「へえ、それは知らなかったな。いつも前を通ってたのに」

「門には〝たちばな荘〟としかないですからね。わざわざ立ち止まって離れの表札を見たりもしないですし。なので、こういう字を書くんだって言うと、みなさん驚かれます」

 すると田屋は、なるほどという顔をしたあと、顎に手を添えて考える仕草をした。

「――じゃあ、こういう本はいかがですか?」

 少しの黙考ののち、そうして見せられた本のページには、スミレの写真が載っていた。薄紫の可憐な花とハートの形がかわいらしい葉が、すみれの目に飛び込んでくる。

「すみれさんの名前にちなんで、ゼリーなんてどうでしょう? 鑑賞するだけだと思われがちですけど、花は生食できますし、デザートに出せば喜ばれるんじゃないでしょうか。スミレの花の砂糖漬けなんかも、きっとかわいらしいんじゃないかと思います」

 見ると隣のページには、目にも涼やかなゼリーのレシピが載っていた。本では梅酒に寒天を加えているけれど、ほかのものでも応用が利きそうだ。生食できるのであれば、ホイップクリームを乗せたプリンにアクセントとして添えるのも、きっとかわいいだろう。

 なにより、今の季節にスミレはぴったりだ。普段は通り過ぎるだけの道端や土手にも、そういえば庭の草の間にも、探そうと思えば案外、近くで見つかる身近な野草だ。

「いいですね、これ。作るのも簡単そうです」

「それはよかった。食べられる花の魅力の一つは、目でも楽しめるところですよね」

「ですね。ふふ。なんだか天然のエディブルフラワーみたいです」

「ほんとですね」

 そうしてすみれは、今回は《季節の摘み菜レシピ》という本を借りて帰ることにした。特別、食用花に焦点を当てた本というわけではなさそうだけれど、自分の名前と同じスミレが載っていることと、田屋が選んでくれた本だということが借りる決め手になった。

 どうぞ、と差し出された本を受け取ると大事に胸に抱え、田屋に頭を下げて貸し出しカウンターへ向かう。頭の中にはすでに、スミレの花を添えたゼリーやプリンに目を輝かせるみんなの顔が浮かんでいる。さっそく今日、夕食のデザートに出してみようか。ゼリーもプリンも、材料なら揃っているし。そう思うと、自然と口元に笑みが広がっていく。

「あ、すみれさん」

 すると田屋の声が追いかけてきた。

「よかったら、また感想を聞かせてください」

 はい? と振り返ると、そう言ってにっこり笑った田屋が、胸の下で小さく控えめに手を振っていた。そんな田屋に「もちろんです」と笑って、すみれも小さく手を振り返す。

 最後に一礼してカウンターに向かいながら、今回も貸し出し期間は一週間にしようとすみれは思う。いろんなレシピをじっくり試すのもいいけれど、早く感想を伝えたい。

「ふふ」

 一週間後、どうだったかと尋ねる田屋の顔が今から浮かんで、すみれは小さく笑った。


「そういえば〝すみれさん〟って……」

 すみれが田屋に下の名前で呼ばれたことに気づいたのは、下宿に戻り、庭先でさっそくスミレの花を探しはじめたときだった。庭のところどころに生えている草を手で分けながら薄紫色の花を探していると、唐突に田屋の声が思い出されて、その拍子に名前で呼ばれたことに気がついた。普段からみんなに名前で呼ばれていることもあって、しばらく意識の外にあったけれど、いったん気づいてしまうと胸の奥がなんだかこそばゆい。

 田屋にとっては〝すみれ〟と聞いて植物のスミレが連想されただけなのだろうけれど、こちらとしては、下宿人のみんな以外からはなかなか下の名前で呼ばれることがないだけに、あんまり自然に呼ばれたせいで、田屋の笑った顔が頭から離れない。

「スミレ、なにしてるの?」

「わあっ!」

 そんなとき後ろから声をかけられ、すみれは自分でも思いがけなく大きな声が出てしまった。振り返るとマルちゃんが微苦笑を浮かべながらこちらを見下ろしている。

「なんだかスミレ、悩んでそうだったから……」

 すみれが目をしばたたかせていれば、そう言って隣にすとんと腰を下ろす。

「ありがとね、マルちゃん。でも、悩んでたんじゃないの。ちょっと嬉しいことがあったんだけど、そのことに遅れて気づいて、手が止まっちゃってただけなんだ」

「嬉しいこと? それで庭でしゃがんでたの?」

「そう。スミレの花を探してるの。またすてきなレシピが載ってる本を借りてきたから、さっそくみんなに食べてもらいたいなと思って。マルちゃんもやってみる?」

「そういうことネ! それならボクにも手伝わせてヨ」

「もちろん。ありがとう」

 さっそく手で草を分けはじめるマルちゃんの横で、すみれはほっと胸をなでおろす。

 マルちゃんには少しだけ嘘をつくような形になってしまったけれど、詳しくわけを聞かれなくてよかったなと思うし、聞かれてもうまく答えられなかったような気がする。

 だって、とっさに〝嬉しいこと〟と答えたけれど、それ以上に、こそばゆい。このなんとも言えない感覚は一体なんなのか、すみれはまだよくわからないでいる。

「今度はなにを作るつもりなの?」

「ふふ。それは、できてからのお楽しみ」

「んもー。この前もそうだったじゃん。でも、スミレが作るものは全部おいしいんだけど」

「あは。ありがと」

 それなら今回も気合いを入れて作らないと。マルちゃんやみんなのために、田屋に感想を伝えるために。そう思うと、スミレの花を探す手にも気持ちが入る。

「ところで、マルちゃんはどうしたの? こんな早い時間に帰ってくるなんて珍しいね」

 そういえばと不思議に思い、マルちゃんに尋ねる。

 今は午後二時を回ったあたりだ。普段ならみんなはまだ大学に行っているし、マルちゃんだってもちろんそうだ。とりわけ気さくで陽気なマルちゃんは交友関係も広く、日本人の友人も多い。そんな彼がこの時間に戻ってくるなんて、どうしたのかと心配になる。それに、この前からたびたびマルちゃんの様子にいつもと違う点が見えていた。

 もし悩みがあるなら話してほしいし、一緒に解決策を考えたい。たとえすみれの力が及ばないことだったとしても、気にかけていることだけは知っていてもらいたいと思う。

 ただマルちゃんは、心配をかけさせまいとして気を回しすぎるところがある。心配していると悟られないよう、すみれはできるだけ普通の調子を心がけ、話の矛先を向けた。

「……ねえスミレ、この花でなにを作るかはわからないけど、ボクも一緒に作っていい? もちろん邪魔にならないようにする。それで、できればだけど……ひとつくれる?」

 すると、花をひとつ摘んだマルちゃんが瞳を揺らしてこちらを見た。

「え……」

 思ってもみなかった頼み事と、あまりに切なげな瞳に、すみれはしばし言葉を失う。

 けれどマルちゃんは、今まで見たことがないくらい思い詰めた目をして、すみれの反応をうかがっている。もしかしてマルちゃんは、自分のことじゃなくて誰かのことで真剣に悩んでいたのだろうか。ここ最近、ずっと。そう思うと、マルちゃんのためにも、彼が思う誰かのためにも、この突飛な頼みごとを聞き入れないわけにはいかない。

「いいよ。これから作ろうと思ってたのは、スミレの花を添えたゼリーかプリンだったの。もっと集まれば花の砂糖漬けも作れたらなって思ってたんだけど、どれがいい?」

 笑って尋ねると、マルちゃんはパッと表情を明るくして「全部!」なんて言う。そんな変わり身の早いマルちゃんに「もう!」と言いながらも、内心ですみれは、やっとマルちゃんらしさが戻ってきたなとほっと胸をなでおろす。

 ちょっと調子がいいところもあるけれど、こうでなければ彼じゃない。マルちゃんが思う誰かも、そんな彼の明るさに触れて笑顔になってくれたら。その手助けができることを嬉しく思いながら、すみれもマルちゃんに負けないようにスミレの花を探した。


 一時間もすると花はだいぶ集まり、小ぶりの竹ざるにキッチンペーパーを敷いて収穫していたそれは、かわいらしい紫の花でいっぱいになった。最後にミントの代わりに葉も摘むと、マルちゃんとすみれはどちらからともなく目を見合わせ、微笑み合った。

「プリンにゼリーに、砂糖漬け。どれもできるネ!」

「だね。それにしても、こんなにも庭にスミレがあったなんて、ちょっと予想外だよ」

「この前はドクダミだったしネ。でもボクは、臭いだけだと思ってたあれがおいしいことのほうが予想外だったヨ。あのときはホントにスミレの庭が死んじゃうと思ったし」

「あはは。まだ言ってる」

 でも、それがなければ、野草を食べてみようだなんていう発想には、今も至っていなかっただろう。図書館に行くことも、そこで田屋に出会うことも、きっとなかったはずだ。

 そう思うとすみれは、つくづく不思議な巡り合わせだなと感じる。

 これまでは手入れをしなきゃと思って庭に出ていただけだったのに、明確な目的を持って庭に出る日が来るだなんて、ちょっと前の自分からは想像もつかない。

 そのきっかけを作ってくれたのはマルちゃんだ。竹ざるの中のスミレに目をやり、もう一度、庭を見まわしてみる。すると猫の額ほどのそこが一気に宝箱のように思えてくるのだから、おかしくなって、ついつい「ふふ」と笑い声がこぼれてしまう。

「なに笑ってるの?」

「ううん、なんでも。じゃあ、ちょっと早いけど晩ごはんの買い物に行こっか。全部作るならプリンに乗せるホイップクリームを買わなきゃだし、今日はお米と牛乳が安いの。メニューもまだ決めてなかったから、リクエストがあればなんでも作るよ」

「荷物持ちのお礼に?」

「あ、バレた?」

 そうしてふたりは、出かける支度を済ませると近所のスーパーへ向かった。普段の買い物は自転車を使っているけれど、あいにく一台しかないので徒歩だ。でも、荷物もかさばることになるだろうから、たまには歩くのもいいかもしれない。

 いざ買い物をはじめると、男手があると普段は躊躇してしまうような重いものも大胆にカートに乗せられ、あれもこれもと、ついつい手に取る商品が多くなってしまった。

 それを見たマルちゃんに「もうこれ以上は腕が取れちゃうヨー」と泣きつかれたりもしながら目的の材料を揃えると、下宿に戻ってさっそくスイーツ作りに取りかかる。

「じゃあ、マルちゃんは、その鍋に粉寒天を入れて煮溶かしてくれる? 火加減は、そうだな……グツグツ沸騰しないくらいの中火がいいかな。はい、ヘラ」

「ありがと、スミレ」

 梅酒と、梅酒の四倍の水を入れた鍋を用意したすみれは、あらかじめ計量していた粉寒天の小皿とヘラをマルちゃんに渡すと、プリン作りの材料をテーブルに並べはじめた。

 スミレの花の寒天ゼリーは、本によると、粉寒天が溶けたら鍋の中の材料を器に移して冷蔵庫で冷やし、固まりかけたところに花と葉を置き、さらに冷やせば完成らしい。火にかけることで梅酒のアルコールも適度に抜け、味も見た目も涼やかなデザートとなる。

 また、本に載っていたのは梅酒だけだったけれど、ほかにも大人にはワインや日本酒、お子様向けにはジュースやサイダーなど、いろいろな飲み物で応用できそうだ。

 自分の作業のかたわら、マルちゃんの様子をうかがうと、普段からすみれの手伝いをしてくれいるおかげで鍋の中身をかき混ぜる手つきは見ていて安心するものだった。少し火が強いと見えると自分で火加減を調整するところといい、このまま任せて問題ない。

 真剣な横顔は、それだけ思いが強いことの表れだ。どうかマルちゃんの思いが届きますようにと願いながら、すみれも本格的にプリン作りに取りかかることにした。

 そのプリンは、まず、カラメルソース作りからだ。鍋に砂糖と水を適量入れ、こげ茶色の液状になるまで強火で熱する。それを用意していたプリン容器に流し入れておく。

 次にボウルに牛乳と砂糖と、よく溶いた卵液を入れ、混ぜ合わせてプリン液を作る。目の細かいし器で四、五回漉し、カラメルソースが入ったプリン容器に分け入れて周りの泡をスプーンや竹串できれいにする。それらを鍋やフライパンに並べ、容器の半分程度まで水を入れて加熱する。水が沸騰したらアルミホイルを容器にかぶせて蓋をし、弱火にして十分から十五分ほど蒸せば、出来上がり間近だ。

 粗熱が取れたら冷蔵庫で冷やし、最後にホイップクリームやスミレの花でデコレーションをすれば、かわいらしいスミレのプリンの完成となる。

「スミレ、寒天が溶けたよ」

「はーい」

 ちょうどカラメルソースを容器に入れ終えたところでマルちゃんから声がかかり、すみれは彼をゼリー用に出していた耐熱ガラスの容器の前に手招きした。

「じゃあ、鍋の中身をこれに移そっか。粗熱を取ったら冷蔵庫でちょっと冷やして、固まりかけたところに花と葉っぱを置いてまた冷やせば、寒天ゼリーの出来上がりだよ」

「りょーかい!」

 おたまを渡すとマルちゃんは真剣な顔つきで耐熱容器へ中身を移していく。どうやら均等にしたいようで、大きな体で小さな容器と睨めっこする姿は、なんだかかわいらしい。

 その間にすみれはボウルで卵をよく溶き、牛乳と砂糖を加えて混ぜ合わせる。もうひとつボウルを用意すると、交互に使いながらプリン液を漉し器で三回、四回と漉していく。

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