死の水底

 落下しながら一連の挙動を済ます。魔力を別の用途に回すため、展開していた術式郡を解除する。多重詠唱を始め、水中呼吸と空中飛行の魔術を並列発動する。落下地点と流れの速度から、現在位置を推測し、その地点へと飛び込んだ。


 水中。周囲を見渡す。流れが早い上にひどい濁水で、数メートル先にも視界が届かない。


(居ない……! 何処どこ……⁉)


 目を凝らしながら、流れに後押しされ下流へと水中飛行する。いくつかのカーブを経て、レニが見つからないまま数十秒ほど経った。いかに流れが早かろうと、もう追いつけているはずだと踏んだ頃。


 突如。

 視界が空に包まれた。


「⁉」

 戸惑い、瞬間的に振り返って目の当たりにした光景に、血の気が凍った。


(う、そ……でしょ……)


 そこは大きな滝になっており。下を見ると、光の届かない暗黒が大量の水を吸い続けていた。


 思い出す。子供の頃。絶対に近付くなと言われた、森を抜けた渓谷けいこくにある、底の見えない大穴。探索に行った者が、操魔士ソーサラーの調査隊を含め尽く行方不明となり、危険地帯として指定された場所。あの津波で出来た河は、ここに通じてしまっていたのだ。


 仮にこの下に生身で落ちていたら、もはや助からないだろう。


「……‼」

 真下へ向けていた視線を水平に戻す。ここまでの間、何処どこかに引っかかって、自分が見落としていたことを祈るしかない。来た道を戻るべく再度水中へと身を投げる。その直前、視力強化の術式を追加した。


 探すのは川底か川縁だ。今度は見逃すわけにはいかない。流れに逆らい、先ほどの数倍の負荷がかかる水中で蛇行しながら、目を凝らす。


 来た道の三分の一ほどを戻った、その時。


「が……っ‼」

 突如、視界の右半分が赤く染まり、衝撃が走った。体勢が大きく崩れ、流される身体を持ち堪える。大岩か落木か知れなかったが、何か硬いものが直撃したようだ。


 右目の上、髪の生え際あたりがずきずきと強く痛む。血が出ているかも知れない。止血すべき深さかも知れない。

 魔力の大半は呼吸と飛行と視力に回しており、追加の治療術式を施す余裕は無い――そもそも水中では呪文が唱えられない。一度地上に出て治療することも思い立つが、その時間差でレニの命を失う危険を考えれば、そんな選択は論外だった。


(レ……ニ……!)


 霞みつつある視界の中、捜索を続ける。少しでも意識が飛べばその間に、あの暗黒の底に飲み込まれてしまうだろう。そうでなくとも、この状態でまた何かの塊と衝突すれば、きっとそれで終わりだ。


 紛れもなく自分は、死の際にいた。村の皆が眠るこの地での、死。ここで果てるなら寂しくはないと、少しだけ思ってしまう。が、すぐに思い直す。自分だけの問題ならそれでもいい。だが、違う。あまりにも、違う。


(……ぅ……)


 体温が下がる。思考力が減衰する。自分の今の判断が、今の行動が正しいかすら、もはや分からなかった。ただ、一瞬前に決めたことを遂行する。それだけの、氷の機械人形。


 泳ぐ。観る。それだけの。


 ――ここまでに物陰をいくつか確認したが、どれも落木や建物の破片の類だった。

 もう少しで、元の落水地点にまで到達してしまう。


 その、わずか手前。

 視認できた、最後の物陰。


 一縷の望みをかけて目を凝らすと、そこには。


(……‼)


 川縁から伸びる枝にベルトが捕られ、急流に耐え続けるレニの姿があった。


 ***


 川から引き上げ、蘇生法を施す。先の戦闘と救出で、魔素マナはほぼ使い切ってしまった。今の状態でつかえる基礎的な治癒術式は、水没した者には効かない。自然治癒力を強化するだけで、止まった心臓を動かすことや、足りない酸素を供給することは出来ない。

 心臓マッサージと人工呼吸。学術院カレッジで習った処置を適切に行っているつもりだったが、全く効果は無かった。


 このまま目を覚まさなかったら、どうしよう。

 なんて理由で、殺してしまったんだろう。

 一体彼が、何をしたというんだろう。

 限り無い優しさで自分をここまで救い上げてくれたのに。それなのに。


 これこそまさに、自分がこの世から払拭したかった「理不尽」そのものじゃないか――‼ 


「……レニ……」

 既に冷えた水で体温が奪われきったレニは、もう事切れているようにしか見えなかった。


 どこかで、思っていた。レニは無敵だと。死ぬことなどあるはずないと。何があっても切り抜けると思わせる、余裕綽々の笑顔。何処どこから湧き出るのとも知れない、無限の寛容さ。

 生身のまま操魔士ソーサラーと渡り合う、信じがたい天稟てんぴん


 彼を、人を超えた何かのように錯覚していた。今こうなって初めて痛感する。彼がどうしようもなく、生身の人間であることを。

「……ごめん……なさい……ごめんなさい……」

 涙声で繰り返す。まだ何か、自分に出来ること――それを探す。辿たどる。

 今からでも、高度な治癒術式をつかえる街医者を連れてくる。諦めずにこれまで同様の蘇生を繰り返す。それとも――。


 その行動を選んだ理由は分からなかった。

 彼を治療するにあたって、全く無意味に思える行為。

 ペンダントを外し、手に取らせ、残された魔素マナを振り絞り、起動する。もし彼に意識があれば、保存された映像が視覚に流し込まれるように。

 意識が、あれば。


「レニ……」


 映し出すのは時の異なる、この場所での映像。自分が助けられた、その時。


 焼かれる、水底に沈む故郷こきょう。立ち尽くす自分。現れる、誰か。


「これ……あなたなんだよね……? あなたが、わたしを、助けてくれたんだよね……?」


 押し倒される。兜に覆われた顔。胸をはだけられる。たどたどしい口付け。


「特別な力を、持ってるんでしょ……? これくらい、平気だよね……? レニ……!」


 虹色の光彩。金髪の黒騎士。真紅しんくの瞳。


「……」


 ――静寂。

 ――無慈悲の、静寂。


 レニの身体から、何かが消えていく感覚。

 もう時間が無い。無い気がした。


 そこからは、圧縮する。

 今、この瞬間までの三年間を。

 この一秒に込めて、叩き込む。

 自分が見てきたものを、歩んできたものを――


 東へ逃げて。街道で、行商人に助けられて。孤児院に拾われて。

 必死に操魔の力を磨いて。学術院カレッジの入学試験に、なんとか合格して。

 言い寄って来る人達は何人か居て。でも何故か、誰も魅力的には見えなくて。そのたびに、あの騎士がちらついて。

 首席で最短履修を完了できて。こんなに力を出せたのは、きっとまたあの人に会いたい一心で。

 旅に出て。ペンダントを無くしてしまって。取り戻すために、あんな目にあって。


 ――それでも、助けてくれる人が居て。


 その人は、どこまでも優しくて。とっても、温かくて。

 いつでも、どきどきさせられて。少しだけ、意地悪で。


 とても、美しくて。かすりもしなくて。――でも、笑いながら落ちて。

 どこにも居なくて。やっと見つかって。――でも、もう、動かなくて。


 圧縮が追いつき、今この時に重なる。その瞬間。


 消えかかっていた、わたしの人生を。

 もう一度、灯してくれた、その人の。

 名前を、呼んだ。すべてを、こめて。


「……レニぃ……っ……‼」


 残る力の全てを振り絞り、叫ぶ。

 握る手に、爪が深く食い込む。


 ――と。


 空白。ただただ、空白が包む。

 視覚も、聴覚も、魔力知覚さえも。

 己が望む情報以外の、全てを遮断する。

 それらを埋める空白に、この身が包まれる。

 その、刹那せつなの聖域の中で。


 ごふっ、と。

 空気と共に声が漏れる。

 そんなような、音。


 認識する。知覚する。

 確かにそれが、レニの口から出たものであることを。

 聖域を閉ざし、世界に戻る。


「レニ!」


 激しく何度も咳き込みながら、横向きになり、水を吐き出すレニ。

 息が整ってきたところで、目が開く。こちらを確認する。

 見慣れた、蒼い瞳。その中の輪郭に付けられた名前を、彼は呼ぶ。


「シェリ……ナ……」


 何処どこへも行かないように。

 この世にとどめるために。

 きつく、抱きしめた。


 ***


「……本当に……ごめんなさい……」


 濡れた衣類を全て脱ぎ去り、毛布の中で身を寄せ合い、起こした焚き火に当たる。

 衣類も無理くり干し、乾燥を待つ。魔素マナの枯渇で服は乾かせず、替えの服も宿に置いてきてしまった。それに、最低限の魔素マナが回復するまでは療養したい。しばらくの時間は、この場で乗り切るしか無さそうだ。


「……あなたが、そうだったらいいなって……そうに違いないって……思い込み過ぎだった。そんな偶然、あるわけないのに……」

 どうかしていた。全部、自分の勘違いだ。あの一撃を彼が見切ったと思ったのも、彼が笑ったのも、わざと受けたと思ったのも。きっと、そうだ。


 気になることも多々ある。でも彼を問い詰めることなど、もう出来なかった。もう、一切の負担を掛けたくない。ただただ、詫びる。

「……ごめんなさい」

 けれど、レニは。


「いいよ。君の気が済んだのなら、それが一番いい」

 その言葉も、その声色こわいろも、どこまでも穏やかで。

 そのことが一層、胸をめ付けた。


(――)


 触れあっている表層は辛うじて熱が回復していたが、その芯はまだ冷えている感じがした。

 もっと、温めてあげたかった。だから。


「最後に……少しだけ、しても、いい?」

「最後……?」

 決意をめて、はっきりと告げる。

「うん。これで、最後」

「……」


 寂しいと、思ってくれるだろうか。

 食い下がって、くれるだろうか。

 でもきっと。願いは叶う。

 叶って、しまう。


「そっか。いいよ」

 いつも通りの笑顔で、彼は応えた。


 先程の消えた表情も、見間違いだったのかも知れない。

 きっと、そうだ。


 ***


 涙。

 そこには、どんな意味が宿っていたのだろう。

 互いに止まらない涙の中、熱を、伝えあった。

 手繰り寄せるように、名前を呼び合いながら。


 きっとわたしたちは、たくさんの言葉を飲み込んでいる。

 きっとそれらを、全て知ることは叶わない。

 何もかもを、見せあっていたのだとしても。


 だけど、それでも。だからこそ。

 全てを、かなぐり捨ててでも。

 それを、求めてしまう。

 願って、しまう。


 ***


 墓標を振り返り、村の皆に胸中で別れを告げる。

 言葉もなく、二人、歩き出す。


「……」

 少し先を歩く、レニの背中を見ながら、思う。

 未練たらしく。往生際、悪く。


 本当に、この人だったら良かったのに。

 今からでも、くつがえしてくれないだろうか。


 この人が、あの時の騎士で。

 この人も、わたしを覚えていてくれて。想っていてくれて。

 この人が、わたしに優しくしてくれる理由が、それであって欲しかった。


 机上の夢物語。おめでたい妄想。本当に、どうしようもない。

 ――それでも。


「――もう一度だけ、聞いてもいい? わたしに優しくしてくれたのは、どうして?」


 これが、最後のチャンス。

 手繰り寄せる、最後の糸。

 そのつもりで。


 そして、もし違っていたとしても。

 あるいはここで、思い切り自分を捕まえてくれたら。

 自分の信念を打ち壊す程の想いを、ぶつけてくれたら。

 違う道を歩めるかも知れない。そう願って。


 ――でも。

 レニはその問いに、振り返らずに、答えた。


「……何となくだよ。本当にただ、それだけなんだ」


 そう返すことは、知れていた。

 前に聞いた質問だ。答えが変わるわけもない。


(……そう、よね)


 ***


 黄昏たそがれが何もかもを等しく、黄金にいていた。

 追い求めた真実を、ぼかすかのように。

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