなに面白くないかもしれませんけど」と田屋と同じ前置きをして、すみれも一度、座席に座り直すと、たちばな荘を継ごうと思ったきっかけを話しはじめた。

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