彼女は思い出す

「……やっぱり、そのままになってる」

 私はアパートに帰ってきて、ポストを確認したところだった。

 ゴミ袋に収まったノートが郵送された封筒のように顔を出していた。


 指先でつまむように取り出すと、ポスティングのチラシが何枚か地面に落ちた。

 私はそれらを拾い上げてポストに戻した。


 ノートを入れたゴミ袋は少し埃をかぶっていたが、大して汚れてはいなかった。

 中身も同様で、最初に見た頃と大して変化は見られなかった。


「さてと、これをどうすればいいんだろう……」


 どうにか戻れたのはよかったが、対処しきれないままだと気づいた。

 ポストの前で立ちつくしているわけにもいかないので、部屋に入ることにした。

 

 ――結果的に、Dクリニックへ行ったことは正解だったと思う。

 変更された薬が功を奏したのか、私の体調は少しずつ持ち直していた。


 時間と共にアパートに戻ることへの恐怖心は薄れていき、一度様子を見に行くべきという判断ができるようになった。


 私は換気のために部屋の窓を開け放った後、薬の入った袋の存在に気づいた。

 M病院で出されたもので、ホテル生活を始める時に忘れたままだった。


「……結局、飲まなくていい薬だったんだ」

 本当は飲み続けるべきだったのかもしれないが、しばらく飲まなくても平気だったし、絡みつくような悪夢を見なくて済んだ。


 ――それに副作用で入眠後の幻覚があるから。

 唐突にO医師の言葉が脳裏をよぎった。


 先生はこの薬に対して、嫌悪感に近いものを抱いているようだった。

 専門家が眉をしかめるほどなのだから、決して身体にいいことはないだろう。


 私は複雑な気持ちで薬の入った袋を手に取った――


「あれ……ほんとうに全部夢だった……?」

 私は都合の悪いことを都合よく忘れているような感覚に陥った。


「……えっ、そんなはずは――」

 散り散りの破片が連なるように、何が起きたのか思い出してしまった。



 ――あるいは、その出来事を夢ということにしておきたかったのかもしれない。


 N美とノートを捨てたあの日、彼女が帰ってから薬を飲んで眠りについた。


 それからしばらくして、私は夢の中で部屋の外を歩いていた。


 おぼつかない足取りで、私は意識のないままどこかに向かっていた。


 やがて、私はゴミステーションに捨てておいたノートを拾い上げて持ち帰った。

 

 そして、何を思ったのか、ポストに入れてしまったのだ。



「…………夢じゃない、私が自分で運んだんだ」

 祖母の亡霊でもなければ、見知らぬ第三者でもなかった。


 薬を飲んで朦朧とした状態で、自分自身の手で行ったのだ。

 私はその顛末をどう受け止めればいいのか分からなかった。

 

 事態を消化しきれずにいると、窓の外を楽しげな母と子が歩いていった。

 その光景がまるで別世界のことのように感じられた。


 ……休日の昼下がりに私は何をしているのだろう。

 ノートの存在が忌々しく思え、力の限りに握りしめた。


 そんなことをしても意味がないと気づき、余計に虚しくなった。



 それから数日が過ぎ、O医師との二度目の診察日が訪れた。


 時間通りにDクリニックへ行くと、すぐに自分の順番になった。


「どうもどうも、体調はいかがですか?」

 O医師は最初と同じように親しげな雰囲気だった。


「おかげさまで、だいぶ良くなったと思います」


「ほうほう、それはいいですね」

 先生は素直に喜んでくれたように見えた。

 私の状態を記録するためなのか、手早くキーボードに入力した。


「……あの、薬のことを教えて頂いても大丈夫ですか?」

 私は恐る恐る質問をした。最初の薬について聞きたかったから。


「どうぞどうぞ、何か気になることがでてきましたか?」

 先生はゆったりした口調でいった。


「前に副作用で幻覚が出ると聞いたんですけど、その……夢遊病みたいに寝ながら行動してしまうことってありえますか?」

 知らず知らずのうちに相手の様子を窺うような話し方になっていた。


「単刀直入に言うなら、答えはイエスですね」

 医師はそう言ってから、前回見せてくれたプレートを出した。


「ええと、Tさんが最初に出されたのがこれ」


「はい、そうですね。説明してもらいました」

 私は指さされた薬の名前を覚えていた。


「幻覚というのは副作用の一部にすぎません。おっしゃるとおり、夢遊病のような状態になる人もいますね。昔は手を焼いたもんですが、今は出さなきゃいいだけの話ですから」


「……そうなってしまう人が実際にいたんですね」

 

「まあ、最近は滅多に聞かないですがね。それはネットかなにかで調べられた? それとも……はいはい、そういうことか」


「……お察しのとおりです」

 全てを話さずとも先生には伝わったようだ。


「信じて頂けるかは分かりませんが……」


 私は朦朧とした状態でノートをポストに戻した出来事を話した。

 祖母に対する感情も大まかな範囲で打ち明けた。


「ほうほう、そうなると無意識にしたかもしれないけど、結局のところはよくわからない、そういう解釈になるのかな」

 先生は半信半疑といった様子で、話の内容を吟味しているように見えた。


 私は内心、専門家なら明確な答えを出してくれると期待していたのだろう。

 腕組みをして考えこんでしまった先生に少しばかりもどかしさを感じた。


「そうかそうか、そういうことなら、腕のいいカウンセラーがいますから」

 医師はそう言って、引き出しから一枚の名刺を取り出した。


「……カウンセラーですか?」


「薬を調整してそういった状態を回避するは医者の仕事。ただまあ、おばあさんへの恐怖心や葛藤は時間がかかるかもしれないし、私の出る幕はない」

 

 そう前置きがあってから、カウンセリングについて簡単な説明を受けた。

 保険が利かないというのは少し痛かったが、O医師が信頼しているなら腕は確かだろうと思った。


「Yくんは患者さんの評判がいいから、Tさんの力になってくれるはずだよ」


 医師は体調に違和感があれば、いつでも薬の調整はできると補足してくれた。

 良き父親のような人だったので、診察の時間が名残り惜しく思えた。



 しばらく何事もない日々が続き、初めてカウンセリングを受ける日になった。


 私は緊張した状態で、Yさんのカウンセリングルームを訪れた。

 雑居ビルの三階に入っていて、廊下からは小さなオフィスみたいに見えた。

 

 ノックしてから扉を開けると、椅子に座って読書中の男性が目に入った。


「――はじめまして、カウンセラーのYです。本日はようこそ」

 白いシャツの上に紺色のジャケットを羽織っており、爽やかな好青年という印象だった。とても若そうに見えるが、O医師の話では三十代半ばか後半らしい。


「あっ、すいません、少し早すぎましたか」

 Yさんの読書を邪魔してしまった気がした。


「いえいえ、お構いなく。それでは、こちらに腰かけていただけますか」


 部屋の中心に丸机が一つ、そこに斜めに向き合うように椅子が二脚。

 落ち着いた色調の茶色い椅子は少し高級そうに見えた。


 Yさんは準備が整ったようで、一枚の書類を持ってきた。


「O先生からのご紹介なんですね。先生は患者本位の治療をされる方なので、安心して治療に専念していただけますよ」

 

「そうですね、たしかにそうだと思います」


「本日は初回ですので、まずは必要書類に記入していただいてもよろしいですか」

 私は名前や住所、連絡先などを書きこんでいった。 


「――ありがとうございます」

 Yさんは確認を終えてから、書類を奥のスペースに持っていった。

 それからすぐに戻ってきて、もう一度椅子に腰かけた。


「それでは、カウンセリングを受けようと思った経緯を話していただけますか」

 

 私はどこまで話してよいか考えながら、少しずつ祖母に対する感情について話していった。

 仕事が上手くいかなくなって苦しかったこと、心療内科に行くことになって不安だったこと。


 Yさんが遮らずに聞いてくれたことで、自分が感じていたことをどんどん話せるような気がした。

 指定時間の五十分はあっという間にすぎてしまい、この日のカウンセリングが終わる頃には心が軽くなっていた。


「それではまた、次回の時間にお会いしましょう」


「はい、失礼します」


 雑居ビルを出て頭上に目をやると、初秋の美しい青空が広がっていた。

 ――きっとだいじょうぶ。自然とそう思える自分がいた。

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