声が出ない

(あなたは、誰?)


 後頭部しか見えない男に、少女は問いかけようとした。


 それから、この移動する空間がどこなのかも。さらにはどうして自分がここにいるのかも。


 少女は問いかけようとした。しかし彼女は違和感を覚えて、自らの喉に手を当てる。


……声が出ない。


「お前、名前はなんて言うんだ?」


 男のほうから、低い声で尋ねてきた。


(ラズリー)


 それが少女の名前だった。彼女は確かに答えようとした。


 けれど口からは、「ぁ……」と、小さく空気が漏れるだけだった。思い通りに声が出せない。


 そんな初めての経験に少女は思わず泣き出しそうになる。必死に声を絞り出そうとしても、言葉は声にならず、シューシューと空気の漏れる音に変わってしまう。


「そりゃあ、まあ…… 警戒もするよな。お前は誰だよ、って話になるか」


 男はラズリーが喋れないことに気付いていないようだった。気を遣って、言葉を慎重に選んでいるようにも思える。


 少女はそこで気が付いた。男がバックミラーを確認しながら、彼女に語りかけていることを。


「俺は『バーム』って名前だ。一応、ラストネームは『スミノーエ』な」


 バーム・スミノーエと名乗った男は、少女の父親よりも少し若いくらいに見えた。


 眉毛や髪の色は灰色で、ところどころに白色も混ざっている。やや肉のついた顎には、もさもさとした髭が茂っていた。意外なことに、目だけは子供のように澄んだ青色をしている。


「反応なし、か……」


 少女がしげしげと男の顔を眺めていると、男は不満そうに鼻を鳴らした。


 ラズリーは慌てた。返事ができないことは不本意であると、男に伝えたかった。しかし、どれだけりきんでも声を出すことができない。


「なんだぁ……? お前、もしかして………… 喋れねぇのか?」


 男の疑問に、少女はバッと顔をあげた。


 バックミラーを見ると、喉に手を当てて苦しそうにしている自分を男が不思議そうに眺めていた。その視線を逃すまいと、少女は首を縦に振る。


「ふむ…… そうか、それは…… 難儀だな」


 バームはもごもごと口を動かして、少女から目を離してしまう。小雨が降る暗い山道を走ることだけに集中してしまう。


(え、それだけ!?)


 少女は愕然とした。


 声が出なくなるという経験は、そうそうあるものではないと思った。少なくとも少女とっては初めてのことであったし、それによって見知らぬ男と意志の疎通そつうができなくて困っている。すんなりと流されては、たまらないことだった。


 しかし、バームという男は車の運転にだけ気を遣っているように見える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る