その日の夕食は、そうして大盛況のうちに終わった。みんながひとつ残らずきれいに食べてくれた大皿の上には、余分な油を吸い取ったキッチンペーパーだけが残っている。

「それにしても、みんながあんなに夢中になってくれるなんて思いもしなかったなあ」

 後片付けをしながら、思わず独り言がこぼれる。

 ちらと振り返ると、田屋から押し付けられるようにして借りてきた《食べておいしい野草図鑑》は、居間のほうで食後の団欒をしている下宿人のみんなのところで引っ張りだこになっているらしく、テレビの音がかき消えるほど、後ろがいつになく賑やかだ。

 そんな彼らの様子を見て、すみれは改めて嬉しい誤算だったなと思う。

 自国で日本の文化や食、アニメなどに触れて興味を持ったり好きになったり……そうして日本を留学先に選ぶ学生は多い。すみれの下宿屋にやってくる学生たちも、どうせ住むなら日本らしい家に住みたいと、わざわざ日本家屋で下宿をやっているところを仲介してもらう人も少なくない。そんな彼らのおかげで、この下宿はいつも満員だ。

 それでも、春の七草や、菜の花やヨモギといった、彼らでも知っているようなメジャーな野草ならまだしも、普段は気にも留めないような野草を――簡単に言ってしまうと〝雑草〟とひとくくりにしてしまうようなものを、こんなにも気に入ってくれるなんて、どこでどんなことが起こるかわからないものだなと、すみれはしみじみ思う。

「スミレ、ごめんね」

 そこへみんなの輪を抜けてきたマルちゃんが隣に立った。

「今日のお弁当、あんまり食べられなくて、友だちに食べてもらったんダ。だから弁当箱を洗ってるスミレを見たとき、胸が苦しくてなって、すぐに部屋に行っちゃっタ」

 なにが〝ごめん〟なんだろうと「ん?」と隣のマルちゃんを見上げれば、彼は、ぽそぽそとそう言って、叱られる前の子どものような顔をした。

「せっかくスミレが作ってくれたのに……」

「そうだったの」

 そんなマルちゃんに、だから様子がいつもと違ったんだなと合点がいく。

 いつも元気いっぱいな反面、気を回しすぎるところがあるだけに、弁当を全部食べきれなかったことで、すみれに合わせる顔がなかったのだろう。特に今日は朝から唐揚げを揚げるという、いつにも増して気合いの入った弁当だった。すみれからすると、そんなことは気にする必要なんて少しもないのだけれど、マルちゃん本人は違ったようだ。

「その友だちは、おいしかったって?」

 しょんぼりと肩を落とすマルちゃんに微笑して、すみれは尋ねる。

「……え? ああうん、すごくおいしいって。スミレ、怒らないの?」

「ふふ。怒るわけないよ。むしろ言ってくれて安心した。だって帰ってきたときのマルちゃん、なんだかいつもと様子が違ったんだもの。そういうことかってわかって、私のほうがホッとしたよ。それよりマルちゃんはいま、お腹いっぱい?」

「う、うん、そりゃあもう満腹だけど……」

「じゃあ、なんの問題もないじゃない。いま満腹なら、私はそれだけで嬉しいよ」

「……うん、ありがと」

 まだ納得がいっていないのか、微妙な顔で笑うマルちゃんに、すみれも笑う。

 でも、本当にそうだ。全部は話せないかもしれないし、もしかしたらこれ以上は話したくないかもしれない。それでも話してくれたことがあるだけで嬉しい。なにより、いまマルちゃんのお腹がいっぱいであることが、すみれの心を幸福で満たしてくれる。

 そして、マルちゃんの心も、少しだけでもいいから満たされていたらいいなと思う。

「……ねえスミレ。ボクも手伝っていい?」

「もちろん」

 そうして、ほかのみんなの賑やかな声を背中に受けながらした後片付けは、いつも手伝ってくれるおかげで手際よく動いてくれたマルちゃんがいて、すごく助かった。


 *


 それから一週間。

 まだなおドクダミの天ぷらの興奮が冷めない中、すみれは図書館にいた。ひとまず《食べておいしい野草図鑑》の貸し出し期限を一週間にしていたので、返すためだ。

 借りるときは、ほとんど半信半疑だったのに、返却カウンターに本を出すと名残惜しい気持ちになるのだから、すみれは、そんな自分が少しおかしい。どうやら下宿人のみんなと同様、すっかり〝食べる野草〟の面白さや新鮮な発見に魅了されてしまったようだ。

 あれからも何度かドクダミの天ぷらをリクエストされて、今では庭のドクダミは葉がほとんどなくなっている。可愛らしい白い花も、食べたり脱臭に役立ったり、目を楽しませてくれたりと、大活躍だ。体質もあるため食べる量には注意が必要だということだったけれど、幸いにもみんな体調になにも問題はなく、むしろ前より元気な気さえする。

 何はともあれ、庭の一角は《食べておいしい野草図鑑》と、気に入って天ぷらを食べてくれるみんなのおかげで小ぎれいになった。一週間前はどうやって駆除しようと頭を悩ませるばかりだった庭の侵入者は、こうして歓迎され、もてはやされている。

「こんにちは。えーと、覚えてますか? 先週、本をおススメしてもらって……」

 館内をふらつき、田屋の姿を見つけると、すみれはその背中に声をかけた。ドクダミ活用の立役者である彼に、どうしても直接、お礼を言いたかったからだ。

「ああ、あのときの。どうでした? よかったでしょう?」

 顔を見てすぐにピンときたらしい田屋は、「その節は本当にどうもありがとうございました」と頭を下げるすみれに物腰柔らかな調子で尋ねる。どうだったかと聞いておきながら、ハズレなわけがないという自信ものぞかせる調子にすみれは少し笑ってしまう。

「おかげさまで大満足でした。庭のドクダミをどうにかしようと思って本を探しに来たんですけど、おススメしていただいた本のおかげで料理のレパートリーも増えましたし、みんな〝おいしい、おいしい〟って食べてくれて。――あ、私、近所で外国人専門の下宿屋をやっているんです。みんなっていうのは、下宿人のみんなのことで」

 すみれは、この一週間の出来事をかいつまんで報告した。

 すると田屋の顔がみるみる興奮に満ちていく。

「もしかして『たちばな荘』のことですか? そこ、僕の通勤ルートですよ」

「そ、そうなんですか?」

「はい。四月からここで働きはじめたんですけど、『たちばな荘』のことはよく同僚から聞いていたんです。いつも賑やかで楽しそうで、前を通るたびにほんわかした気持ちになるって。僕も通勤で通るたびに、ここが噂の『たちばな荘』かあって思っていたんですけど――そうだったんですね、そこの方だったんですか。世間は狭いものですね」

「噂の……かどうかは、わかりませんけど、はい。『たちばな荘』は私の母方の祖父母が始めた下宿なんです。もう閉めようかって話も出たんですけど、私があとを継ぎました。ひとりでもなんとか切り盛りできているのは、心温かい下宿人のみんなのおかげです。それにしても、ほんと世間は狭いですね。どこかでニアミスしていたかもしれません」

「ですね。あー、びっくりした」

「ふふ。私もです」

 先ほどまでの興奮した様子からは一変、しみじみと感じ入るように言う田屋に、すみれもまったく同じ気持ちを抱く。まさか彼が下宿の前を通勤ルートにしていたとは思ってもみなかったから、思いがけない巡り合わせに心臓がちょっとうるさいくらいだ。

「……あの。ところで今日は、どんなご用事で?」

「借りた本を返しに来たんです。貸し出し期限を一週間にしていたので、ちょうど今日がその日で。それと、とってもよかったですって直接お礼を言いたくて。ほかにもおススメがあったら借りたいなって思ってもいるんですけど、ありますか?」

 少し赤い顔をして尋ねる田屋に、すみれもつられて顔が熱くなりながら尋ねる。

 ほかにもあるなら、ぜひ借りてみたい。できれば田屋のセレクトで――とは、ちょっと勇気がなくて喉の奥でつかえてしまったけれど、彼がおススメする本なら間違いないはずだという気持ちが、この一週間でしっかりとすみれの心に根付いている。

「うーん、おススメですか。――あ、じゃあ、一緒に選びましょうか。せっかくこうしてお越しいただいてますし、どういう系統がいいか好みもあると思いますから」

「あ! その手がありましたね。じゃあ、お願いしてもいいですか?」

「もちろんです。では、ご案内しますね」

 どうぞこちらです、と館内を誘導してもらいながら、「系統なんてあるんですか?」「ありますよー。和風寄り、洋風寄り、あと変わり種も」「変わり種って?」「スギナの佃煮風とか」「スギナ⁉」と小声でやり取りをする。斜め後ろから見える田屋の表情はとても楽しそうで、そんな田屋を見ていると、すみれもだんだん楽しくなってくる。

 きっと仲間が増えて嬉しいのだろう。すみれはまだまだ〝食べる野草〟の魅力や面白さに片足を突っ込んだくらいだけれど、田屋があんまり嬉しそうなものだから、このままどっぷりと沼にはまってみるのもいいかもしれない、なんて思う。

「さて。この辺が和風寄りですかね。以前お貸しした本より種類も多いですし、効能や薬効も詳しく書いてあります。で、これらが洋風寄りです。サラダにパイに、ポタージュ、アイス。トーストも載っていますね。どの本もおススメなんですけど……そうだなあ、同じに見えても食べられなかったり毒性があったりするので、初心者の方だと見分け方が載っている本のほうがいいかもしれません。そういう点で選ぶ手もありますね」

 園芸コーナーに着くと、田屋はそう言いながら棚から一冊、一冊、本を取り出し、パラパラとめくって見せてくれた。そもそも〝食べる〟という発想がなかったことと、あのときはほとんど強引に《食べておいしい野草図鑑》を押し付けられたので、棚にはほかにどんな本があるか見る余裕もなかったけれど、こうして見ると意外にも種類が多い。

 持ち運びに便利なポケットサイズもあれば、著者のエッセイが載っているものもある。本の厚みも様々だし、より図鑑らしいもの、レシピに力を入れたものなど、一口に〝野草の本〟といっても、それぞれの本によってカラーが違っている。

 一番おもしろいのが、同じ野草でも本によって切り口が違うところだ。

 こちらの本では酢の物やあえ物、おひたしとしてレシピが載っているのに、こちらではコロッケやグラタンになっていたり、花もサラダにして生食している本もあれば、レアチーズケーキに乗っていたり、茹でて大根おろしと和えていたりと、見比べるのも楽しい。

「スギナの佃煮風って、これのことですね」

「そうそう。つくしも同じようにして食べられます。佃煮として白いご飯のお供にするのも王道でいいですけど、ひと手間加えてペペロンチーノなんかもいけますよ」

「へえ。アレンジもできるんですね。すごい、やっぱり野草っておもしろいなあ」

「ほんとですよね。知れば知るほど奥が深いっていうか」

 スギナが載っているページを見つけ、嬉しくなってつい田屋に見せると、田屋も本を覗き込むようにしてページに目を落としたため、距離がぐっと近くなる。本に影が差し、田屋の優しげな声が耳元で聞こえた。その拍子に肩がわずかに触れて、耳がちょっと熱い。

「あ、すみません、近づきすぎました」

「いえ――それでおススメなんですけど、私に合う本って、どれだと思いますか?」

 いつの間にか触れ合うくらい距離が近かったことや、それに気づかないくらい本に夢中になっていた恥ずかしさも相まって、すみれは話の先を急いだ。

 和風、洋風、変わり種に、見分け方が載っているものと紹介してもらったけれど、やっぱりどの本を借りていったらいいか、すみれはいまいちよくわからない。効能や薬効については、現時点ではそれほど重要視する必要はない気もするものの、やはり素人の自分には見分け方がしっかり載っているもののほうが合っているのだろうか。

 でも、レシピがたくさん載っている本も捨てがたい。もともと料理は好きだし、下宿を継いだときからみんなの胃袋と健康を預かってきたので、レシピを見ていると、あれも食べさせたい、これも食べさせたいという気持ちが、むくむくと大きくなる。

 結局のところ、田屋に〝これ〟と選んでもらいたいのだけれど――残念ながらすみれには「田屋さんが選んでください」と言う勇気はない。それに加えて、田屋は田屋で、アドバイスはするけれど最終的に選ぶのはすみれだというような言い方だった。

 田屋のほうから一緒に選ぼうと言ってくれた手前、なんとなく肩すかしを食らったような気分だけれど、今のすみれには遠回しな言い方をするだけで精いっぱいだ。

 なにより、耳どころか頬まで熱い。

 マルちゃんやほかのみんなと体が触れても、これまで特になにも思わなかったのにと思うと、すみれは、自分でも持て余してしまうような感覚に襲われながらも、ますます顔に熱が集まってくるのをどうすることもできなかった。

「うーん、そうですね。あなたに合う――あ、お名前! 聞いていませんでした!」

 すると田屋は、はっと思い至るようにしてこちらに顔を向けた。続けて「申し遅れました、田屋稔たやみのるといいます」と、胸のネームバッヂをすみれに向けて恥ずかしそうに微笑む。

「私は、館花たちばなすみれといいます。図書館の〝館〟に野花の〝花〟で〝たちばな〟で、すみれはひらがなです。私、イギリス人ハーフの父と日本人の母のクォーターなんですけど、母と結婚するときに父が帰化したので、名前も和風になったんです」

「じゃあ『たちばな荘』の〝たちばな〟って、お母さまの苗字からなんですね」

「そうなんです。植物の〝橘〟だと思う方が大半なんですけど」

 そういえばそうだったと気づいたすみれも、笑いながら自己紹介する。

 これだけ野草の話をしてきて今さらな気もするけれど、基本プロフィールは意外に知らないものだ。特に田屋は、すみれの顔は知っていても名前なんてわかるわけもない。すみれだって、田屋の胸にネームバッヂが付いていなければ、こうして名乗り合うまで〝食べられる野草が好きな司書のお兄さん〟としか言いようがなかっただろう。

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