自由の館

 カーテンから差し込む朝日が、段々と強くなるのをぼんやり眺めていた。


 眠れなかった。

 意識はずっと保てていた。

 そんな気がする。


 枕元の小机に、書き置きがあった。

 いつの間に置かれたのか、気付かなかった。

 そのことで初めて、一応は眠れていたのだと認識する。


『顔を洗ったら一階のリビングに来て』


 ***


「おはよう。ちょうど出来たところだ、座って」


 この広い屋敷でリビングとやらを探せるか不安だったが、すんなりと見つけることが出来たのはその香りのお陰だった。


 シンプルなサラダ、具は少なめだが色鮮やかなスープ、何かの肉を挟んだサンドイッチ。果実ジュースが入ったポットとグラス。

 二人で使うには大きすぎるテーブルには、朝食が二人分並んでいる。他に人は居ない。彼が作ったのだろうか。


 とりあえず、言われた通りに席に付く。


「じゃ、いただこうか」

 レニが食事に手を付けるが、こちらは食欲が沸かなかった。昨日の昼から何も口にしておらず、胃は空いているはずだが、空腹感より不快感の方が強かった。


 この状況になって、ようやくいくつもの言葉が浮かぶ。


(あんな額を払えて、こんな家に住んでて。お金持ちなのね、全然見えなかった)

(どうしてわたしを買ったの? これから何をするつもり?)

(わたしのペンダントを返して。わたしはそのためにこの街に来た)

(首輪を外して。わたしを、解放して――)


 だがそれらを、実際に声に出すことはしなかった。きっと自分の願望など、何一つ叶わない。自分は、玩具だ。怒りを買えば、その扱いに影響する。こちらから何を言うかは、慎重になる必要がある。それくらいの頭は回っていた。


 奴隷。わたしは、この人の、奴隷――。


 状況を確認するための、ひいては自分を安心させるための、質問を投げた。機嫌を害しないように、細心の注意を払いながら。

「……わたしはここで、何をすればいいんですか……?」


「差しあたって今は、朝食を食べればいいと思うよ」

「……」

 奴隷となってから初めての会話は、肩透かしを喰らうことで終わった。自分の分が並んでいるのだから、それはそうだろう。


 だが、安心材料にはなった。機嫌を損なった様子は無い。質問をする。返ってくる。それはしても良いことなのだと、認識できた。


 ふと部屋を見渡す。天井が高い。った意匠いしょうの壁紙。絵画や美術品の類は少なかった。

「……ここに、一人で住んでるんですか……?」

「そうだね。たまにハウスキーパーを頼んだりする時もあるけど」


「……それが、わたしの仕事、ですか……?」

 かちゃり、と食器を置かれる音が響く。思わずびくりとし、反射的にうつむく。質問をたたみ掛けすぎたかも知れない。気分を害したかも知れない。


 恐る恐る見やると、レニは優しい声色こわいろで。

「君は、君のやりたいことをすればいい。遊びに行きたければ行けばいいし、寝たければ寝ればいい。まあ、屋敷のことをやってくれるなら助かるけど」


「……?」

 彼の言っていることが、良く理解出来なかった。


かしこまる必要も無いよ。最初に会った時みたいに接してくれればいい」

「えっ……と……」

 話がみ合っていない気がする。あれは全部、夢だったんだろうか。たずねる。


「……あなたは、わたしを買って……わたしは、あなたの奴隷になったんですよね……?」

「それも、気にしなくていい。君をしばるつもりもないし、自由に過ごせばいい」

 ますます、理解出来ない。


「気にしなくていいって、言われても……」

 魔術を封じられている今は、ただの小娘だ。身を守ることはおろか、何が出来るでもない……。


 自然と、魔術を封じている首輪に触れる。金属製のそれは冬の空気を吸い、当たり前のように冷たかった。


 すると。レニがポケットから何かの器具を取り出し、操作する。

 ぱきっ、と小さく音が鳴り首輪の金具が外れる。


「⁉」

「それを取るの、忘れてた。苦しかった?」


 首輪の、解除の信号。恐る恐る首輪を取ろうと試みると、あまりにもあっさりと外れた。


 簡易的な身体強化の術式を小声で発動し、魔術がつかえることを確認する――と同時に立ち上がり、レニに向けて印をかざす。

 思考は後追いだった。手に入れた勝機を活かす、無意識の行動。本能のようなもの。


 レニの魔素マナは常人並み。すなわち操魔士ソーサラーではない。魔具で防御している様子はない。周囲に仲間が居る気配もない。

 数秒もあれば、彼をまた十数メートル吹き飛ばすことが出来る。この角度で放てば、窓を破り外へ放り出す形となるが。レニもそれを承知しているだろうに、平然と食事を続けていた。


 ごくり、と口内に溜まったものを飲み込んでから深呼吸をし、告げる。

「あなた、馬鹿なの? ここであなたを昏倒こんとうさせれば、わたしは自由なのに」

 かしこまる必要は無いと言われたから、思い切ってここでかしこまるのをやめた。主導権を得るためでもあった。


 ちょうど口にものが入っていたレニは、上目づかいで慌てず咀嚼そしゃくを続け、飲み込み、一息付いて、ようやく返事を戻す。

「僕を昏倒こんとうさせる、なんてのが君のやりたいことなら、別に構わないけど。テーブルは汚さないように頼むよ。出来たら食後にしてくれるかな」

 淡々と食事を続けるレニ。


「そもそも、そんなことをしなくても君は自由って言ったつもりだけど。奴隷スレイブ商工会ギルド台帳だいちょうに君の名前は無い。登録を拒否したのを、君も見てたろ?」

「……」


 自由になっただけでは足りない。目的があってこの街に来たのだ。元々の性格、傲慢ごうまんさが戻ってくる。


 次の行動に思考をめぐらせる。雑に考えて選択肢は二つだ。

 一つ、魔術で気絶させて目的の品を探す。

 一つ、彼を脅迫しを吐かせ、奪う。


 いずれにせよ、まだこの構えを崩すわけにはいかない。どう動くかの思慮しりょを続ける――すると。


「……ああ、そうか。君の懸念けねんはこれだね」

「!」

 レニがペンダントを取り出した。母の形見。


「これのが知りたいから、すぐ撃たなかったんでしょ? 返すよ。元々君の物だ」

 その白く細い指で、こちらの手元に置く。


 印を差し出したのと反対側の手で取り、軽く確認する。

 ……本物だ。


 だが、求めていたものが戻ってきた感慨かんがいよりも、目の前に座る男の不自然さが脳裏を占めていた。自分をしばる何もかもが、一瞬にして全て消え去った。


「あなた……一体なに考えてるの……?」

「もういいから座って食べなよ。食べないなら貰うよ? 二人分食べるのはキツいけど、捨てるのは忍びない」

「……」


 印を解き、テーブルに着く。


 不快感の収まらない胃へ少しずつ、強引に流し込む。


 並んだ食事は思ったより薄い味付けの、自分好みの味だった。


 ***


「僕は少し出掛ける。昼には帰ってくるから、好きに過ごしてていいよ。出掛けるならじまりだけよろしくね」


 正面玄関前。小さめの鞄を手にしたコート姿のレニが、古びた鍵を手渡してくる。

「鍵はこれ。ああ、出入りはこの正面玄関だけ使って。管理が面倒で、他の扉は長いこと触ってもいない」

 外に出て、手を振りながら。


「じゃあね」

 扉が閉まる。本当に行ってしまった。


 監禁されているのではないかと扉に手を掛けるが、当たり前のように開く。それはそうだ。その気になれば今やもう、窓でも扉でも壁でも天井でも、好みの部分を吹き飛ばすことが出来る。鍵など意味はない。


 エントランスのソファに腰掛け、溜息ためいきを一つ。

 これからどうしよう。この街に来た、とりあえずの目的は達した。奴隷になったはずだが、当の飼い主は自分をしばる気が無さそうだ。


 ウェラグナに戻ろうか。まだ期限に余裕はあるが、卒業手続きだけでもしに学術院カレッジへ……。


 学術院カレッジ。そうだ、わたしは。制服姿でストリップをして、あんな目にあって。

 あんなものがもし、院に知れ渡っていたら……。


 その瞬間。


 一瞬にして流れる映像。壇上だんじょうの制服姿の自分。さらす下着。さらす肌。壇上だんじょうに上がる男。もてあそばれる身体。

「う、ぐ……!」

 今さっき食べたものを戻しそうな、激しい不快感に苛まれる。今のがあの護衛達が言っていた、圧縮された映像、なのか。


 思考が理解する前に、身体が先に嫌悪感を泡立たせる。鳥肌が立つ。一度思い返してしまえば、連鎖的に沸き続ける、感触、感触、感触……。

「うぁ、あ、ぁああ……」


 ソファに横になり落ち着こうとするも、次々に湧く見えざる手から、舌から、肉の塊から逃れるように……結果、のたうち回る形とたる。

 この光景を誰かが見たら、死ぬ間際の虫の物真似ものまねと思うかも知れない。誰かが見ていても、そうしたかも知れない。


 実際自分自身、もはや虫けらのようなものかも知れない。身体中をもてあそばれ、もがき、泣きわめき、その様で男達をたのしませるだけの、生き物。その本質は、きっと今も変わらない。あんなにも身体を濡らし、あんな声で鳴くのだから。同じことをされれば、きっとまた、ああなる。


「あぐっ!」

 平衡へいこう感覚を失い、ソファから落ちる。柔らかいカーペットが幸いし痛みは少なかったが、それどころではない。いてくる黒いものは消えない。消えない――。


 再度の圧縮映像。

 いくらきつく目を閉じても、それはまぶたの裏に展開される。


「ひ……ぎっ……‼」

 震えが止まらない。寒い。服を着ているはずなのに着ている気がしない。まとわりつく指は直接肌に触れている。胸に。脚の間に。その奥に。入ってくる。指も、指以外の何かも。


 寒い、そのはずなのに内側は熱い。

 自分自身も、侵入してくるものも。


(いや……いや……‼)

 また、映像。一定のスパンで、何度となく繰り返される。


「……い……や……ぁあぁああぁ……っ……!」

(……誰か……誰か助けて……‼)


 ――と。


 ふわりと宙に浮く感覚――いや、背中と膝の裏で、何かが体重を支えている感覚。


「大丈夫?」

「レ……ニ……」


 心配そうにのぞき込むその顔の位置から、自分が今抱きかかえられているのだと、気付いた。


 ***


 そのまま昨晩寝た部屋まで移動し、ベッドに寝かされた。

 タオルで軽く、顔と肩の汗をかれる。


「やりたいことすればいいって言ったのは取り消しだ。しばらくは横になってて。それだけしてて」

「……」


 目に入った壁の時計は、昼前の時刻を示していた。

 レニが外出してから二時間ほど。そんなに長い時間、自分は――。


 そっと額に、外気に冷やされたレニの手が触れる。

「熱は無いみたいだね。どっか痛い?」


 ただの質問。

 それなのに、その言葉で涙が止めどなくあふれて。

 やがて崩れ落ちるように泣いて、泣き続けてしまった。


 レニの手は、ずっと頭をでてくれていた。

 その間、襲いかかる映像も、この身にうごめく黒いものも、大人しくなっていた。

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