「スミレ、できたよ」

「ありがとう。じゃあそれはひとまず置いておいて、その間にスミレの花の砂糖漬けを作ろっか。粗熱を取らないと冷蔵庫に負担がかかっちゃうからね。で、ゼリーとプリンで使うぶんは別のお皿に移して、残った花は全部、砂糖漬けにしちゃおう!」

 調べたところによると、砂糖漬けの作り方は本当にシンプルだった。

 見た目の華やかさから難しい手順を踏まないと作れないのかと思ったけれど、花を水で洗い、キッチンペーパーなどで完全に水気を取り除いたところに刷毛で卵白を塗り、グラニュー糖をまぶして乾燥させれば出来上がりとのことだ。グラニュー糖を少しフードプロセッサーにかけてサラサラにしてもいいし、そのまま花にまぶしても全然いい。

フードプロセッサーを使うのが面倒に感じるなら、袋に入れて麺棒でお好みに砕くのも手だろうし、すり鉢を使っても十分に代用できるのではないだろうか。花びらが重なっているところもきちんと卵白を塗ることにさえ気をつければ、案外簡単に作れるようだ。

「使うのは卵白だけだから、まずは黄身と卵白に分けるところからだね。分けたら、泡立てないように気をつけながら卵白を溶いて、出しておいた刷毛で花に塗っててくれる? その間に私はプリンを蒸すところまでやっちゃうから。お願いね」

「オッケー」

 残った黄身や卵白は、もう五、六個卵を足して玉子焼きにしたらいい。これで晩ごはんのメニューが一品決まったと思いながら、すみれはキリのいいところまでプリン作りの続きを進めると、スミレの花の砂糖漬け作りに加わる。花は半分ほどがすでに卵白が塗ってあったので、すみれはグラニュー糖をまぶす係を引き受けることにした。聞くとザクザクの食感がいいと言うので、砂糖は砕かず、そのまままぶすことにする。

「丸一日、乾燥させたら出来上がりなんだって。調べてみたら、二、三日乾燥させるって書いてあるのもあったから、ばっちり乾いたら完成ってことなんだろうね。そのまま食べてもいいし、お菓子に添えてもいいよね。私が見たのはマカロンに乗せてたよ」

「へえ。いろいろあるんだね。じゃあ、どれが正解ってこともないのかな」

「そうかもしれないね。プリンだって調べたら調べただけレシピが出てきたし、使う砂糖の種類も蒸し方もそれぞれだった。でも材料や分量に大きな違いはなかったから、たぶん〝この作り方で作ってみたい〟って思ったところを自分でミックスするのがいいんじゃないのかな。作り慣れてくるとオリジナルも入ってくるし、きっと全部が正解なんだよ」

「全部が正解かあ。じゃあ、それがその人のオンリーワンのレシピってことだね」

「そうだね。同じ作り方をしても微妙に味が違ったりするし、マルちゃんが作った寒天ゼリーも、私のプリンも、今ふたりで作ってる砂糖漬けも、みんなオンリーワンだね」

「うん」

 作業の片手間に、マルちゃんとそんな話をする。

 家庭の味と言うには少し大げさかもしれないけれど、おいしいと思って食べてもらいたい、喜ぶ顔が見たいという思いは、きっと作り手ひとりひとりが知らず知らずのうちに込めている〝愛情〟という名の隠し味だろう。でき合いのものや量産のものとはまた違うそれは、食べる人に届けたい思いの結晶でもあると、すみれは思う。

 だからこそ、料理のひとつひとつが尊い。だってオンリーワンなのだから。

「よーし、これで最後ダネ」

「あんまりきれいで、食べるのがもったいないくらいだね」

 最後のひとつに砂糖をまぶし、ベーキングシートを敷いたバットに伏せて並べると、それらはまるで宝石のようにキラキラ輝いて見えた。これを直射日光の当たらない風通しのいい場所でしっかり乾燥させれば、スミレの花の砂糖漬けの完成となる。

 プリンもすでに粗熱を取っている段階だし、冷えたらホイップクリームとスミレの花を飾れば完成だ。マルちゃんの手際のよさでゼリーもすでに花を挿し終え、冷蔵庫で冷やしはじめているので、試食として晩ごはんのデザートに出すにもじゅうぶんに間に合う。

 もちろん、プリンもみんなに振る舞って余るくらいの数を作ってある。みんなが〝おいしい〟と太鼓判を押してくれたら、明日にでもマルちゃんが食べさせたい人へ持っていくことができるだろう。そして、すみれにも、届けたい人が――。

「……スミレ? どうしたの?」

「あ、ううん。みんな、おいしいって言ってくれるといいなと思って」

「そうダネ。ボクも心からそう思うヨ」

 後片付けの最中、ふと田屋の顔が浮かんで手が止まってしまっていると、マルちゃんが不思議そうな顔でこちらをうかがっていた。すみれは当たり障りのない言葉を返し、少しずつ熱が集まりはじめる頬を隠すように下を向いて片付けに集中するふりをする。

 本当にどうしたのだろう。なんだか胸の中がソワソワと落ち着かない。

 たった数回、下の名前で呼ばれたくらいで変に意識しすぎなのはわかっている。でも、田屋に名前を呼ばれると、これまで感じたことのない感覚が胸に広がるような気がする。

 自分が作った料理を食べさせたいのは、一も二もなく下宿のみんなだ。けれど、もっと違う次元で田屋にも食べてもらいたいと感じている、この感覚の意味は……。

 そこまで考えて、すみれは小さく頭を振った。いま一番に考えなければならないのはマルちゃんのこと。彼と、彼が手作りスイーツを食べさせたいと思っている相手のことだ。

 ――喜んでくれるといいね。頑張って、マルちゃん。

 鼻歌なんて口ずさみながら上機嫌で片付けを進めるマルちゃんに心の中でそっとエールを送って、すみれも洗い物の手を動かす。ややして片付けが終わっても、台所にはしばらく、プリンを蒸したときの甘く優しい匂いがほのかに漂っていた。


 *


 数日後――。

「スミレ、ありがとう。ありがとう」

「……わっ。マ、マルちゃん!?」

 その日、大学から帰ってきたマルちゃんは、玄関先で出迎えたすみれを見るやいなや、そう言ってギュッと抱きついてきた。いきなりのことに戸惑うすみれだったけれど、肩越しにマルちゃんの心底安堵した深いため息が聞こえて、ああ、うまくいったんだなと理解したすみれは、彼の背中に腕を回し、ねぎらうようにトントンと優しく叩いた。

 先日作った試作のゼリーやプリンは、下宿のみんなに大好評だった。一日遅れで出来上がった砂糖漬けも試食してもらったのだけれど、こちらも『このキレイなのは⁉』『本当に食べてもいいの⁉』と、初めて見る砂糖漬けに興味津々の様子だった。

 そんなみんなに手ごたえを感じたらしいマルちゃんは、砂糖漬けを出した晩、すみれに言った。『今度はボクが一から自分で作ってみたい。スミレは見ててくれる?』と。

 庭のスミレはまだまだ花盛りだし、スイーツ作りのために揃えた材料も使い切っていなかった。なによりマルちゃんの思いに感銘を受けたすみれは、三つを同時に持っていけるように、まずは一日寝かせる必要がある砂糖漬け作りから見守ることにした。

 翌日は寒天ゼリーとプリン作りに励む姿を見守り、そうして今日――。

「元気が出たって。気持ちが嬉しいって。スミレのおかげだよ。ありがとう」

「ううん。マルちゃんが一生懸命、頑張ったからだよ。よかったね、気持ちが届いて」

 グスンと鼻を鳴らしたマルちゃんに、すみれの目頭にも熱いものがこみ上げた。


「ボクね、自分で作ってみて改めてスミレの気持ちがわかったような気がするんだ。なにを作ったら喜んでくれるか、おいしく食べてもらうにはどうしたらいいか。スミレはいつも、たくさん、たくさん、ボクたちのことを考えてくれてたんだネ。料理を作ってる時間も愛おしいけど、なにを作るか、どう作るかを考える時間も愛おしいんだって気づくことが多かった。だからスミレ、スペシャルな経験をさせてくれて、ありがとネ」

 やがて落ち着いたマルちゃんは、空になって返ってきたタッパーやゼリーやプリンの容器を眺めながら、そう言ってすみれに、はにかんだ笑顔を見せた。台所の食卓テーブルに向かい合って座り、淹れたてのコーヒーに一口、口をつけたところだった。

「いいんだよ、そんなの。最近、マルちゃんの様子が少し変だったから心配してたけど、その人も、マルちゃんも元気になってくれて嬉しいの。それだけで私は満足だよ」

 そう言葉を返すと、マルちゃんは「そのことなんだけど……」と、やや口ごもる。すぐに、これまでのことを話してくれようとしているんだなと感じたすみれが、再び彼の口が開くのを静か待っていると、ややして意を決したようにマルちゃんが顔を上げた。

「ボクの友だちにカナエって子がいてね、少し前から急に元気がなくなっちゃったンダ。わけを聞いても最初は話してくれなかったけど、それからボクがカナエ以上に元気がなくなっちゃったのを見て、話さなきゃと思ったんだと思う。やっと話してくれたんだ」

 それが、早朝に『スミレの庭が死んじゃう!』と彼が騒いだ頃と前後するという。

 夜も眠れないほどカナエのことで思い悩んでいたマルちゃんは、早朝の庭でふらふらと歩きながら物思いに耽っていた。すると、鼻を突く嫌な匂い――ドクダミの葉を踏んでしまい、焦ったマルちゃんはすみれを叩き起こしたということだった。

 その後、元気がないように見えたり、反対に元気すぎるくらいに見えていたのは、どうやってカナエを元気づけてあげたらいいか考えていたからだという。

 元気がないところを見せれば、すみれや下宿のみんなが心配してしまう。だからできるだけいつもどおりにしていたつもりだったけれど、うまく隠しきれなかったとマルちゃんはバツが悪そうに笑い、だったら最初から言えばよかったねと申し訳なさそうにした。

「ううん、そんなことない。で、そのカナエさんは、どうして落ち込んでたの?」

 聞くとマルちゃんは、コーヒーカップを両手で握りしめる。

「失恋……しちゃったんだって。遠距離だったみたいで、カナエ、距離に負けちゃったみたいだねって。そう言って泣きながら笑ったんだ。……ボクには母国に残してきた恋人はいないヨ。だから遠距離恋愛のつらさは、全部はわかってあげられないかもしれない。けど、いつも明るくて、本当によく笑う子だったカナエが泣きながら笑ったんだヨ。失恋の痛みを抱えながら、それでもボクに『心配してくれてありがとう』って言ったんだ。そんなの、どうにかして元気づけてあげたいって思って当たり前デショ……」

「……そうだったの」

「カナエはボクがニッポンに来て初めてできた日本人の友だちなんだ。カナエのおかげでほかにも日本人の友だちがたくさんできた。もしカナエがいなかったらと思うと、いまでも少し怖いヨ。だからボクも、カナエのためになにかしてあげたかったんだ」

「それが、スミレの花を使ったスイーツだったんだね?」

「うん」

 カナエ、甘いものもキレイなものも大好きだし。そう言ったマルちゃんの頬や耳が少しだけ赤い気がしたのは、いまは気づかなかったことにしようと思う。

 でも、これで、これまでのマルちゃんらしくない様子の意味がわかってほっとした。大事な友だちを元気づけてあげたい一心で知恵を絞り、スイーツをひとりで作り上げたマルちゃんの行動力と思いの大きさが、きっと彼女にも届いていることだろう。

 料理を作っている時間も、なにを作るか、どう作るかを考えている時間も愛おしいと感じたなら、マルちゃん自身が自分の気持ちに気づく日もそう遠くはないような気がするけれど……こればっかりは、すみれや周りがあれこれ手を焼いてはいけないことだ。

 これからのふたりの展開をそっと見守っていこう。そう思うすみれだった。


 *


「こんにちは」

「ようこそ、すみれさん。本はどうでした?」

 それから数日して、本の返却日。返却カウンターで本を返し、田屋の姿を探すと、彼はまるでそこが自分の定位置のように園芸コーナーの本を整理していた。

「とってもよかったです。見てください、こんなふうに出来上がったんですよ」

 そんな田屋に、らしいなと思いながら近寄り、スマホを操作すると、マルちゃんと作ったゼリーやプリン、花の砂糖漬けの画像を見せた。

本当は実物を差し入れしようかとも思ったけれど、怖くてできなかった。まだたったの二回しか顔を合わせたことのない相手に対して馴れ馴れしいだろうかと悩みもしたし、部外者の自分が差し入れたところで体よく断られたら合わす顔がないとも思った。

 それに、言い訳になるけれど、庭のスミレはもう残っていない。近所を探せば咲いている場所を見つけられるかもしれないと思ったものの、そうまでして作ったものを受け取ってもらえなかったときのショックを考えると、やっぱり怖さが先に立ってしまった。

「……僕のぶんは?」

「え?」

「てっきり試食――いえ。おいしそうですね。今度はぜひ、僕にも」

 すると田屋の表情が、しょんぼりしたり焦ったり、一気に忙しくなった。

 けれど、すみれが田屋の言葉を頭で理解し、意味がわかって感情が追いつくまで少しの時間がかかっている間に、当の本人はすでにいつもどおりの表情に戻っている。

 焦るのは、今度はすみれだ。

「え、あ――は、はい……」

「楽しみに待ってますね」

「……こ、今度は必ず」

 余裕にさえ見える田屋の柔らかな笑顔と、殺し文句にも近いそんな言葉に、すみれはそれだけを言うので精いっぱいだ。当然、あっという間に顔どころか耳まで熱くなっていって、思わず田屋から顔を隠すようにしてうつむいてしまう。

 なんだか無性に恥ずかしい。あれこれと先回りして心配事ばかりを数えていたことも、安全策をとって出来上がった写真だけを見せたことも、本当は実物を差し入れしたかったことも、全部をわかった上で、田屋のほうからすみれの気持ちに寄り添ってくれたような気がして、どうにも胸がそわそわと落ち着かない。

「はい。ぜひ」

 そう答えた田屋の声はどこまでも柔らかく優しげで、そんなすみれの心の一挙一動を包み込んで余りあるほどの深さと奥行きがあった。

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