そんな下宿人たちも、それぞれ大学へ向かう時間になると「じゃあスミレ、いってきます!」と下宿をあとにしていった。日によってバラつきはあるものの、だいたい八時半を過ぎる頃には、下宿は管理人であるすみれひとりきりになるのが日常だ。

「早いとこ、ドクダミ駆除の方法を考えないとなあ……」

 みんながいなくなったテーブルにつき、遅い朝食を食べながらつぶやく。

 イギリスのグランマは、あるがままの自然を、あるがままに受け入れていたけれど、あれは広い敷地があってこそのものだろうと、すみれは思う。

すみれだって彼女の精神を受け継いでいきたいと思ってはいるけれど、かたやこちらは日本だ。猫の額ほどの土地に、こぢんまりとした庭がある程度なので、なかなかどうして、グランマ自慢の〝ひみつの花園〟ようにはいかないだろう。

「うーん……」

 食後にお茶を飲みながら、すみれはひとり、考え続ける。


 そんなイギリスの祖父母も、今は天国の住人だ。

 日本人の父とイギリス人の母を持つすみれの父は、十八歳までイギリスで過ごし、留学生として日本にやってくると、そのまま定住し、日本人の妻――つまり、すみれの母と結婚した。グランマが先に旅立ったことで一人になったグランパと、グランマが丹精込めて作った庭を守るため、父が母を連れてイギリスへ向かって今年の四月で丸五年になった。

 その間にグランパも心穏やかに晩年を過ごし、両親や親類、日本から駆けつけたすみれが見守る中、まるで眠るように息を引き取ってもうすぐ二年だ。祖父母の家は両親があとを継ぎ、夫婦で仲睦まじくイギリス生活を送っている。

 かくいうすみれは、ここ日本で小さな下宿を切り盛りしている。

 母方の祖父母の代から始めた下宿は、母が父に付いてイギリス行きを決めたことや、母の兄弟にあとを継ぐ人がいなかったこと、祖父母の高齢化も重なって、一代限りのものとなるはずだった。けれど、そこに手を挙げたのがすみれだった。

 すみれは、日本産まれ日本育ち、イギリスの血が四分の一入ったクォーターだ。――であるかは別にしても、こちらの都合で下宿人の彼らを追い出すのはすごく申し訳なかったし、当時、彼らの中には日本に越してきて間もない人もいた。

 ただでさえ新生活に心躍らせる一方で心細い思いをしているだろうに。しかも、故郷の国を離れた遠い日本なのに。そう思うと、どうしても〝仕方ない〟の一言では片づけられず、頭で考えるより先に口が『私にあとを継がせてください』と言っていた。

 そうしてすみれは、両親のイギリス行きと同時に下宿を継いだ。母方の祖父母は、すみれに下宿屋を任すと長男夫婦の家の近くに小さな居を構え、そこで暮らしている。

 自分でも、あのときはずいぶん大胆なことをしたなと今でもときどき思う。でも、改めて振り返るまでもなく、当時のすみれはひどく焦っていたのだと思う。

 遠いイギリスの地で一人になった祖父のために即決でイギリス行きを決めた両親とは裏腹に、すみれは自分がどうなりたいのか、何になりたいのか、わからなかったからだ。

 もちろんイギリス行きは強制ではなかった。すみれも成人していたし、両親の大らかな教育方針もあって、二人は『すみれさえよかったら』と誘ってくれていた。

 けれど、当時のすみれにはイギリスで暮らす勇気は持てなかった。ただでさえ、自分の将来に明確なビジョンも確固たるものも見いだせていない中では、家に引きこもってしまうのがオチだろうと思った。たとえグランマが大切にしていた庭があろうと、グランパが待っていようと、そんな自分は見せたくなかったし、なりたくなかった。

 そんなときにちょうど、下宿を閉めようかという話がすみれの耳に届いた。

 ――もし、ひとりで下宿を切り盛りできたら、私にも自信が持てるかもしれない。

 それが、すみれがこの下宿を継いだ一番の動機だった。

 とはいえ、いざ管理人をはじめてみると、右往左往することばかりだった。その一番の要因が〝外国人留学生専門〟の下宿だったということだろう。

 日本に留学してくるくらいだから、向こうで日本語の勉強をしてきたし、もちろん会話もできる。日本の文化もよく勉強していて、靴のまま家に上がる人なんていなかったし、箸も本当に上手に使う。こちらの伝えたいことがうまく伝わらないなど、多少の不便はあったけれど、コミュニケーションなら、言葉を差し替えたり言い換えたり、それでも伝わらないときは英語で話したりすれば、それほど大きな問題なかった。

 ただ、文化の違いだけは、たびたび問題になることがあった。

 日本の文化と故郷の国の文化、ではなく、留学生同士の国の文化の違いだ。

 違う国同士の人がひとつ屋根の下で暮らすのだから当然のこととはいえ、すみれはそのたびに頭を悩ませたり折衷案を考えたり、こじれれば仲を取り持ったりと奔走することとなり、彼らのケンカが長引いてしまったときなど、自分の無力さにたまらなくなって夜中に母方の祖母に電話で泣きつくことも、正直、一度や二度ではなかった。

『おばあちゃんはすごいなあ。私なんてほんとダメ。なにをしても裏目に出ちゃうし、解決策も全然思いつかない。ただただ、オロオロするばっかりだもん……』

 弱音を吐くと祖母は言った。

『最初なんて、そんなものだよ。おばあちゃんだって、下宿をはじめたばかりの頃は、すみれのように落ち込んでばっかりでね。日本での母親になりたいって気持ちも、すぐにしぼんでしまったものだった。でも、そういうときは、料理がいい橋渡し役になってくれるんだよ。共通の好きな料理を大皿にドンと出してやるの。そうすると、いつの間にか仲良く食べていたものだったよ。騙されたと思って、すみれも一度やってみな』

 そうして言われたとおり大皿に料理を出してみると、つい今しがたまで険悪なムードで食卓テーブルについていた彼らが、徐々に言葉を交わしはじめるから驚きだった。

 一人前ずつ料理を皿に盛りつけるのとは違って、個々で料理を取り分けるため、どうしたってコミュニケーションを取らなければならないのが逆によかったのだろうと思う。

 自分の皿に料理を取り分けるついでに、相手の皿にも料理を取る。取り箸やトングの貸し借りをする。そうすると自然と会話が成り立って、さらにお互いが共通して好きな料理を同じタイミングで食べることで、気持ちがほぐれ一体感や連帯感が生まれる。

 そんな彼らを見てすみれは、これまでのやり方ではきっとこうはいかなかっただろうと思った。言葉で説得しようとしても限界がある。だから空回りしたし、うまくいかなかった。でも料理は、それをいとも簡単に超えていく。〝同じ釜の飯を食う〟ではないけれど、同じ皿をつつくことで、お互いの違いを認め合うことができたのだろう。

 そしてそれは、いろいろな料理に応用が利いた。鍋はもちろんのこと、夏にはそうめんや冷や麦を一口大にくるりと巻いて大皿に出せば珍しがられ、彼らの食も進む。おでんなども、あえて大鍋のままテーブルに置けば、あとは彼らが和気あいあいと食べてくれた。

 祖母のアドバイスがなければ、すみれは今も下宿を続けていられたかわからない。

 そうして祖母の試行錯誤をなぞるようにしながら下宿を営んで三年。今年、二十五歳になるすみれは、今では管理人もすっかり板につき、忙しくも充実した日々を送っている。


「ほんと、どうしようかなあ……」

 それはともかく、今のすみれの悩みは今朝のドクダミをどう駆除するかだ。食器を洗い終え、掃除や洗濯を済ませても、すみれの頭には案らしい案も浮かんでこない。

 ベトナムではハーブとして料理に使われるそうだけれど、そもそも日本のドクダミは匂いが強いことが、食べてみようという気持ちそのものを失わせる。それに、すみれが知らないだけかもしれないものの、日本では食べるなんて聞いたこともない。

 せいぜいお茶にするのが有効な活用方法なのだろうけれど、あれだけの量だ。よしんばお茶にできても、自家製なので素人の域は出ないし、販売されているものと違って、腐らせてしまったり風味が落ちるなどダメにしてしまうこともあるかもしれない。

 そうなると、やっぱり駆除するしかないだろうと思う。ドクダミに罪はないけれど、すみれの手にはどうにも負えそうにないのだから、どうしようもない。

「よし。そうとくれば――」

 気持ちを固めたすみれは、エプロンを脱いで出かける支度をはじめた。

 ドクダミの繁殖力を考えると、早いに越したことはないはずだ。さっそく近所の図書館に行って、有効的な駆除の方法を調べてみようと思い立った。


 *


「えっと、雑草駆除だから園芸コーナーだよね。……たぶん」

 図書館に着くとさっそく、すみれは書架の島を渡って目当てのコーナーへ向かった。

 平日の、とりわけ午前中の図書館は静かだ。

 近所の読書家たちが思い思いの場所で思い思いの本に目を落としている姿は、さながら彫刻を思わせる雰囲気がある。誰がどんな本を読んでいても気にも留めない空気に包まれているそこは、すみれの少し自信なさげな独り言も簡単に吸い込んでくれた。

 初めに目に留まった本を開きながら、そういえば草取りは自己流なんだよな、とすみれは少し苦笑する。幼い頃に見たグランマの庭は、色とりどりの花やときおり顔をのぞかせるガーデン人形の記憶が鮮烈だったし、下宿を継いでから世話してきた庭も、去年までは自己流で事足りてきた。小学校の清掃奉仕活動などで校庭や花壇などに生えた草を取った記憶をそのままにやってきたので、思えば本格的な雑草駆除は初めてだ。

 しかし〝多年草はこれといった抜き時がない〟という文を目にして、だよねと思うと同時に、すみれはカクンと肩を落とした。わかっていたが、こうはっきり書かれていると、なんだか手の施しようのないものを庭に入れてしまったような気がしてならない。

 でも、掘って抜くったって、どこまで伸びてるかわからないし……。

 タンポポやスギナなどと同じで、ドクダミも根っこをどうにかしないことには、どうにもならない植物だ。仮に表面だけ――葉や茎を刈れば少しは見栄えも良くなるだろうけれど、なにより厄介なのが、マルちゃんも鼻をつまむ、あのなんとも言えない匂いだ。

 どちらにせよ、匂いがネックになることだけは確かなので、なかなか〝よし、やるぞ〟という気になれないのが、ある意味ドクダミのすごいところかもしれない。

「ふう……」

 ため息にも自然と重苦しい気持ちが反映する。

「――あの、もしよかったら、こういうのもありますよ」

「え?」

 すると、横から声をかけられるとともに、一冊の本がすみれの視界に入り込んだ。

 声のしたほうに目を向けると、黒いエプロンをかけた眼鏡の男性が、腕に何冊か本を抱えながら、もう片方の手でこちらに本を差し出している。胸にネームバッヂを付けているということは、ここで働く司書なのだろう。すみれも一六五センチと背はわりと高いほうだが、見上げるほどということは、もしかしたら一九〇センチ近いかもしれない。

 それでも不思議と威圧感や圧迫感がないのは、彼から感じる雰囲気が柔和で、声色も柔らかく優しげだからだろう。眼鏡の奥の目をにっこり細めてすみれの反応を待っている男性は、胸のバッヂから【田屋稔たやみのる】という名前らしいことがわかった。

「あ、あの……?」

「ああ、すみません。返却された本をここの棚に戻そうと思って来たんですけど、あんまり深刻な顔で雑草の本とにらめっこをなさっているから、発想を変えてみてはどうかと」

 困って尋ねると、田屋からはそんな言葉が返ってきた。

「……発想、ですか?」

「そう。発想です」

 そうしてもう一度、差し出されたままの本に目を落とすと、なるほど《食べておいしい野草図鑑》なるタイトルとともに、クッキーやスープ、パスタなどにおしゃれに化けた野草たちが表紙を飾っていた。しかも驚いたことに、どれもおいしそうだ。

「雑草だと思うから気が滅入っちゃうんですよ。実は案外、草っておいしいんですよね」

「お、おいし――え、待ってください。食べたことあるんですか?」

「食べたから、この本をおすすめしているんですよ」

「……はあ」

「まあ、僕が書いた本ではないんですけどね。でも、食べてみる価値はありますよ」

「……」

 けれどすみれは、自信満々に言う田屋とは反対に、すぐには言葉が出てこない。

 確かに食べたことがあるから、この本をおすすめしてくれたんだろう。そもそも実際に食べた人がいなければ本にならないし、食べたい人がいるから図書館にだって置いてあるのだろう。それに、すすめた田屋だって自信を持って言い切れないはずだ。

 だって草だ。草なんだから。食べるという発想が、そもそもない。

 でも――と、すみれはちらりと田屋をうかがう。

 こんな綺麗な顔の司書さんが草を食べるの……? あまりに突飛な〝おいしい〟発言と目の前の田屋がひとつも結びつかず、すみれは言葉に詰まるばかりだ。

「あ、信じてないですね? 本当においしいんですよ。騙されたと思って借りていってください。写真も綺麗だし、レシピも載ってます。厄介なだけの草が化けますから」

 そんなすみれを見て、どうやら田屋は疑っていると思ったらしい。「どうぞ。すみませんけど、手が塞がっちゃってて」とほとんど強引にすみれに本を持たせると、素早い動作で腕に抱えた本を棚に戻し、そのまま仕事に戻っていってしまった。

「え。ええー……」

 対してすみれは、途方に暮れるしかない。

 確かにドクダミの始末に困って図書館に知恵を借りに来た。本を見せられたとき、おいしいそうだと思ったのも本当だ。けれど、一体これをどうしたらいいのだろう。

「……どうしよう」

 すみれはそれからしばらく、渡された本を手にその場を動けなかった。

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