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「えっ、天ぷら⁉」
午後のがらんとした下宿に、すみれの驚いた声が響く。
結局、ぼーっと立っているところに別の人が本を探しに来たことで、本棚の前を動かなければならなくなったすみれは、田屋から渡された本を借りて帰ることにした。
狐につままれたような気分だったけれど、草を食べることに興味をそそられなかったわけでもなかったし、あれだけ『おいしい』と言っていたのだから、どんなものか試してみたいと思ったって不思議じゃないと自分の行動を正当化した結果だった。
掃除や郵便物の仕分けなどの下宿の仕事をひととおり終えた、午後二時の昼下がり。
晩ごはん作りまでのちょっとした休憩にと、台所の食卓テーブルについて《食べておいしい野草図鑑》を開いたのもつかの間、索引からドクダミが載っているページを探し出してまず目に入ったのが、綺麗なきつね色に揚がったドクダミの葉の天ぷらだったのだから、まさかの展開に驚いて思いっきり声に出てしまった。しかも花も天ぷらにして食べられるというのだから、さらに驚いたって仕方のないことだろう。
「……うそでしょ? あのわんさかが、こんなにおいしそうに?」
あんまり天ぷらがおいしそうで、ついつい前のめりで本に見入ってしまう。
ドクダミなんて、どうせお茶にするくらいがせいぜいだろうと高をくくっていたところがあっただけに、庭の厄介な侵入者が化けた姿は、すみれにとってひどく衝撃だった。
さらには脱臭効果もあるらしい。花をコップに差して冷蔵庫に入れたり、トイレに置いたりと、可愛らしく家を飾ることもできるというから、ドクダミ恐るべしだ。
もちろん、ドクダミ茶の作り方も載っている。
すみれが初めに危惧したとおり、腐りやすいことが注意する点であることと、お茶にするには根から抜かなければならないのが、なんとも骨が折れそうだけれど、
「まずは天ぷらにしてみて、残りは頑張ってお茶を作ってみようかな。あ、花で脱臭ならすぐにできるじゃん。確かまだ捨ててないジャムの空き瓶が二つ、三つ……」
すぐに実践してみたくなって、席を立つなり空き瓶を探しはじめる。
正直、ドクダミにこんな使い道があったなんて思いもしなかった。田屋に『草っておいしいんですよね』と本を渡されても、なし崩し的に借りて帰ることになっても、半信半疑な部分はどうしても拭えなかった。でも、この本があれば、もしかしたらほかにも厄介だと思うだけだった、いわゆる〝雑草〟が、彼の言ったとおり〝化ける〟かもしれない。
「こんなにワクワクすることってある?」
世界が広がるとは、こういう感覚のことを言うんだろうか。瓶を用意するとすぐに庭に下りてドクダミの白い花を摘みながら、すみれはもう楽しくて仕方がなくなっていた。
やがて夕暮れどきになるとともに、下宿人たちがひとり、またひとりと帰ってきた。
すみれが晩ごはんの支度をしている台所に「ただいまー」と直行した彼らは、めいめいに「今日も最高だったよ」とか「おいしかった」「ごちそうさま」などと言いながらテーブルの端に空になった弁当箱を置くと、食事の時間になるまで部屋で過ごしたり、居間で他愛ない会話をしたりテレビを見たりしながら過ごすのが、ここの日常風景だ。
そんな彼らを微笑ましい気持ちで眺めつつ、料理の片手間に弁当箱を洗うのがすみれの習慣だ。弁当を残してくることは本当に稀だけれど、残っていたら心配するし、すっかりきれいに完食していれば、今日も楽しく過ごせたんだと感じられて安心する。
とりわけここは外国人専門の下宿だ。すみれも、彼らを大学へ送り出せばあとのことはわからない。慣れないことや戸惑うことが多い中で一生懸命に日々を生きている彼らに持たせる弁当は、だからこそ朝の忙しいときでも誠心誠意、リクエストに応えたいし、食べておいしいことはもちろん、目でも楽しませたいと、すみれはいつも思う。
そうして返ってきた弁当箱を見ることで読み取れることは、意外にも多い。弁当が彼らの精神の健康を測るバロメーター的役割を果たしているところは大きいだろう。
「ふふっ」
洗いながら思わず笑い声がもれる。今日もみんな完食だ。よかった、よかった。
「ただいまー。ごめんスミレ、ちょっと遅くなっちゃった」
「おかえり。遅くなんてないよ。まだご飯だって炊けてないし」
「なら、よかった」
そこへマルちゃんが帰ってきた。どうやら今日は彼が一番遅かったらしい。
みんなと同じように台所へ入ってきたマルちゃんは、いつものようにカバンから弁当箱を取り出し、みんなの弁当箱を洗っているすみれのもとへ自分の弁当箱と箸を持ってきてくれた。けれど「お願いね」とだけ言い置いて、そのまま部屋へ向かっていってしまう。
「マルちゃん……?」
なんだかマルちゃんらしくない行動に、すみれはしばし首をかしげる。普段のマルちゃんなら率先してすみれの手伝いをしてくれるだけに、どうしたんだろうと思う。
今朝のドクダミのように早とちりをすることもあるけれど、いつも元気いっぱいで、気さくで、反面、こちらが申し訳なくなるくらい気を回してくれるのがマルちゃんだ。
すみれが弁当箱を洗っているところを見てもそのまま部屋に向かうなんて、よっぽど急いでいたり忙しかったりしなければ、まずしないし、そのときは、きちんと理由も言ってくれる。普段は配膳の手伝いも進んでやってくれるし、それになにより、いつもならすぐに下宿のみんなが集まっている輪に加わるマルちゃんが、今日はそれもない。
「……」
今日は疲れているのだろうか。マルちゃんの背中がどことなく元気がないようにも感じられて、すみれは少しの間、弁当箱を洗う手が止まってしまっていた。
けれど、その後のマルちゃんの様子は、普段と別段、変わりなかった。
「今日は天ぷらだよー。ちょっといつもと違うんだけど、どこが違うか当ててみて」
そう言って、みんなが待ちきれない様子で席についている食卓テーブルへ、例の天ぷらを大皿に盛ってドンと出せば、真っ先に食いついてくれたのはマルちゃんだった。
「えー、なんだろう。この緑色は葉っぱだよね。……シソ?」
「それは食べてみてからのお楽しみ」
「ヒント! ヒントちょうだい」
「うーん。普段は食べないもの? いや、食べ方を知らなかったもの、かな」
「えー。ヒントじゃないヨ、それ」
すみれのヒントとは言えないようなヒントに頬を膨らませながらも、きつね色の衣に包まれた緑色の正体を突き止めようと天ぷらを口に運ぶマルちゃんの顔は真剣そのものだ。
そんな彼を見て、今日はやっぱり疲れているだけなんだと、すみれは安心する。
誰にだってそんな日はあるものだ。いつもと少し様子が違ったからといって、無理にわけを聞こうとして逆にマルちゃんに気を使わせてしまっては、なんの意味もない。
「わかった、ヨモギでしょ! シソじゃないなら、この季節だとヨモギだよ!」
「残念。食べ方を知らなかったもの、って言ったじゃん。ヨモギはほら、お彼岸のときにヨモギ餅にして食べるでしょう。そういうのじゃないんだよなー、これは」
「ええー。わかんないよー、スミレー」
「ふふ。じゃあ、第二ヒントいこうかな」
「お願いシマス!」
天ぷらを一口食べるなり本気で答えるところも、不正解だとわかれば悔しそうにしながらもすぐに泣きつくところも、すみれが知るマルちゃんとなにも変わらない。
ただ、注意深く見ていようとすみれは思う。取り越し苦労に終わるなら、そのほうが断然いいに決まっている。でも、もしもそうではなかったら、一番苦しいのはマルちゃん本人だ。すみれにできることは限られているかもしれないけれど、少しでも力になれたらいいなと思う。そのためにすみれはいるし、下宿のみんなだっている。
「第二ヒントは、庭。庭の〝あるもの〟を天ぷらにしたの。なんだと思う?」
「もうなんだっていいよ。コレおいしいヨ、スミレ!」
「まだあるなら、もっと食べたい」
「あははっ。ちょっと待っててね、材料ならいっぱいあるから」
ある意味マルちゃんにしか当てられないようなヒントを出すそばから、ほかのみんなに〝もっと、もっと〟とせがまれたすみれは、庭へ向かうしかなくなってしまった。
マルちゃんには大ヒントだったけれど、本人はきっと、想像に及びもしないのだろう。庭で〝あるもの〟を調達しながら、ちらと食卓テーブルを振り返ると、マルちゃんはは天ぷらをゆっくりと咀嚼しながら、まだ「うーん、うーん」と唸っている。
第二便を欲しがるくらい〝おいしい、おいしい〟と食べている天ぷらの正体がドクダミの葉っぱだと知ったら、みんなは、マルちゃんはどんな顔をするだろう。
「ふふ。みんな、びっくりするだろうなあ」
相変わらず葉や花をプチプチと摘んだそばから強烈な臭いを放つドクダミをわんさかザルに入れながら、すみれはみんなの驚いた顔を思い描いてひとり笑った。
「ウソでしょ⁉ ボク食べちゃったんだけど! どうしてくれるの、スミレ!」
案の定、一番驚いたのがマルちゃんだ。彼は今朝、ドクダミの匂いを目の当たりにしていただけに、ザルに摘んだドクダミを見て目を丸くし、そして若干、怒った。
食べるようなものではないという先入観が先に立っているのだろう。あれだけ吟味して正体を突き止めようとしていたのに、生の葉や花を見るなり鼻に縦じわまで刻んでいる。
「まあまあ、そう怒らないで。どう? おいしかったでしょう?」
「そういう言い方はひどいデショ。まあ、おいしくなかったとは……言いきれないケド」
「ふふっ。でしょ、でしょ」
口を尖らせながらややこしい言い回しをするマルちゃんに思わず笑ってしまいながら、すみれは、でもこれがおいしく化けるとは誰も思わないよなと認めるしかない。素直においしいと言いたくないだけなんだとわかる言い方になってしまうのも、今朝のあの臭いを一緒に嗅いだ仲なら察して余りある。だって庭が死んでしまうと思うほどの臭いだ。
でも、すみれも食卓に出す前に試食をしてみたのだけれど、あの強烈な臭いからは想像もつかないほど、おいしかった。というより、おいしく食べられることそのものが、とても衝撃だった。油で揚げることで葉の青臭さが緩和され、あとにはマイルドな香りだけが残る。いくらでも食べられそうなくらい箸が進む。あのドクダミが、本当においしい。
花を試してみても、同じだった。食べておいしく、瓶に差せば脱臭効果もあるなんて、田屋に本を無理やり押し付けられなければ、けして知りえなかったことだ。
「……どこでこんな悪知恵を仕込んできたのサ」
「近所の図書館だよ。最初はドクダミを駆除することばっかり考えていたから、そういう本を探していたんだけど、司書さんが『発想を変えてみたら?』って、この本をおススメしてくれたの。《食べておいしい野草図鑑》っていうんだけど、そこに載っていたから、試してみたくなっちゃって。おいしく食べられるなら、そのほうがいいでしょう?」
まだ鼻に縦じわを刻んでいるマルちゃんに、例の本を見せる。
悪知恵だなんて人聞きが悪いなと思わないでもないけれど、拗ねた口調だから、やっぱりまだ、おいしいと認めたくないだけだということが丸わかりだ。
「へえ! すごいね、ニッポンは! ほかにもおいしい草ってあるの?」
そこに食いついてきたのは、ほかの下宿人たちだ。「貸して、貸して」とすみれから本を受け取ると、みんなで顔を寄せ合ってページをめくりはじめるから、おもしろい。
マルちゃん以外は〝ドクダミは臭いもの〟という意識がないせいだろう。生の葉を見ても特に驚く様子もなかったし、むしろすみれの想像をいい意味で裏切る食いつきぶりだ。
タンポポの葉っぱや花も天ぷらにできるらしいとか、道端で見かけるだけの草がジャムにもなるの⁉、こっちはゼリーだよ!、わあ食べてみたいなあ、などなど、ページをめくるたびに「おおー!」とどよめきが起こり、すっかり夢中になって眺めている。
「ふふっ」
「……ふはは。ぼくの完敗だね、コレは。ホントおいしかったよ、ドクダミの天ぷら」
そんな彼らの様子を最初は呆気に取られながら見ていた、すみれとマルちゃんだったけれど、とうとうこらえきれなくなって笑ってしまうと、マルちゃんも笑った。
「うん。じゃあ、追加分、揚げるね」
「ありがとう。実はまだ全然、食べ足りないんだヨネ」
「あは。正体を突き止めようとしている間に、みんなどんどん食べちゃったもんね」
「そうなんだヨー」
こんなにもみんなの食いつきがいいと、どうやら素直にならざるを得なかったらしい。
あんなにドクダミを毛嫌いしていたマルちゃんからも天ぷらをお願いされたすみれは、さっそくみんなの輪に加わり《食べておいしい野草図鑑》に目を輝かせはじめた彼やほかの下宿人たちに「ちょっと待っててね」と声をかけると、すぐに準備に取りかかった。
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