■第一話 ひとまず収めてみましょう 1

 すみれの朝は早い。

 五時には起きて身支度を整え台所に立つのが、三六五日、すみれの仕事だ。

 それを苦に思ったことは一度もない。確かに冬の朝は寒さが足の裏から体温を奪っていくようだし、布団から出たくないと思う日もある。けれど、それも少しの間だけだ。動きはじめればそのうち体が温まる。なにより、ほうほうと湯気の立つ鍋や、いい音をさせるフライパンの前に立っていると、それだけで心が温かく解けていく。炊飯器から上がる湯気の、米が炊ける匂いもたまらない。新米の時期のそれは格別だ。

 さて、明日はどんなご飯を作ろうか。

 あれこれとメニューを考えながら眠るのが、すみれの安眠の秘訣だったりする。

「スミレ! スミレ起きて! 大変だ、庭がクサイんだよ!」

 けれど、今朝はどうにも様子が違うらしい。

 襖の向こうからでも大音量で聞こえる切羽詰まった声に叩き起こされ、習慣で枕元の目覚まし時計を引き寄せると、時刻はなんと早朝四時。なかなか持ち上がらない瞼を押し上げ窓のほうに目をやれば、カーテンの奥はほんのり夜が明けかけている程度だった。

「スミレ! とにかくWake up! スミレの庭が死んじゃうよ!」

「ううーん、今起きるから……」

 今度は襖を叩く音も加わる声にもにょもにょと返事をしながら、すみれは布団からのっそり体を起こす。庭がクサイだの死んじゃうだの、一体どういうことだろう。頭も体もまだ半分以上眠っているが、ただ事ではない声に、すみれの頭も徐々に回転をはじめる。

「スミレ、hurry up! 大変なんだってば!」

「うんうん、わかったから。マルちゃん、ちょっと声大きいよ」

 四月中旬の今、朝はまだひんやりしているため、すみれは、ひとまずパジャマの上に厚手のカーディガンを羽織って襖を開ける。すると声の主――下宿人のマルちゃんことマルティンは「Oh, sorry……」と、とっさに口を両手で覆う。

 けれど、一刻も早く現場に連れて行かなければという思いが先に立っているのだろう、声は静かになったものの、すみれの腕を取るなり、すぐに襖の正面にある庭に向かって飛び降りる勢いのマルちゃんは、完全に今が朝の何時かということが頭から抜け落ちているに違いない。

 もちろん、多少、木の床に体重がかかったくらいで穴が空くことはない。ついこの間の点検でも、耐震性も建物の歪みも問題ないとお墨付きをもらっている。けれど、古い建物のため、大きな音は全体に響いてしまう。夜遅くまで課題やらレポートやらに励む下宿人も多い中、早朝四時のこの音はほかのみんなにすごく申し訳ない。

 とはいえ、マルちゃんに引っ張られるだけのすみれには、ここを建て直す資金も、もう一度「静かにね」と注意する気力もなく、眠い目をこするだけだ。

「これだよ! なんか鼻を突く変な匂いでショ。スミレ、なんなのこれ……」

 さて、問題の庭に下りると、庭木が植えられた奥まった場所で強烈な匂いを発している塊があった。そのところどころに、薄ぼんやりと白いものも見て取れる。

 すみれを問題の現場に連れていくなり、マルちゃんは眉間にしわを寄せて鼻を摘まんでいた。彼にとって相当ひどい匂いなのだろう、なんならちょっと涙目かもしれない。

「なんなの、って――」

 ただ、この匂いをどう言葉で表したらいいか、すみれにはわからない。匂いの元はデカノイルアセトアルデヒドやラウリルアルデヒドという成分なんだそうだけれど、いくらそれを知っていたところで、これだという表現が見つからなくて言葉に詰まる。

 それでも強いて例えるとすれば、カメムシが発するあの匂いのタチの悪さに似た、いつまでも鼻の奥にこびりつくような匂いの植物版、といったところだろうか。

 なぜ早朝四時に庭の、しかも木のそばにいたのか。はたまた、そんなところでなにをしようとしていたのかは謎だけれど、ともかく、この匂いで庭は死なない。

 鼻を摘まんだまま不安げに瞳を揺らすマルちゃんにくすりと笑って、すみれは言う。

「ただのドクダミだよ。〝ドク〟は付くけど毒はないし、むしろ殺菌作用もある、ありがたい草なんだよ。ほら、どくだみ茶って聞いたことないかな? 生薬にも使われるくらいで、ベトナムではハーブとしてよく料理に使われるらしいよ。日本のものより匂いがソフトだから、そうやって身近な食材として使われているんだろうね」

「……そうなの? じゃあスミレの庭、死なない?」

「死なない、死なない」

「なんだぁ……、ホントよかったよー」

 真っ先に庭の心配をしてくれるマルちゃんの優しさが嬉しい。

 たとえ早朝四時に叩き起こされても、そんな時間に庭でなにをしていたか謎でも、すみれがこの庭を大事にしていることを知っているから、知らせてくれたのだろう。

「……うーん。でも、参ったなあ」

 すみれは正体のわかった塊に目を向け、途方に暮れた。

「なにが?」

「いや、去年の春もね、塀の向こうのドクダミがついに庭まで進出してきたかって掘れるだけ掘って根っこを抜いたんだよ。でも、ドクダミの繁殖力ってものすごくって、きっと出てくるんだろうなって思ってたところだったんだよね。そしたら案の定、今年は私が気づかないうちに、こんなにこんもり茂っちゃって。どうしたもんかなあって」

 お茶になるくらいだから薬効はバッチリだ。自分の手に負えるくらいなら、本当にありがたい植物でもある。また、漢字では『毒溜』と書くけれど、マルちゃんに説明したとおり〝ドク〟は付くけど毒はないので生えているぶんにはなんら問題ない。花をつけている時期のドクダミが一番薬効があるとも言われていて、だから今がその時期だ。

「うう、でもクサイよー。抜くの手伝いたいけど……この匂い、ダメかも」

「そうなんだよねえ。あって困るものじゃないけど、増えすぎるとタチが悪くなっちゃうことと、とにかくこのなんとも言えない匂いがね。私もあんまり得意じゃないよ」

「Oh, bad smell……」

「……うん。お世辞にもいい匂いとは言えないよね」

 けれど、今もマルちゃんがうっかり踏んだか折るかして刺激を与えてしまったドクダミからは例のカメムシに似たしつこい匂いがしている。時間が経って弱まってはいるものの、これをずっと嗅いでいると、さすがのすみれも少々具合が悪くなるくらいだ。

 しかもこれは、厄介なことに毎年、着実に勢力を伸ばしてくる。一昨年まではどうにか塀の向こうで自生していたのが、去年はとうとう、庭へ進出してきた。豊富に土がある場所にしっかりと根付いてしまった今、来年の勢力図が今からひどく恐ろしい。

「楽に片づける方法はないの?」

「駆除ってこと? うーん、すぐそばにツツジが植わっているから除草剤は使えないし、楽じゃないけど、地道に刈り取るしか、今のところいい方法なんて思いつかないよ」

 鼻に縦じわを刻んで尋ねるマルちゃんに、すみれは肩を竦める。

「Oh……。まさに八方美人だね、スミレ」

「うん、そうなの。八方塞がりなの」

「それネ!」

 広い敷地に〝ひみつの花園〟を作り上げたグランマは、化学肥料や除草剤といった人間の手で作られたものはできるだけ使わないことを信条としていた。肥料には自家製の腐葉土を使い、伸びすぎた草は根気強く刈ったり抜いたりと、すべてに手間をかけていた。

 グランマはまさに、あるがままの自然を愛し、自然と共に生きていた。それが彼女の〝ひみつの花園〟をよりいっそう美しいものにしていたのだと思う。

 グランパはそこに、手作りの木のベンチやテーブルを置く。晴れた日は二人でよく庭を散策し、自由気ままにベンチに腰掛け、何時間でも庭を眺める。二人の生活は、自然に寄り添った素敵な暮らしぶりだったということだった。

 その影響もあって、すみれもできるだけ化学物質は使わないと決めている。

 確かに肥料を撒けば植物は元気になるし、除草剤を撒けば一発できれいになる。なにも手間暇かけて腐葉土を作ることもないし、伸びるといたちごっこをすることもない。

 けれどそれは、幼い日に見た〝ひみつの花園〟ではないように思う。

 グランマの庭を特別意識しているわけでは、もちろんない。

『すごく手間はかかるけど、そのぶん、愛おしいのよ』

 けれど、そう言って庭に目をやったグランマの青い瞳の美しさが、今もすみれの胸に温かで幸福な記憶として刻まれているから、彼女の自然や植物に対する尊敬や慈しむ心、その眼差しを、すみれ自身もしっかりと受け継いでいきたいと思っている。

「うーん。でも、刈り取るにしても、この量は骨が折れるかもね……」

 徐々に明るみを帯びてきた空に合わせてドクダミの全容がはっきりしてくると、すみれはいっそう途方に暮れるしかなかった。だって、こんもりどころではない。わんさかだ。

 本当にいつの間にこんなに立派に茂ってしまったんだろう。庭の手入れもきちんとやっていたし、暖かくなって元気に伸びはじめた雑草も、見つけるたびにこまめに抜いていた。それでも気づかなかったのだから、失念していたと言うしかない。

「誰か匂いに強い人を探す?」

 そう言って様子を窺うマルちゃんに、すみれは「心当たりがあるの?」と、心底困り果てた声で聞き返す。ドクダミが進出してきた範囲を見るに、業者を呼ぶほどではないと思う。ただ、誰が率先してこれを刈り取るんだろうとも思ってしまう。

 ほかの下宿人のみんなも気のいい人たちばかりで、すみれが困っていると聞けば手を貸してくれるだろう。とはいえ、ほとんど年中、庭いじりをしているようなすみれでさえ手を焼く匂いだ。なかなかどうして、こちらからは頼みにくい仕事でもある。

「とりあえず、朝ごはんの支度をしてくるよ。ドクダミのことは私がうまい方法を考えるから、マルちゃんはあんまり心配しないで。メニューのリクエストはある?」

 しばしの黙考の末、すみれは気持ちを切り替えるとマルちゃんに笑った。

 今すぐどうこうできるものでもない以上、まずは、やってしまわなければいけない仕事に手を付けるしかない。すみれは、マルちゃんのほかに七人、計八人の下宿人の胃袋と健康を預かる料理番だ。お弁当を持っていく人もいるし、朝はなにかと忙しい。

「じゃあ、卵焼き! おろしポン酢で食べたいな」

「あはは。相変わらず好きだね、それ。オーケー。まだけっこう時間もあるし、マルちゃんはもう少しゆっくりしてて。いつもの時間にテーブルに並べておくから」

 やった! と顔をほころばせるマルちゃんに、すみれも笑って、中へ引き返す。自室に戻っていくマルちゃんの背中を見送ると、すみれも自分の部屋に向かった。


 やがて時計の針が七時を指す頃、台所にぞろぞろと下宿人たちがやってきた。まだ半分寝ているような顔もあれば、すっかり身支度まで整えている顔もあり、すみれはそのひとりひとりに「おはよう」とあいさつをしながら、てきぱきと朝ごはんを並べていく。

 今朝のメニューは、マルちゃんリクエストの卵焼きに、やや大ぶりに切ったキャベツやニンジン、シイタケなど野菜たっぷりの味噌汁、山菜の煮つけに、焼きジャケだ。おろしポン酢で食べたいとのことだったので、大根おろしも添える。

「これでこそニッポンの朝ご飯だよ!」

 いただきまーす、と元気よく手を合わせ、さっそく卵焼きにおろしポン酢を乗せて口いっぱいにほおばるマルちゃんに、すみれは「どうぞ、おあがりください」と言いながら微苦笑をこぼす。マルちゃんの故郷の国の朝ご飯だって、すみれからしたらすごくおいしそうなのだけれど、もしかしたら彼は、日本人より日本人らしいかもしれない。

 そんなマルちゃんに続くようにして、ほかの下宿人たちもそれぞれに箸を持ち、卵焼きだったり味噌汁だったりに手を伸ばしはじめる。全員がなにかしらの料理に口をつけるのを見届けると、すみれはいよいよ佳境に入った弁当作りを再開した。

 今朝はマルちゃんのおかげで時間に余裕があったので、自然といつもよりも気合いが入ったおかずが弁当箱の中に整列している。『せっかく持っていくんだから日本らしい弁当がいい』と言う下宿人も多いので、すみれもできるだけそのリクエストに応えてはいるけれど、特に時間に限りがある朝では、思うようにいかないことも少なくない。

 その点、今朝はみんなの大好物の唐揚げを作れた。最後にそれを人数ぶん、弁当箱に詰め終えると、壮観だなと思うとともに、すみれの口元に満足げな笑みが浮かんだ。

「お弁当もできたよー。間違えないで持ってってねー」

「ありがとう、スミレ」

「今からランチタイムが楽しみだよ」

「今日はなに?」

 テーブルの端に弁当箱を並べながら言うと、下宿のみんなから声が飛ぶ。それにすみれは「開けてみてからのお楽しみ」と答えて、続けて包みの結び目に箸箱を差していく。

 ランチクロスも箸箱も、ぱっと見ただけで見分けがつくように色も柄も変えてあるけれど、たまに間違って別の人のものを持っていってしまう人もいる。大きさも中身も同じなのだから、これといって不都合があるわけではないけれど、初めて〝お弁当〟という文化に触れた人の中には『これは自分のお弁当』という意識が強く働く人もいて、何回か経験しているうちに、すみれは弁当を並べるときに一言添えることを覚えた。

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