重なり合う影

 三食を取る以外は、ほとんどをベッドで寝ているだけの生き物。屋敷で過ごす最初の日々は、そんな感じだった。


 倒れた後に、すぐレニが手配してくれた操魔士ソーサラーの医者。埋め込まれた映像の解除は厳しかったが、そもそも特定思考をトリガーにした術式はそう長くは保たない。せいぜい一~二週間といったところか。精神の安定や入眠に繋がる錠剤などを処方され、自然回復を待つ流れとなる。

 それでも一人で思いにふけるとどうしても思い返し、あの映像が流れる。気を紛らわせるものが必要だった。


 レニが屋敷に居る時は、枕元で話をしてくれた。いつぞやと同じ、中身の無い軽薄な会話。最初のうちは何も返答が出来なかったが、だんだんと一言二言返せるようになり、やがてある程度はまともに会話が出来るようになってくる。初めて会った時ほど、とは言わないが。


 数冊の本を貸してくれた。いくつかのジャンルの小説。一人でいる時はそれらの活字と向き合った。聞いたところによるとうち一つはレニが書いたものらしかったが、それがどれかは教えてくれなかった。借りたものを読み終わった後、屋敷の書庫を好きに漁って良いと言われる。屋敷の三階の大半を占めていたそれは、のぞいてみたところ膨大な蔵書があり、読み物に困ることは無かった。


 食事を共にして。とりとめなく話し。一人の時は、書庫から本を見繕い。時おり、戻ってきたペンダントを握り、過去に思いを馳せて。それで、少しずつ少しずつ、黒いものが消えてゆく感覚があった。寝付きと寝起きの悪さ、頭をめ付けるような慢性的な痛みは、しばらく直りそうに無かったが。


 ***


 気持ちに余裕が生まれ、ひも同然の生活にさすがに悪い気がしてくる。レニに申し出て屋敷のことを手伝うようになった。掃除、洗濯、食事の用意、買い出し。


 初めて外に出る日は怖かった。あの夜に居た男達と、うっかり出会ってしまわないか。彼等の顔は、一人たりとも忘れはしない。鉢合はちあい、あの時を揶揄やゆなどされたら、自分はどうなってしまうか。乱された感情で、魔術を制御できるだろうか。これまで通り加減できるだろうか、殺してしまわないだろうか。

 ――だが幸運にもそんなことは無く、その日は無事に外出を済ませることが出来た。それ以降もこの街で、彼等と出会うことは一度として無かった。


 今更ながら、この広さの屋敷を一人で維持しているのは驚きだった。時折ときおり雇っていると聞いたハウスキーパーとやらは一度も見かけず、レニ自体そこまで手際が良いようには見えなかった。自分を戦力と数えても、せめてもう一人くらい居ないと回らないだろうに、なんとかなっているのが不思議だった。


 不思議と言えば、そもそも屋敷に護衛の類が一切居ないことも気にかかった。精神体の魔素マナタイプと容量で個人認証を行える今の時代、預金や資産の類は銀行に預けておけるから良しとして、命が惜しくはないのだろうか。この街はお世辞にも治安がいいとは言えない。小金持ちの若者など、強盗や闇社会の格好の餌食えじきだろうに。自分がここに居る間は、自分を護衛として換算しているのだろうか。それを見越して首輪を外してくれたというなら辻褄つじつまは合うのだが、これまでのレニの様子を見ると、あまりそうは思えなかった。


 ***


 圧縮映像が消えて無くなった頃には、ほぼ元の自分を取り戻せた。元々の目的、為すべきこと。その使命感が高まってくる。でも、その前に。


 今の自分が、一体何で出来ているか、何で成立しているか。それを自覚する。恩には報いなければならない。代価だいかを支払わなければならない。こんな家事手伝い程度のことで、それを返せているとはとても思えない。


 今出来ることは何か。今の自分に、支払えるものは、何か。


 ***


「……それで全っ然名前思い出せないまま数十分話した挙げ句、怒られるの覚悟で『ところで失礼ですけど、お名前なんでしたっけ?』って聞いたらさ。向こうも僕の名前忘れてたみたいで。ホント助かったよ、僕だけ超失礼な奴になるところだった」


 レニが仕入れてきたばかりの笑い話に、軽い笑みをこぼす。


 彼の話を聞いている限り、交友関係はそれなりにあるものの、あまり他人に深く立ち入らない様子だった。仕事の取引先とのやり取りや、酒場で会った人間と馬鹿話をするのが主のようだ。友人が屋敷にたずねてきたことも無い。


 ワインを片手のレニと、寝る前の対話。普段どおりの光景。

 ――だがきっと今夜は、普段どおりで無くなる。


「……もうこんな時間か。楽しい時間はあっという間だね」

 壁の時計を一瞥いちべつし、告げるレニ。机上のデキャンタもちょうど空になっていた。グラスの残りを一息で飲み干す。赤みがあまり顔には出ないのは、アルコールに強いのか、化粧のせいなのか。


「じゃあ、そろそろ寝るね。おやすみ」

 レニがデキャンタとグラスを手に、立ち上がろうとしたところで。


「……なんで、そんなに優しいの」

「え?」

 切り出す。普段どおりを、壊しにかかる。


「ここに来てからずっと、あなたはわたしに何もしないし、何も求めない。あんな大金をはたいてまで、わたしを買ったのに」

 ずっと聞けなかったこと。何よりの疑問。


「どうしてこんなに、わたしに優しくしてくれるの? こんなことをして、あなたに何の得があるの?」

 道理に合わぬこと。不条理。違和感。


「あなたが何を考えてるのか分からない。それが――怖い」

 まず何より、相手の気持ちを確認したかった。だから、正直な心を吐露とろした。


「――ごめんなさい。こんなこと……言える立場じゃ、ないのに」

 施しを享受きょうじゅする身からとは思えぬ、厚かましい質問。最後に形ばかりの謝罪を添える。


 すると、レニが手を握ってくれる。


「……そんな大層なことを考えてるわけじゃない。ただ何となく、君の力になりたいと思っただけだ。それだけじゃ、納得できない?」

「……」


 これを、ただの善意で? 納得には程遠かったが、それが本当なら何という聖人だろう。


「君に何もしないのは、君が嫌がることをしたくないからだ。今は落ち着くまで、ここでゆっくり休むといい」

 欲をほのめかした、ように思う。が、それは果たして本心なのだろうか。


「……おやすみ」

 レニが立ち上がる。行ってしまう。思わずそのそでつかみ、止める。


「ん?」

 鼓動が高鳴る。言葉は、あらかじめ用意していた。でも、口に出すことがどうしても出来ない。


 立ち上がったレニが、椅子に座り直す。

「何か、話したいことがある?」

「……」


 ある。話したいことも、してほしいことも。


「……レニ、は……」

 確認を重ねてしまう。だめだ。怖い。


「わたしが、抱きたい……?」

 顔を見ずにうつむいたまま。しかも、恐ろしいほどの小声になってしまった。


 時が流れる。

 聞こえただろうか。

 反応が無い。

 伝わったかどうか怪しい。

 顔を見る勇気は無い。


 もう一度、言わなければならないかと覚悟を決めた頃。


「抱きたい。叶うことなら」

 こちらに合わせ、小声で返してくる。

 頬が熱くなる。


 もう、これでいいじゃないか。そう思っても。

 もはや確認というより、脅迫に近い質問を投げてしまう。


「……あんな、真似をされた……汚れた……女でも?」

 最後の方は、涙声になってしまった。


 自分に出来ることをしたい、でも。拒絶されるのが、怖い。何よりその理由が、あの夜の汚辱おじょくによるものだとしたら。汚れた自分をより一層、自覚してしまう気がした。消えつつあるあの黒いものが、戻ってきてしまう気がした。


 何処どこまでもまとわりつく、終わらない呪い。


 けれどレニは。こちらの下げたあご先を一つ指で持ち上げ、強引に視線を合わせて。

 いつも通りの、これ以上なくいつも通りの口調で。


「あんなことで、君の魅力はかげらない」


 おおよそ日常生活では使わない言葉の並びを、笑顔でさらりと言い放った。これまでの彼を考えれば、さほど驚くには値しない、いつもの軽薄な台詞せりふとも取れた。だがこの時は。


 乾き切った砂に差し込まれる水のように。全てを包みこみ、奥までを潤す、優しい言葉に、思えた。

「――」


 自分は一体、どこまで甘やかされれば気が済むのだろう。

 もはや笑えてくる。

 その後押しで、笑顔が作られる。

 用意していた言葉を、ようやく口に出来る。


「あなたがわたしに、したいことがあるなら、してほしい。わたしは、あなたのものだから。……それに」

 用意していた言葉に続け、たった今芽生めばえた、素直な気持ちを付け足した。

「あなたになら……きっと、何をされても嫌じゃない」


 ***


 ベッドに入ってくる。息を飲む。


 男の人の、自分のものではない、匂い。熱。

 不思議と嫌悪感は薄い。

 それどころか。


 同じ枕に頭を乗せ、しばし見つめ合う。

「本当に、平気?」

 レニが聞いてくる。少しの間を置いて、うなずく。


 顔を近づけてくる、自然と目を閉じる。


 唇に、湿った感触が伝わる。

 最初は薄く、優しく、ほんの数回。

 ノックをするように、中に住まう住人の許可を得るように。


 それを経て。次の接触は、圧力を伴う、深い触れ合いとなった。葡萄ぶどうの風味が広がる。形を確認するように、吸い込むように、唇で唇を、でてくる。こちらも、相手と同じ動きを、可能な限り再現する。水音が立つのを抑えたかったが、向こうは気にしていないようだった。


 やがて、唇とは別のものが侵入してくる。歯を開き導き入れ、舌先を触れさせ、絡め合う。


 ――何故かあの時が、思い起こされた。故郷こきょうを失った日の、騎士の唇。


 重ねてしまっているのかも知れない。自分の命を救ってくれた人と、自分が悲惨な奴隷に落ちるのを救ってくれた人。


 唇が離れる。視線が合う。蒼い瞳。その中に、自分の輪郭を確認できる程の距離。


 他の男性を想いながら抱かれるのは、あまりにも礼を欠く行為だ。

 レニの瞳を見据える。自分がこれから抱かれるのはこの人だと、強く認識する。


 その視線が下に落ちる。服の結びを解かれ、胸元をはだけられる。

 あんなにも明るいところで一度見られているから、抵抗感は薄かった。


 指がふくらみの根元あたりに触れ、優しく持ち上げられる。

「ん……っ……」

 ぴくりと肌が反応し、声が漏れる。


 指先がしばしその動きを繰り返した後、そのままゆっくりと、肌を伝い、先端に向かう。あの時、少し触られただけで固くとがり、大きな刺激と快感を何度も流し込まれた、その箇所に。


「……‼」

 つい手で振り払おうとしてしまうが、その反射の挙動を必死で堪える。受け入れると決めたし、そう言った。


 だがその分、全身がこわばる。石のように。止まらぬ震えはそのままに。

「……」


 敏感なその箇所への進行は、中断された。

 軽く抱き寄せられ、しばし髪と肩をでられるだけの優しい動きになる。


 こちらのあまりの緊張が、見るに耐えなかったのかも知れない。


「まだ、怖い?」

 レニがたずねてくる。軽くうなずく。


「何が怖い?」

 何が? 何が……だろうか。きっと、言葉にはしきれない怖さがそこにはあった。でも、無理やり言葉にする。


「レニが、わたしの身体を、気に入ってくれるか、怖い」

 そうだ。それは何故? 


「誰かと比べられて、失望させてしまうかと思うと、怖い」

 掘り下げてゆく。自分に眠る恐怖を。形にしてゆく。


「あんな目にあったわたしに触れるのが、本当は嫌なんじゃないかって思うと――怖い」

 次々にいてくる――いや、もぐればもぐるだけ、隠していた黒いものと、向き合っているに過ぎない。


 止められない。理由なんて無限にあった。そのことに気付かされる。

「それにわたしが――っ……」


 続く言葉を、唇で塞がれる。

 先ほどの口付けよりも、深く、深く。


「んむ……っ‼ ん……‼」

 荒れ狂う唇、舌。

 先程のそれとは、あまりにも違う激しさで。


 思考がとろけ、丸ごと押し流す力強い快感が、唇から脳髄のうずいへと、稲妻のように駆け巡る。


 両手の指が絡む。

 指先の力強さが、掌をめ付ける。

 シーツに深く押し付けられ、沈む。


 このまま、喰い殺されるかもしれない。

 それほどの。


(――……)


 唇が離れて初めて、胸の鼓動が凄まじい音を奏でているのに気付く。


 息は乱れ、まぶたにじみ。

 ――そして先程の恐怖は、気付けば綺麗きれいに流されていた。


「じゃあ、証明しないとね」

 左目の視界をわずかに覆っていた髪を、指でけてくれる。

 そのまま頬をでてくれる。


「僕がどれほど、君を求めているか」

 身体の何処どこかで、何かが、め付けられる。


 ああ、もう駄目だ。

 自分の何もかもを、この人に奪ってほしい。

 塗り潰してほしい。


 小賢こざかしい打算も。

 つまらないこだわりも。

 この身に眠る、黒いものも。


 全て壊して、めちゃくちゃに、してほしい。


「わたしが……もし嫌がっても、もうやめないでほしい。最後までしてほしい」

 覚悟を告げる。今のうちに。乱れる前に。

「どんなことでも、受け入れるから」


「……わかった」

 レニの指がもう一度、下に伝った。


 ***


 汗ばむ硬い胸の中、髪をでられながら。こちらがまだ断続的に震え、呼吸が落ち着かないのを見てか、レニがたずねてくる。

「……大丈夫?」


「わから、ない……どうにかなっちゃいそう……だった……」

 玩具のように扱われたあの日とは違う、柔らかな交わり。


「すごく……きっと、気持ちよかった……んだと、思う……。びくびくしすぎて、よく、分からなかった、けど……」

 何を言えば喜んでもらえるだろう。そう思い口にした言葉は、取りめがなかった。


「レニ、は……気持ち、よかった……?」

「うん、すごく。幸せだった」

「……」


 頬をこすり付ける。せめて、初めてはこの人がよかった。あの時、最初の相手になってくれていたら。そんな欲張りなことを思ってしまう。


 こちらのまぶたが薄くなってきたのを確認したのか。その唇を耳元に寄せて。

「じゃあ、おやすみ」

 レニは静かにそう告げて抱擁を解く。ベッドの中を泳ぎ、外に降りる。置きっぱなしになっていたデキャンタとグラスを手に、そのまま静かに扉へ向かう。

(えっ……)

 寂しさが眠気を押しのけ、慌てて上体を起こす。


「行っちゃう、の……?」

 発した自分でも驚くほど、びたニュアンスが混じってしまった。瞬間的に恥ずかしさが沸き立つが、先ほど何度も上げた声に比べれば大したことはないと思い直す。


「一緒に寝たい?」

「……うん」

 もはや羞恥心が麻痺しており、素直にそう返せた。手にしたものを机に戻し、ベッドの中に戻ると、レニはもう一度抱きしめてくれた。


 ***


 その夜は久しぶりに、穏やかな気持ちで寝ることが出来た。

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