「さて。お腹も満たされましたし、フィールドワークにでも行きましょうか」

「いいですね。ここではどんな野草が採れるんですか?」

「それは実際に見てみてからのお楽しみです。行きましょう、すみれさん」

 それから小一時間ほどして、昼ごはんの片づけを終えたすみれと田屋は、遊歩道の散策――彼が言うところのフィールドワークに向かうことにした。

 たちばな荘のみんなはキャンプ場内を探検したり釣りに行ったり、芝生の上に寝転がって休んだりと、夕方までの時間をめいめいに過ごすことにしたようだ。田屋が一足先に釣りに向かうメンバーに「大きいのを頼みます」と冗談めかしてお願いすると、彼らに「おいしい野草もよろしくネ!」と返され、すみれと田屋は目を見合わせて笑った。

「すっかり〝野草の人〟になっちゃってますね、僕」

「ですね。それだけ、ドクダミのインパクトが強かったんですよ。だって、誰が食べてみようだなんて思います? いま思い返しても、天ぷらの衝撃はすごかったです」

「ははは。それは光栄です」

「あと、スミレを使ったスイーツも、すごくかわいかったです。マルちゃんからお礼があったと思いますけど、私からも、その節は本当にどうもありがとうございました」

「いえいえ。またまた光栄です」

 ちょっと狭いけれど、整備が行き届いた遊歩道を並んで歩く。肩が触れ合ってしまいそうな距離感に、すみれは最初、少しだけドギマギしてしまったものの、田屋がいつになく張り切った様子ですみれを促すので、なんだかおかしくなってしまった。

 すみれたちのほかに遊歩道を歩く人は見当たらなかった。このキャンプ場は設備がかなり充実していて、まだまだ昼ごはんどきなのもあって、場内に設営されているレストランや川釣り、子ども向けのアスレチックなど、そちらのほうに人が集中しているらしい。

 セミや鳥の声に交じって、キャンプを楽しむ人たちの笑い声がときおり風に乗ってすみれの耳に運ばれてくる。周りを木で囲まれているので涼やかで、夏の濃い緑や土の匂いが遊歩道全体を包んでいた。まるで貸し切りで、贅沢だなとすみれは目を細める。

 みんな楽しそうだし、すみれも楽しい。田屋も口角が上がっている。

「下宿のみんなも田屋さんにお礼を言っているんですよ。今日のことだけじゃなくて、いつも野草を使った料理を教えてくれるから、晩ごはんがもっと楽しみになったって」

「そんなに褒めてもなにも出ませんよ。でも、ありがとうございます」

「いえいえ。本心ですから」

「それにしても、みんな本当に日本語が上手ですよね。日本のことが大好きなんだって、話してすぐにわかりました。どれだけ勉強したんだろうって思うと、胸がいっぱいになります。そのうえフレンドリーだし、底抜けに明るいし。……実は、馴染めるかなって、ちょっと不安だったりもしたんですけど、全然そんなことありませんでした」

「ふふ。みんな、とっても楽しみにしてましたよ」

 照れくさそうに話を逸らす田屋に、すみれも笑って同調する。

 でも、本当にそうだ。

 すみれのほうとしても、一気に八人の外国人と会い、さらに一日を一緒に過ごすとなったときの田屋の心境を想像すると、不安もあっただろうと思う。言葉についても、そうかもしれないけれど、とりわけ〝たちばな荘〟として出来上がっている中に自分が入っていくことそのものに緊張や不安を感じないわけはなかっただろう。

 田屋から『よかったら、下宿のみんなも』と誘われたときは、みんなと会ったときの彼のびっくりした様子を想像して笑ってしまったけれど、入学初日や初出社のとき、行ったことのない場所や初めての人に会うときなどと同じ気持ちになることは、すみれにも覚えがあるぶん、受け入れられたり馴染めたときの安堵感は言葉では言い表せない。

 おそらくそれは、迎える側がたとえ手放しだったとしても、だろうと思う。自分自身がその場所や空間に〝はまった〟感覚が伴わなければ、不安はなかなか一掃できない。

「ほんと、それです」

「え?」

「すみれさん、今日の段取りを立てるとき、ずっと『みんな楽しみにしてる』って言ってくれたじゃないですか。そのおかげで変に緊張しなくて済んだんです。実際、すぐに打ち解けられて、おいしいお弁当もいただけて、言うことなしですよ」

 そう言って優しく微笑む田屋に、すみれは次第に頬が熱くなっていく。自分を見つめる田屋の目があんまり真っすぐで、思わず立ち止まってしまうほどだ。

「……も、もう。そんなに褒めてもなにも出ませんよ」

 うつむき加減でそう返すだけで精いっぱいだ。頬の熱さは収まることを知らない。

「あ――ユキノシタ。あそこに生えてるの、そうですよね?」

 そんなとき、ふと目の端に本でよく紹介されている野草を見つけたすみれは、自分たちを包むなんとも言えない空気に耐えきれなくなり、話を強引に変えた。

 自分でも今のはさすがにわざとらしかったなと思うけれど、あのまま田屋に見つめられ続けてしまうと、もうどうしたらいいかわからなくなるのは目に見えていた。近くに知っている野草が生えていて助かったと、すみれは内心でほっと胸を撫で下ろす。

「ほんとですね。オオバコもあります。あ、イタドリも」

 そんなすみれに軽く笑った田屋も、気を取り直すように野草の名前を挙げた。

 忘れかけていたけれど、みんなに『おいしい野草もよろしくネ!』と頼まれていた。こうして遊歩道を歩いているのも、ただの散歩ではなく、野草を採るためだ。

 キャンプ場は山に近い場所にあるために、すみれたちが住む地域よりも少しだけ季節の移ろいがゆっくりなようだ。よくよく周りを観察すると、夏の草花の中に春から初夏にかけて見かける花もちらほら咲いている。ノアザミ、ハルジオン、だいぶ長く茎をのばしたタンポポやフキなど、すみれでも見ただけですぐに名前が出てくる、いわゆる野花が、遊歩道を静かに、けれど優しく演出してくれているようだった。

「まだ咲いてるんですね、ユキノシタの花。確か花も食べられましたよね?」

「はい。平地より涼しいからでしょうね」

「そうですね」

 もう終わっただろうと思っていたけれど、見つけたユキノシタには白くてかわいらしい花が咲いていて、オオバコは蕾のほうが多いくらいだ。ユキノシタの花は六月から七月頃だと借りた本には載っていたけれど、田屋が言うとおり、涼しいぶん、夏でも花が見られるのだろう。近づき、スマホのカメラで花を撮る。今日の記念の一枚だ。

「それにしてもすみれさん、花の時期なんてよく知っていましたね。あんまり普通に話すから、僕も無意識に受け答えしちゃいましたけど、花が見られるのは今よりもうちょっと前ですもんね。僕も見られてよかったです。僕は葉のほうにばかり目が行っちゃうので」

 すると隣に並んだ田屋が気恥ずかしそうな笑顔を浮かべた。

 葉にばかり目が行くのは、もちろん食べるためだ。楽しそうにユキノシタや、ほかの野草を摘む田屋の姿が簡単に想像できて、すみれはくすりと笑みをこぼす。

「いえいえ。田屋さんがおすすめしてくれた本に書いていたことを、そのまま言っただけですよ。本でしか見たことがなかったので、ユキノシタじゃなかったらどうしようって、ちょっとハラハラしましたけど……ふふ、当たってよかったです」

 本によると葉も花も天ぷらにするのが食べやすいそうだけれど、湯がいた葉をゴマやくるみで和えたり、お浸しにしたり味噌と炒めたり、どれも食べてみたい料理ばかりだ。

「どうしましょう、摘んでいきますか?」

 聞くと田屋は少し難しい顔をする。

「今日はやめておきましょう」

「どうしてです?」

「実は目当ての野草があるんです。オランダカラシ――別名を」

「クレソン!」

「ははっ。大正解です。遊歩道をもう少し行くと、ちょっと奥まで行ける小径があるんです。小川も流れているので、今日はそこをフィールドワークのゴールにしましょう」

 まるで言葉尻を奪うようにしてオランダカラシ――クレソンの名前を口にしたすみれに笑うと、田屋は〝あっちです〟と言うように遊歩道の先を指さした。

 オランダカラシは〝クレソン〟と言い換えたほうが聞き馴染みのある名前なのではないだろうか。スーパーで買うものというイメージが強いけれど、実はちゃっかり日本全国で自生している立派な野草のひとつだ。もとは料理の付け合わせとして持ち込まれた西洋野菜だったけれど、繁殖力が旺盛で日本全国で生育するようになっていったそうだ。水を好むので、水辺を訪れたときに探してみると案外あちこちに生えているかもしれない――というようなことが、こちらも田屋がおすすめしてくれた本に書いてあった。

 食べ方としては肉料理の付け合わせやサラダにするのが一般的で、だから今日のバーベキューのときにも大活躍してくれること間違いなしだ。クレソンと聞くと一気に華やかな印象になるし、名前に高級感もある。とりわけ、普段の買い物では、ほぼほぼ手に取らないすみれには、クレソンはなかなかに高貴な名前とイメージで構成されている。

「すみれさん? どうかしたんですか?」

「いえ、あの、つい子どもみたいにはしゃいでしまって……」

 それはともかくとして、すみれはとっさに顔を手で覆った。田屋が不思議そうに聞いてくるものの、恥ずかしすぎてそれ以上は言葉にならないし、顔も上げられそうにない。クイズ感覚で答えてしまった自分が、すみれはとにかく恥ずかしい。

 田屋のほうが知識も経験も豊富だというのに、にわか仕込みの知識をひけらかしていると思われたらどうしようとか。隠しているわけではないけれど、本を読み込んでいることが知られたら、それもそれで恥ずかしいとか。一瞬のうちにいろいろな気持ちが湧きあがって、すみれは今度は自分の子どもっぽさに顔に熱が集まっていった。

「嬉しいですよ、僕は」

 すると、田屋が優しい声で言った。

 田屋は普段から誰に対しても柔らかい口調で、誠実に対応している。一緒に働く職員にも、すみれのように図書館を訪れた人にも、それは変わらない。図書館によく顔を出すようになって知ったのは、本にも人にもいつも心を込めて接している田屋の姿だ。

 そんな田屋の、いつもとは少し違う声の調子に、すみれは顔を覆っていた手を無意識のうちに下げていた。目が合うと、田屋はにっこりと微笑む。

「すみれさんが野草に興味を持ってくれたのも、もちろんですけど、こうして一緒に野草探しができることも嬉しいです。〝野草を食べる〟だなんて、マイナー中のマイナーじゃないですか。それなのに、僕が教えた野草をいつも『こんなふうにして食べた』『こういう料理にしてみた』って嬉しそうに報告してくれることが本当に嬉しいんです」

「そんな……私のほうこそ感謝してます」

「いえ。この趣味は僕だけでひっそり楽しむものだって思っていたので、なおさらです」

 そして、ちょっと慌てた様子で「あ、悲観しているとか、そういうんじゃないですからね。これまで同じ趣味の人に会う機会がなかった、的なニュアンスです」と付け加えた。

 それなら――とすみれは思う。もうほとんど沼にはまりかけているようなものだったけれど、この機にどっぷりはまってみるのも、きっと絶対に楽しい。

「ふふ。じゃあ、私が第一号に立候補してもいいですか?」

「! もちろんです!」

 言うと、田屋の顔がぱぁっと明るくなった。まるで少年みたいなその顔にまた笑ってしまいながら、すみれは田屋にもっと野草のことを教えてもらいたいと思う。一緒に探したり食べてみたりしながら、野草だけじゃなく、田屋自身のことも。

「じゃあ、行きましょうか、すみれさん」

「はい」

 クレソンが自生する小川までは、もう少しだ。

 歩調を合わせてくれる田屋と並んで遊歩道を進みながら、すみれは、これまで田屋に対してたびたび抱いていた〝名前がつけられない気持ち〟にぴったりの言葉を見つけたような――そんな気がした。


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