■第二話 こっそり入れてみましょう 1
日本の夏は、とにかく蒸し暑い。
カラッとした暑さなら、まだいくらかマシなのにと思うものの、ただじっとしているだけなのに肌に張り付いてくるような湿気の多さといったら、日本生まれ日本育ちのすみれでさえ過酷だなと思うもののひとつなのだから、世界のあちこちから集まった下宿人のみんなにとってはさらに過酷なもののひとつなのではないだろうか。
朝から蒸し暑さ全開の日など、いくら〝日本の夏はこういうもの〟と心得ているはずのすみれだって、一瞬「うっ」とたじろいでしまうほどだ。
大学が夏休みに入って数日の今日も、太陽がやたらとまぶしい。
「おはようございます、田屋さん。今日も暑いですね」
「すみれさん、おはようございます。ですね」
下宿の前の道路に水を撒いていると、出勤途中の田屋と会ったすみれは、太陽を見上げてまぶしそうに目を細める彼と同じようにして目を細める。
今日も雲ひとつない快晴だ。街路樹のあちこちからは八時前だというのにすでにセミの声が聞こえていて、耳からも夏の暑さが入り込んでくるようだ。
「あ、風鈴。出したんですね。いい音です」
「はい。少しでも下宿のみんなに日本らしさを感じてもらいたくて。あと、やっぱり耳からも夏らしい音を入れたいなと思ったんです。セミの声も夏らしいですけどね」
ちょうど風が吹いて、昨日、下宿の玄関先につるした風鈴が涼しげな音を出した。セミの声も相変わらずで、そう言って苦笑したすみれに、田屋も苦笑を返す。
夏らしさを感じられるものは、探せば探すだけ、そこかしこにある。けれど、すみれにとっても田屋にとっても、この声は少しだけ暑さを増幅させるもののようだ。
「じゃあ、行ってきます」
「はい。お気をつけて」
ぺこりと頭を下げて図書館へ出勤していく田屋を見送り、すみれも水撒きを再開する。
前に下宿の前の道を通勤ルートにしていると言っていたとおり、こうしてタイミングが合えば少しの世間話をするようになって、もうすぐ三か月になろうとしてる。
もしかしたら、お互いに知らない間柄であっても、すれ違うときなどにあいさつくらいはしていたかもしれないけれど、きっとそれだけだっただろう。そう思うと、折に触れてすみれは、春の庭での出来事に不思議な縁を感じずにはいられなかった。
まるで、植物がつないでくれたみたいだな、と。
「さて。ちょっと涼しくなったし、みんなに朝ごはん食べてもらわないと」
バケツが空になったところで、すみれは玄関に向かって歩きだす。
玄関を正面に見て左手側が下宿人のみんなが暮らす母屋、右手側にすみれが住んでいる離れと、縁側の先に猫の額ほどの庭がある。ブロック塀が並んでいるため通りのほうから中の様子は見えないので、以前『門には〝たちばな荘〟としかないですからね。わざわざ立ち止まって離れの表札を見たりもしないですし』と田屋に説明したとおりだ。
造りは外観的にも中の構造的にもみんなが暮らす母屋のほうがもちろん大きく、ちょこんとした佇まいにも見える離れは、けれどすみれが暮らせればなにも問題はないので、これといって今までに不便や不自由を感じたことはない。
すみれもみんなも母屋と離れの行き来は自由だし、荷物やエアメールも、そういえばずいぶん前から下宿のほうの玄関から受け取っている。母方の祖父母から下宿を継いだときからそうだったので、きっと祖父母の代からそうだったのだろう。わざわざ分けて届けてもらう必要性も理由も特にないため、すみれもそうしてもらっている。
「みんな、おはよー。朝ごはんできてるよ」
起きてきたみんなに声をかけつつ、人数分のご飯や味噌汁、おかずをテーブルに並べていく。まだ半分夢の中にいるような下宿人もいるけれど、夏休みに入ったからとはいえ、規則正しい生活を崩させるわけにはかない。すみれは彼らの健康を預かる料理番だ、この連日の蒸し暑さで食欲も減退してしまいがちだけれど、せめて朝の涼しい時間帯に栄養のある食事でお腹をいっぱいにして、一日の元気にしてもらいたいと思う。
それに、夏休みでも課題をしに大学まで行ったりサークル活動をしたり、バイトをしている人もいる。友だちと遊びに出かける人もいるし、全員で八人いる下宿人のみんながみんな、それぞれに毎日のように予定が入っているので、彼らを元気に送り出すのがすみれの仕事だ。どうやったらみんなにたくさんご飯を食べてもらえるだろう、どんな料理だったら元気になるだろう――夏の間は特に、すみれの試行錯誤は続く。
「スミレ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
最後の下宿人を送り出すと、すみれの朝食の時間だ。自分のぶんのご飯や味噌汁をよそい、あらかじめ取り分けておいたおかずをテーブルに並べる。
みんなのお弁当作りは後期日程がはじまる九月まで一時的にお休みだ。だからといって気を抜いていいわけではもちろんなくて、むしろ昼食のことがわからないぶん、朝晩のごはんのメニューを考えるのが、なかなか難しかったりする。
栄養バランスの部分で難しいのもあるけれど、夏は特に食べ物が痛みやすいし、冷たいものを口にする機会も多い。あんまり冷たいものばかり体に入れていては内臓が弱ってしまうので、できるだけ温かいものを食べてもらいたいけれど、やっぱり日本独特の蒸し暑さにバテてしまって、冷たいもの、喉ごしがいいものを求める下宿人も多い。
そうなると、なかなかどうして栄養的にもメニュー的にも難しいものがある。
「みんなになにを食べてもらったらいいいかな」
朝から考えるのは、もう晩ごはんのメニューだ。
今年は例年にも増して気温が高い日が多いと聞いている。元気が出るもの、スタミナがつくものを食べてもらうには、きっと目でも楽しませられる料理でないとみんなの箸も進んでくれないだろう。真夏の台所に立つことはすみれにとって別段、苦に感じることではないけれど、例えば毎日スタミナ料理を出したとして、それは下宿人のみんなが求める食事ではないかもしれないし、かえって胃もたれを起こしてしまうかもしれない。
「うーん……」
両手で頬杖をつき、考えに耽る。
晩ごはんのメニューのことだけで、すみれは小一時間は悩む自信がある。
「――すみれさん?」
そのすみれの姿は、図書館にあった。
「珍しいですね。料理本のコーナーにいるなんて」
書架の整理をしようと棚にやってきたらしい田屋に声をかけられたすみれは、手に持っていた本をぱたりと閉じると、心ばかりの笑顔を向けて軽く頭を下げた。
ひとまず洗い物や洗濯、掃除といった下宿の仕事を終えて向かったのは、もう行きつけになりつつある、田屋が司書として働いている近所の図書館だった。ここならみんなが喜んで食べてくれる料理が載っている本が見つかる――そう思ってのことだ。
離れの自室にも、祖母から引き継いだもの、自分で買い揃えた料理本が何冊もあるけれど、図書館ならまだ持っていない本もたくさんあるだろうし、なによりひとりでうんうん悩んでいるより場所を変えたほうがいいアイディアが降ってくるかもしれない。
それに、もしかしたら田屋ならすみれが思いつかなかったような案を思いついてくれるかもしれない。その溢れそうなほどの野草の知識を使って、目でも一発でみんなの減退しがちな食欲を呼び起こしてくれるような、そんな素敵な料理のレシピを。
「みんな、ここのところの暑さと湿度の高さにバテ気味なんです。これも日本の夏らしいところですけど、中には慣れていなかったり、元からそんなに耐性がない人もいて。だから、元気が出るようなごはんを食べてもらいたいなと思って、知恵を借りに来たんです」
「ああ、それで」
だからいつもの園芸コーナーじゃなくて料理本の。
すみれの説明で納得したらしい田屋は、すみれに優しげに微笑みかけると、隣に並ぶ。
「でも、すみれさんはすごいですね」
「え?」
「だって下宿のみんなのことをなによりも一番に考えているじゃないですか。今朝の風鈴もそうですよね。だからみんな、すみれさんのことが大好きなんだと思いますよ。そうじゃなかったら、たちばな荘の前を通るたびに幸せな気持ちになったりしませんもん」
そう言って田屋はにっこり、すみれの手から本をそっと抜き取る。
料理はもとから好きだったし、得意なほうではあった。家事全般がそうだと言えるし、だからみんなに力を貸してもらいながら、こうして下宿を営んでいられる。ただそれは誰かに振る舞ったりするもの、まして仕事にするようなものではないように思う。オリジナルレシピを考案するわけでもないし、やっぱりまだまだ素人の域は出ない。
「買い被りすぎですよ。……でも、ありがとうございます」
だからこそ、田屋からの言葉はすみれの心を震わせるには十分だった。
急に気恥ずかしくなって、緩む頬を隠すようにうつむく。
たちばな荘の中にいると、周りのことはあまり見えていないことも多いと思う。とかく近隣からのイメージは、なかなか客観視できないものではないだろうか。
これといって今までにクレームを受けたことはなかったけれど、例えばちょっと声が大きいだとか、ルールやマナーの違いだったりとか、そういったものは、すみれには受け入れられるものでも周りにはそうではない場合もあるのではないかと思う。
そんな懸念を一瞬で取り払ってくれるような田屋からの言葉は、すみれを照れさせるにはじゅうぶんだったし、じんわりと胸の中に染み入っていくようでもあった。
「いえいえ。本当のことですから。――で、みんなが元気になってくれるような料理、でしたよね。夏はやっぱり冷たいもののほうが食べやすくはありますけど、あえて熱々のものを食べたりしますかね。でも僕はそうだってだけで、バテているところに例えば鍋が出てきたとして、おいしいですけど、体がびっくりしちゃうかもしれませんよね」
「……夏に鍋ですか?」
「しません? キムチ鍋とか、グリーンスープ鍋とか」
「いえ、考えたことなかったです。というか、グリーンスープ鍋って?」
「青トウガラシの鍋です。激辛なんですけど、なんでか止まらないんですよ」
照れたすみれを見て自分も照れてしまったのだろう田屋は、本の順番を整えながら少しだけ早口で話を元に戻すけれど、意外なものが出てきてすみれは若干、目を丸くしてしまう。田屋のイメージにはなかったので、ちょっとびっくりしてしまった。
しかも当たり前のことのように夏に鍋をするという。それも辛い鍋だ。辛いもの好きなのだろうと思わせる口ぶりも相まって、田屋のイメージがどんどん塗り替えられていく。
「ふふ。止まらなくなるの、ちょっとわかります」
「え、なんで笑うんですか」
「いえ、田屋さんはパンケーキとかスムージーのイメージだったので」
「おしゃれな感じってことですか?」
「そうとも言います」
「えー……」
田屋は不服そうな顔をするけれど、でも意外だったのだから仕方がない。
おしゃれな感じというのも、もちろんある。普段の服装や話し方、佇まいなどの雰囲気からいつも涼しげな印象を持っていたから、辛いものが好きそうなことも、それこそ汗をかきながらなにかを食べるという想像もあまりつかなかったのが正直なところだ。
「――じゃあ、今度行きます?」
「え?」
「パンケーキとスムージー。鍋でもいいですけど……」
すると、唐突に田屋からそんな言葉が降ってきた。
言われている意味に頭が追いつかないまま隣を見上げると、田屋はすみれに少しだけ背中を向けていて、本を整理する手がさっきまでより少しだけ早かった。
「もしよかったら、下宿のみんなも」
「――あ、ああ、はい。声かけてみますね。もしかしたら普段はあんまり食べないものを食べたり飲んだりしたら、刺激されて食欲が出てくれるかもしれないですしね」
「そうですね。みんなに夏を元気に過ごしてもらいましょう」
それからすぐに田屋は館内に消えていき、すみれもしばらく料理本を眺めてから下宿に戻った。けれど頭の中は田屋から誘われたことでいっぱいで、まるで文字の上を目が滑って、なにも入ってこない。まるっきり心ここにあらずの状況で、みんなに元気になってもらいたくて図書館に行ったのに、なにをしに行ったのかわからないくらいだ。
でも、下宿の仕事をしていても思い出すのは田屋のことばかりで。
「楽しみ」
そのたびにすみれの頬はふっくらと持ち上がっていた。
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